2018年06月10日

戦没者と音楽を冒涜する愛国ソングをディスる烏賊したラップがマジで聴きたい☆YO!!

■うるさい愛好家が本物を育てる

 音楽は正しい解釈をするために聴くものではない。作者の個人的経験や主張が込められているとしても、素人が容易に作者の精神分析を為しえ、その知的レベルを判定できる薄っぺらい作品はそもそも私には聴く意味がないが、どうしても我慢できないので言いたい。

 まず初めに、愛国ソングに対する批判を「言葉狩り」だと怒る者が多いが、趣味の悪いダサイ愛国ソングを世間に堂々と発表する自由があるのなら、それを批判する自由もないとおかしい。その自由を認めないのはフェアではない。それになんであれ本物というのは批判によってしか育たない。その理由を私は2013年「一流には賞賛を、二流以下にはブーイングを 違法ダウンロード禁止法を廃止にする超簡単な方法 煙草とアロマ柔軟剤とJ-POP」で既に書いている。





 ネット上に散見するJ-POP批判の数々には思わず噴き出してしまう。つっこみどろこが多すぎるのだから仕方ないのだが、ああいえばこういうで、J-POP批判に対する批判もある。その多くは、嫌いだということをわざわざ公言するな、歌手がかわいそう、好きな人は嫌いだと言われると傷つくから人の気持ちを考えろという主張に集約できる。ようは思っても口にしないのが大人のマナーだというわけだ。


 中略


 批判する側はあくまで彼が臭い屁をこいていることを問題にしているのであって、こんな臭い屁をしている彼はキチガイである、この世に存在する価値ない、今すぐ自死すべきである、とまでは言っていないのである。屁をこいた彼は臭い屁をこかないように食生活を根本から改善すべきだという事実があるだけだ。彼が屁をこかなくなればみんなも彼も助かるわけで、思ったまま評価を与えてあげることは彼にこれ以上恥をかかせないようにしてあげる善意である。

 J-POPをうんこにたとえてみても同じことだ。公衆の面前でうんこをしている奴がいたら即通報だし、自分の家の前でうんこしている奴に遭ったら、ぶっ殺すしかない。だから道で想定外のうんこを踏んづけてしまった時のどこに怒りをぶつければいいのか感はハンパない。だから親は幼児から目を離しちゃいけないし、うんこに近づこうとする幼児を「ばっちいからダメ!!」と叱るんじゃないのか。

 どこからか聞こえてくる、聞かされる以上、たとえJ-POPであろうと公害を撒き散らすことは罪なのだ。罪である以上断罪されるべきである。友達同士のカラオケじゃあるまいに、自称アーティストのすっとこどっこいが薄っぺらい言葉を吐きながら自分に酔っているのは本当に虫唾が走る。無駄に増え続けているあたまからっぽのアイドルもしかり、耳の肥えた者にJ-POPはあまりに幼稚すぎて耐え難いのだ。クラシックの演奏者や指揮者、愛好家はそのことをよく知っている。

「AKBは生理的には受け付けない」ヴァイオリニストの激白で『火曜曲!』が有終の美を飾れず!!
 http://www.menscyzo.com/2013/09/post_6446.html


 中略


 臭いものを臭いと言えない。これでは息することにも気をつかう。

 ダメなものをダメと言えない。これでは職人、クリエーターが育つわけがない。

 間違っていることを間違っていると言えない。これでは正義は守られない。

 おかしいことをおかしいと言えない。これでは世の中が生きにくいったらありゃしない。



 理性、知性、感性の発達した大人を相手に音楽ビジネスを展開しようとすればそれなりのクオリティが必要である。大人の視聴に耐えうる楽曲というのはひとりのうまれつきの天才か、才能があって英才教育を受けた者か、長い歴史の中で人々のうちに受け継がれながら洗練され完成するものだろう。そしてその中から、うるさい愛好家の”おめがね”に合格したものだけが生き残ったのがクラッシク音楽である。

 クラッシックの愛好家は、よければよい、ダメならダメとはっきり言う。よいと思ったらブラボー、ブラーバで拍手喝采する。言って理解できる者には何がどうダメなのか教える。言って理解できない者にも何がどうダメなのか教える。とにかく黙らない。金を払ったコンサートでもダメなら最悪聞かずに帰ってしまう。それで演奏家や指揮者が交代させられたりする。一言で言って、


 プロフェッショナルの音楽というのはプロフェッショナルの客によってのみ誕生するのだ。


 音楽を愛し真剣に取り組んでいる者は音楽を冒涜するようなものは全部許せないし、パーフェクトだけを求めているのである。料理でも芸術でもみんなそうだが、何かを極めようとするなら主体はあくまで作品なのであって作品がパーフェクトであるためには自分にも作品にも冷徹なまでに正直でなければならない。セカンドベストなんて最初からありえない。そういう神の領域のものに対して聴く方が、つくった人の気持ち、ファンの気持ちなど思いやっているようでは失礼を通り越している。だからうるさい愛好家は失礼な奴らに「このブタ野郎ども、あたま洗って出直して来い!!」と叫んでしまうのだ。



 また私はこのようにも主張した。


 レストランやホテルの品質品位を格付けするフランスのタイヤメーカー・ミシュランのガイドブックは今日世界的権威となっている。その成功の理由は、その格付けが確かだということにあるのはもちろんだが、飯屋や宿屋で不快な思いをさせられる人があまりに多いという現実がある。

 日本にはマズいラーメン屋が五万とある。日本では金を払わないことは許されないから、一度行ったら二度と行かないとしても、新規の客がいればマズくても経営が成り立ってしまうのだろう。そういう店の評価はネットでも当然芳しくない。料理のプロと同じ舌を持っていなくても不味いか美味いかくらいは8割の人にはわかるものだ。それに人の口に戸は立てられない。遅から早かれ客足は遠のくことになる。

 そうやって生まれては潰れて行くのがラーメン脱サラドリームというものだろう。だが誰かの夢が敗れても新しく夢を見る者がいる。だから日本にはマズいラーメン屋が五万とあり続ける。

 J-POPのように。

 
 ネット上でくらい、うるさい評論家になろうじゃないか皆の衆。端的に言ってレベルの低いものが跋扈するのは日本人の精神構造の問題だと私は思うんだ。リアルでは傷つけられること傷けることを恐れるあまりに建前しか言えないからネットは本音を言う空間としてリアルを補償するようになったんじゃないのか。
 
 おまえらもネットでの評判がリアルを変えていることはすでに気がついていると思う。メロリンQの山本太郎が無所属で参議院議員に当選したり、笑っていいともが打ち切られたり、みのもんたが番組を降板したのだってそういうことだろう。 
 
 そこで提案だ。J-POPにもミシュランのような品質品位による格付けをしてみてはどうか。もはやオリコンはレコード会社の犬で、初登場第一位即やらせなのは誰もが知っていることだ。有線のリクエストというのも組織的に水増しできるから当てにならない。

 J-POPの品質品位を低下させてきた諸悪の根源にこの売り上げ至上主義、リクエスト至上主義があると見る向きも多い。ならば楽曲、歌唱、演奏の品質品位だけで評価してみてはどうか。ゴットタレントみたいに評価するのはプロでもいいが、ネット民が2chでするのもいい。

 YouTube、ブログ、twitterのコメントはすぐ消されてしまうからダメだ。業者やファンをブロックした場でダメなものは徹底的に叩き、よいものには星をつけて評価する。作り手や歌手はその評価を見て反省すべきところは反省し次回作製作の活力源にする。そうすれば評価に値しないものは消えていくし、駄作が安易に量産されることもなくなるのではないか。

 なんであれ劣悪で不快な商品や企業を淘汰することは価値ある本物だけを残すことだ。それはつまり文化水準を高めることである。素人同然のアイドルやカラオケが本物のエンターテナーやアーティストより稼げるなんてフェアじゃない。本物のエンターテナーやアーティストが、その才能と実力で評価されないのなら、彼らは何をして飯を食えばいいんだ?大阪のホテルの食材偽装みたいにどうせわかりゃしねぇんだからと安物を高級品のように演出してボッタくってる奴らなんて消えればいいに決まってる。
 
 私はただ純粋に美味いラーメンが食いたいし、J-POPであっても会いたくて会いたくて震えるwww曲が聴きたいんだ!!笑

 なぁ、おまえらもそうだろ?


 「沈黙とは、自信なき者の最も安全な手段である」(ラ・ロシュフコー)


 正直者たちよ、決してその口を黙らせるな。正直者がバカを見るアンフェアな世界に肘鉄を食らわせてやれ。この世界はおれたちが創るんだ。(寸)




 

 以上について理解同意できた者だけ以下、読み進めて欲しいと思う。





■NIPPONチャチャチャ

 昨今、ソーシャルネットワークの発達によって素人にも発表の機会が増えたことで猫も杓子も歌を歌うようになった。パソコンさえあれば、それっぽいのを誰でもつくれるせいで、音楽未満でも、若さ、カッコよさ、可愛さというアベレージがあればファンがついて売れている。もはやアーティストという言葉は形骸化し、自意識過剰でコミュニケーション下手な歌い手のほうが若者には親近感がある。経済的自由のない生活にしっくりくる虚無感や虚脱感が表現されて共感されている。

 だがそういう流行歌には何の価値もないとまでは言えない。流行歌は一時でも現実を忘れさせる夢を見させてくれるのだし、中学生にも高齢者にもわかる歌は世代を繋ぐ。こどもたちが、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に口ずさめる歌があっていい。若者にしかわからない歌があっていい。確かに、音楽の世界は多様性を担保している。ファストフード、ファストファッションがあるようにファストミュージックも必要だ。ファストミュージックは家事のお供や喧騒やショッピングや暇をかき消すBGMになる。ただしコンビニのスイーツみたいな音楽は、来月には新商品に入れ替えられてしまう。新規性、高揚感だけを追い求める人間はいつでもいつまでも飽きっぽい。

 自意識を垂れ流すだけの歌には耳を塞ぎたいが、好き嫌いは個人の趣向で決まるのだから、他人の趣味をとやかく言うことはない。だからスルーできるものはスルーすればいい。だが、人々を、世代を、分断させてしまうような歌の危険性は無視せずに批判すべきだと思う。

 知識人は老害と言われようとその手の歌を大声でディスってほしい。売れることが正義、売れている=世の中をつくってる、という思い込みは自惚れでしかないのだから。そもそも世の中を変えたければ歌なんか歌ってないで政治家になるかNPO活動をすればいいだけである。バカを批難したければどうとでも解釈できる曖昧さに逃げたりせず集会の壇上に立って演説をぶればいいことだ。

 昭和のフォークソング歌手に言いたい。調子に乗った反知性主義の小僧を見過ごし、懐メロ歌手として昔の歌を歌い続けることに甘んじているほうがずっと老害ではないか。道を踏み誤る若者を叱るのはいつの時代も老人の役目である。自分で創ったものを自分で壊すとしても、戦没者も音楽も冒涜する愛国ソングを叱ってくれないか。


 ゆずの北川は「ガイコクジンノトモダチ」についてこう言ってる。(引用元 雑誌「音楽と人」2018年5月号)

「文章にして読み上げるとかなり危険そうな内容も、ポップソングにしちゃえば、何だって歌にできるな、と思って書いてみたんだよね(中略)自分が大切だって思うことは、ちゃんと伝えたくて」



 つまり北川はこの歌を❛自分が大切だって思うことは、ちゃんと伝えたくて❜書いており、❛文章にして読み上げるとかなり危険そうな内容❜であるとちゃんと認識してる。

 J-castのインタビュアーに「かなり強い右寄りの思想を感じる」などと伝えられた北川は、

「危ないよね(笑)。でも音楽にすることでラッピングされちゃう部分をうまく使いたかった。あとこういう歌詞を唄うことで、みんながゆずに対して思ってることを壊したかったんだよ。それがいちばん大きいかな」

 引用元 https://www.j-cast.com/2018/04/09325688.html?p=all


 
 ❛こういう歌詞を唄うことで、みんながゆずに対して思ってることを壊したかったんだよ。それがいちばん大きいかな❜


 には強いナルシズムを感じる。


 以下の二点、


 ❛ポップソングにしちゃえば、何だって歌にできるな❜


 ❛音楽にすることでラッピングされちゃう部分をうまく使いたかった❜


 には音楽をどのように位置づけているかが垣間見えるか。


 ようはガイコクジンノトモダチも音楽も自分のナルシズムの道具なんだろう。こんな歌を人に聴かせて歌わせて喜べるのはナルシストだけだ。


 ❛自分が大切だって思うことは、ちゃんと伝えたくて❜と言いながら、ウヨもサヨも風刺しているかのような視点を入れて明確な主張から逃げているのは、論理的に批判されることを恐れているからだ。論理を情緒でバカにするのは論理的でない者のやり方である。ナルシストは批判を恐れるが自分を誇示したがる。注目や称賛を欲する。

 靖国神社の在り方には賛否あるが、死を悼む場所であることは明らかだ。後世の人間が身勝手な主義主張をするためのメルクマークでは断じてない。音楽は反知性主義の悪辣なナルシストがその劣悪な感情で自己主張するためのものではない。ゆずは戦没者も音楽もどっちも冒涜している。






■サッカーと愛国

 RADWIMPSの新曲「HINOMARU」も同様である。野田洋次郎はインスタグラムで、


 「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました



 という。なぜそんなウソを堂々とつくのか?素直に読むなら、この歌詞は右寄りな思想しか歌っていないではないか。

 
 ・古よりはためく旗→日の丸

 ・気高きこの国の御霊→靖国神社に眠る英霊

 ・日出づる国の御名のもとに→天皇

 ・僕らの燃ゆる御霊は挫けなどしない→大和魂、日の丸特攻隊

 ・たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ→日の丸特攻隊



 こじつけだと思うか?常識的に考えて、右寄りの愛国心がなければこのように直感的に解釈できる言葉は使わない、こんな歌詞は思いつかない、歌わない。

 愛国心とは


 日蓮宗系はすべからくカルトであるが、その日蓮宗系の右翼・展転社という出版社を名乗るツイッターがこう言ってる。


 
RADWINPSがHINOMARUといふ曲を発表して、さまざまな反響を呼んでゐるみたいです。
 『國の防人』編集部は彼らのさらなる日本への回帰を応援いたします。
  ちなみに、バンドメンバーの親族が本誌執筆者です。
 #HINOMARU

 1:41 - 2018年6月9日


 引用元 https://twitter.com/kuninosakimori/status/1005369302688542720


 これが事実なら、


「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました」


  
 という言葉は当然疑わしいものとなる。親族が右翼である者が、こんな歌を歌ったら、常識で考えて、同じ思想を持っていると直感するのが普通だ。

 HINOMARUの歌詞にある、

 
意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに


 というのは実際にそうなのだろう。日の丸を観たり、靖国神社に行ったり、軍歌を聴いたり、第二次世界大戦の映画を観たり、天皇を観たりすると、訳もなく懐かしくなる、熱い気持ちになる、敬意を表したくなる、そういう奇妙な感覚を持つ者がいるということは、そうでない人は知っておいたほうがよい。偽りの伝統やトンデモ神話、国家、血筋に自己のアイデンティティを見出す奇妙な人間がいることは知っておいたほうがよい。やみくもにバカにするだけでは彼らの愚かさをちゃんと理解してあげられない。


 ところで、私は東京ドームでプロ野球を観たことがあるが、野球やサッカーなどのスタジアムに行けば知らない人たちとも繋がっている錯覚が容易に手に入るだろう。みんなで歓声を上げて贔屓のチーム、選手を応援する時、人の理性は抑制され、情動が優位になり、思考は停止する。血潮が沸いて普段とは違う大きな声が出る。スタジアムに足繁く通うファンはその仮初の一体感に快感を覚えて病みつきになった者だろう。

 その手の輩は、「我々の応援が選手に力を与える、負けるのは我々の応援が足りないから」などと魔術思考を平然と展開する。


 HINOMARUのカップリング「カタルシス」はフジテレビのサッカーテーマ曲として依頼を受けて書いたようだ。いかにもサッカーフリーク向けの歌である。2011年にも「君と羊と青」がNHKのサッカーテーマ曲になっている。こちらはスポコンサクセスストーリー的内容だ。


 野田は「カタルシス」についてこうコメントしている。

 
この度、フジテレビ系サッカー中継のテーマソングを作らせて頂きました。最初にお話を頂いた時、そういえば“スポーツ”というテーマで曲を作ったことがなかったなと漠然と思い、イメージを膨らませていきました。学生時代ずっと音楽と部活をがむしゃらにやっていたものとして、スポーツの感動に日々刺激を受けるものとして、絶対この曲を形にしたいと思い、是非やらせてくださいとお受けしました。あらゆる境界線をとり払い、人々を一つにつないでくれるサッカーという競技と、この曲が一緒に皆さんのもとに届いたら幸せに思います。そして大会でどんな歴史的瞬間が生まれるのか、今から楽しみでなりません。


 引用元 https://natalie.mu/music/news/282165
 

 この思考から辿ればHINOMARUは、由緒正しき美しき誇り高き日本の応援団である皆さまの気持ちをRepresentation、代表しているつもりなのではないか。野田はインスタグラムではこう言ってる。

今日、『カタルシスト』が発売になります。早くも手にとってくれたみんなありがとう。
ぜひ、とことん、聴き込んでくれたら嬉しいです。あなたの血液を、全身を、決意を、たぎらせる曲であったら本当に嬉しいです。



 ようは日本という国に対しても魔術思考のサッカーの応援のような感覚だから、こんなことを歌ったら、若年者に、世の中にどういう影響を与えるか、ものごとの帰結を考えられないのではないか。その点は「五月の蠅」という悪趣味で反社会的な歌でとっくに証明されている。そもそもこんなにも悪趣味で反社会的な歌が市場に流通してしまう音楽業界に倫理を問いたい。「五月の蠅」も、「HINOMARU」も、発表することを許したレコード会社、喜んで聴いてる者も同様である。ともかく全員が狂人であることは自明である。
 

 音楽が、見ず知らずの人とも繋がりを感じさせてくれるものであることも自明である。その点はスポーツの応援も同じだが、サッカーが❛あらゆる境界線をとり払い、人々を一つにつないでくれる❜などというのは妄想である。何を観てそういうのか?私はスポーツには何の関心もないし、魔術思考の者とは永遠に仲良くなれないと思う。深夜、テレビでワールドカップを観て大騒ぎしているようなバカは本当に大っ嫌いだ。海外ではスポーツは常に賭けの対象であり、時に敵対するチームのファン同士が暴動を起こしている。

 
 http://sports.williamhill.com/bet/ja






■帝国のストックホルム症候群

 音楽は確かに思想も人種も性差も怨恨も超えて人々に繋がりを感じさせることができるものである。本物の音楽には分断されていたものに和解の光をもたらす力がある。誰にも血を流させずに。

 その神聖なる音楽を薄っぺらい情緒&ファンタジーに基づいた自己主張の道具にしかできないのは致命的に知性も道徳もないと言わざるをえない。

 本の場合、まともな出版社ならば執筆者は校正者、編集者から何往復もフィードバックをもらって自著を冷徹に批判的にチェックした上で出版に至るのが当たり前だが、ゆずもラッドウィンプスもそうした自己検閲の体制自体がないのだろう。アーティストを自称する者が、自分の言葉で自分の意見、思想を語り出した途端、バカを露呈するのは、ようは周りにイエスマンしかいないのである。安倍晋三、麻生太郎と同類、つまりは裸の王様だ。

 そもそも日本史、世界史の教養、グローバル感覚、いつの時代も幼稚なエゴで無辜の民を殺戮する狂信者や野蛮人への憤怒があれば、このどこまでも救いようのないこの世界への絶望があれば、

「日本に生まれた人間として、いつかちゃんと歌にしたいと思っていました」

「世界の中で、日本は自分達の国のことを大にして歌ったりすることが少ない国に感じます」


 なんてことは思わない。戦争プロパガンダで使用された単語を用いた歌なんか死んでも歌わない。

 異国異文化の人達を自分と同じ命ある、家族ある、人間と認めず、殺しても構わない者にしてしまう自己正当化にも行きつかない。

 自己の命を犠牲にしても国のために戦うなどという自己陶酔にも行きつかない。

 国という権力はいつの時代も常に暴走を警戒していなければならない危なっかしい代物である。現状、日本の政治は政権の意向のみを忖度し、嘘に合わせて事実を破棄し、修正し、民主主義を放棄し、暴力装置に成り下がっている。経済と福祉政策の失敗による親の貧困によって、こども達がちゃんとご飯を食べられないような事態にまでなっている。


 
自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える国であってほしいと思っています。


 ❛言える国であってほしい❜には同意するが、現状、日本を好きでいる、好きだといえる根拠がないし、❛好きと言える自分でいたい❜というのは意味不明である。国を母、妻、娘に置き換えればかなり気持ち悪い発想だ。


 自分を生んでくれた母をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える母であってほしいと思っています。

 自分と結婚してくれた妻をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える妻であってほしいと思っています。

 自分から生まれた娘をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える娘であってほしいと思っています。


 天皇、神に置き換えてもやっぱり気持ち悪い。


 万世一系の高貴なる天皇をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える天皇であってほしいと思っています。

 私を創造した唯一神をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える神であってほしいと思っています。
 

 

 音楽が人生そのものであり、嘘のない音楽をつくろうとしている人を私は知っている。だからこういう無自覚で無反省な嘘つきが薄っぺらいファンタジーを歌っていると物凄く腹が立つ。私は日本で生まれた日本人だが、由緒正しき美しき誇り高き日本というファンタジーを愛する者、妄想に基づいたヘイトクライムの浅慮さを心の底から嫌悪をしている。だからその手の輩は全く相手にしたくないのだが、音楽でこういうことをされてしまったからには黙っていられない。こんな程度の低い歌が日常的にラジオやテレビから流れてくる世界は絶対に耐えられない。

 そもそも歌の表現内容が自分の精神世界を出ないのなら、それはただの自己満足だ。そんな歌はpeeだ、pootだ、pooだ。トイレで便座に向かってひとりで歌っていればいい。


 ゆずの北川は雑誌「音楽と人」2018年5月号の中でこうも言ってる。

「こうやって思ってることをはっきり言うことも、ゆずとしてやり続けていくべきだと思ってる。ボロカスに叩かれるかもしんないけど(笑)。」



 なら遠慮なく叩いてやろうじゃないか。きみたちが見ず知らずの人達にネットで叩かれるのは、


HINOMARU
ただまっすぐに届きますように。 pic.twitter.com/McV51WYoX0
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2018年6月8日



 おめでとう、棒人間の正体が、まっすぐ届いた結果である。満たされない幼稚な自己愛を満たそうと音楽を道具にし、コミュ障の変な奴の振りで他人を騙している、本当はもっとスゴイはずの、人とは違う特別な私という自意識への罰だ。そんな自分はどこにも見つからなくてその実存的空虚を、地上で出会える唯一の神様「由緒正しき美しき気高き日の丸ファンタジー」で代償した結果だ。






■罪も恩も忘れる無責任共和国

 その代償を野田は早くも6月11日、HINOMARUについて謝罪することで払ったが、謝ったって批判は終わらないだろう。ネット民というのはウヨだろうとサヨだろうと非常にしつこい。愚か者よ、現実と過去をあるがままに認識する知力、向き合う勇気がない自己を呪え。以下、ツイッターに挙げた野田の言い訳全文。


戦争が嫌いです。暴力が嫌いです。どんな国のどんな人種の人たちとも、手を取り合いたいです。
終戦記念日やその他の歴史的な事柄を語る時、アジア各国でライブをする度、僕はなるべく自分のメッセージを伝えてきたつもりです。
時代に逆行するのではなく、前進しようと。二度と繰り返してはいけないと。
HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。
ありません。誰かに対する攻撃的な思想もありません。
そのような具体的な歌詞も含まれてません。この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。結果的にその曲で不快な想いをさせてしまった人がいたというのが何より悲しいです。
日本の歌を歌う上で歴史の上に成り立っているこの今の僕ら、その想いものせたかったので古語的な日本語を用いたのも一つの要因かもしれません。僕は色んな曲で古語を使うので自然な流れでした。
色んな人の意見を聞いていてなるほど、そういう風に戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした。これが僕の気持ちです。一つの嘘もありません。これからのキャリアや行動でもそうであることを証明していくつもりです。
どうか、皆さんに伝わりますように。
この先も、僕なりに自分のメッセージを伝えていきます。音楽で、活動で、この世界のプラスになるエネルギーとなれるように頑張ります。



 引用元 https://twitter.com/YojiNoda1/status/1006056258212786176/photo/1



 ここで注目すべき言葉をいくつかピックアップしてみよう。

 
 ・そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。

 ・一つの嘘もありません。

 
 安倍晋三、福田淳一前事務次官、日本大アメフト部・内田正人元監督もそうだが、病的な嘘つきというのは、

 「自分にとって都合の悪い事実が出てくると、とりあえず否定してその場を切り抜けようとする」。

 
 それも強く否定する言葉で。一ミリも、一つも、絶対に、神に誓って、こういう言葉を使う傾向が強い。その場しのぎの嘘というのは簡単に崩れるので、彼らは結局、あとから出てきた事実によって醜態を晒す。だが、彼らは「現実はこうあってほしいというファンタジー」だけに意識の焦点を合わせているため、嘘をつくこと、嘘がバレること、つじつまが合わないこと、罪を償わないこと、嘘で他人を傷つけること、これらに対する恥意識が非常に薄い。だからいくら嘘を指摘されても平然としていられる。嘘を繰り返す。


 もうひとつ、


 ❛色んな人の意見を聞いていてなるほど、そういう風に戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。❜


 野田は発売日当日にこう言っていた。

純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました



 つまり発売日当日には、聴く人によっては右寄りの思想を感じるだろうと認識していた。でないのなら、わざわざ、


純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました



 なんて前置きはしない。


 ❛戦時中のことと結びつけて考えられる可能性がある❜


 というのは発売する前から解っていたのだ。
 

 ❛どうか、皆さんに伝わりますように。❜は、悪いのは自分ではなく、理解してくれない人達と読むこともできる。なぜなら直後に、

 ❛この先も、僕なりに自分のメッセージを伝えていきます。音楽で、活動で、この世界のプラスになるエネルギーとなれるように頑張ります。❜

 と、開き直って話を終わらせてしまっているからだ。


 ❛一つの嘘もありません。これからのキャリアや行動でもそうであることを証明していくつもりです。❜


 は、アルコール依存症者、ギャンブル依存者、DV加害者、浮気した夫などによくみられる言動に似てる。俺の過去の罪は不問に伏して、これからの俺を信じてくれ、という裏切った人間がいう言葉ではない言葉、信じたところで裏切られる言葉に似ている。


 ❛時代に逆行するのではなく、前進しようと。❜


 は、日本がこれまで国際社会で信頼を回復するためにしてきた多大な努力を自虐史観だと宣い、過去の罪から逃げ、歴史を修正する自民党のCMもこれに準じている。





 安倍晋三のお友達・椎名林檎も2014年ワールドカップ中継のテーマ曲「NIPPON」への批判に、こう言っていた。


 「大戦中でもないのに、右か左かと問うのはナンセンス」

 
 椎名林檎は東京オリンピックに対してこうも言ってる。


 「国民全員が組織委員会、全企業が五輪に取り組め」…日本を覆う“五輪のために滅私奉公”の空気


 2020年東京五輪に並々ならぬ熱意をかける椎名林檎、彼女の誇る「日本」とは何なのか



 過去を水に流せというのは加害者の言う言葉ではない。被害者としてもそう簡単には言えない言葉である。

 
  
 ❛みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。❜には、やはり魔術思考のスポーツの応援と同じ、仮初の一体感への憧憬が見て取れる。どうやら野田が音楽を通して欲しているのは「人とのつながり」と見て良さそうだ。これは愛国心という祖国、民族への帰属意識と根を同じにするものだ。だから謝罪も早かったのだ。人に嫌われて集団から弾かれることは野田にとっては耐え難いはずである。


 さて、ここで許す奴は本当のバカヤロウだ。生まれてこの方、頭を使ったことがないはずだ。口で謝っただけでは何の代償にもならない。我々は謝罪の早さ遅さを怒っているのではない。

 まず言動を分析すると嘘をついていると断言はできないが、その可能性が高い。そもそも「祖国愛を歌いたいだけなら、わざわざ物議をかもすに違ない軍歌に聴こえる歌はつくらない。もっと別の表現を選んだ」はずだ。ここまでをまとめると真意はこうだろう。


 わたしのバンドメンバーの親族は右翼ですが、わたしは右翼ではないです。純粋に日本すごい!という祖国愛を軍歌テイストで歌っただけです。世間の人に戦時中のことと結びつけて捉えられることは最初からわかっていましたが、それはわたしの関知することではありません。わたしにとって戦争プロパガンダで用いられた言葉は、わたしの祖国愛を語る言葉として一番しっくりくるから使っただけです。わたしの特殊な意図を間違って捉えられてしまい悲しいです。でも凄い日本を愛する私の気持ちが間違っているはずがありません。凄い日本を愛さない人たちこそ間違っています。わたしは過去の日本の過ちの犠牲者よりも、反省と償いよりも、国際平和のための責任よりも、自分のお粗末な愛国心の方が大事なので、このままHINOMARUを歌い続けたいと思います。


 こんな幼稚な考えをファン=狂信者以外の誰が受け入れるのか?釈明にもなってない。こんな自己弁護を言われて、「祖国を愛して何が悪い」など宣われると、やはり真意は「影響されやすい青少年を唆すためのプロパガンダ」だろうと勘繰りたくなる。

 軍歌としてつくったんだから軍歌だととらえない奴は頭がオカシイ。だけどあくまでその意図でつくってねぇ設定だから、俺はこのままHINOMARUをジャンジャン歌い続けるけど、おまえらもう批判しないでくれ。嫌なら聴くな!

 本当は軍歌としてつくったんならそういうことだろう。謝罪の早さからすれば、ここまでの流れは想定済で事前にシナリオをつくっていた可能性も考えられる。

 
 このままこの歌が、五月の蠅も含めて、発売され続けるのなら、事態は何一つ変わらない。飼い犬の糞は飼い主が片付けるのがマナーだ。なんで他人が飼っている犬が糞をして回る度に、我々が片付けなきゃいけないのか。

 嫌なら聴くな!というのはフジテレビ論法「嫌なら観るな!」と同じ、論点のすり替えだ。糞を垂れ流して片付けないマナー違反は誰なのか?


 自分が招いた事態へ責任を取れないことが許されるとしたら、法律の定義からすると、その者は未成年だけである。

 本年6月13日、成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げることが正式に決まった。施行は2022年4月1日からとなる。飲酒や喫煙、公営ギャンブルなどは引き続き20歳からに据え置きだが、女性が結婚できる年齢は16歳以上から男性と同じ18歳以上となった。

 では成人の定義とは何か。それは現実的には有限だが、理論的には無限に責任を取る能力があると見做せる者の事である。個別にその能力の判定をするのは時間的に難しいゆえに便宜上、法律は一律に年齢を決めている。

 ただし自己の言動に伴う責任において、その意図、動機は問われない。内面の自由は誰にでも認められている。責任を問われるのは己が原因となって招いた事態そのものである。ゆえに不注意だろうと、故障だろうと、明らかな故意と同様に裁かれる。


 交通事故にたとえてみよう。私ないし私の身内が交通事故に遭って加害者が「故意ではありません。不注意でした、病気のせいでした」と謝罪してきても、私なら許すことはない。人を轢いて逃げた奴を綺麗さっぱり忘れることはできない。ペナルティとして加害者には免許の剥奪を求め、治療費等の賠償をさせ、加えて一生恨んでやる。悪意がなかったらといって裁かれない事故はない。


 逆に自分が加害者となった時、自分にこどもがいるとして、自分の過失が招いた最悪の結果に責任を取らずうやむやにする姿をこどもに堂々と見せられるだろうか?

 私にはできない。


 車の運転のように公的な免許においてはその交付において少なくとも以下が必須になる。⑴必要技能を取得している⑵自己を責任的存在として自覚している⑶実際に責任を取る能力を持っている。
 
 意図、動機のあるなし、相手の不注意、車の故障、病気にかかわらず、ひとたび自分が事故を起こせば⑶実際に責任を取る能力を持っている。ことにより相応の罰を受け入れなければならない。


 私から観るとHINOMARUも五月の蠅もガイコクジンノトモダチも歩行者天国で次々に人を当て逃げする車にしか見えない。「現人神たる天皇を頂く世界で最も高等な凄い日本を愛して何が悪い」と大音量で喚く街宣車にしか見えない。仮に私が野田だとして本当に軍歌をつくったつもりがなかったとしよう。しかし世の中の大半の人には軍歌にしか聞こえなかったとしよう。もしそうなったら私ならきっと自分の良識の無さ、感性の鈍さを嘆くに違いない。つくったのは自分なのだから、こちらの意図した通りに受け止めてくれなかった人たちを責めるような筋違いはしない。解釈も感性も聴く人のものだ。つまらないものをつくってしまった自分が恥ずかしくなって、CDを廃盤にして回収するだろう。最悪、引退を決意するかもしれない。何故なら、それが製造者責任だと思うからである。


 なんであれ、事後対応には人間性が出るものだ。北川も野田もナルシストだが、北川は正直であり、野田は嘘きつだった。

 ナルシストに徹底的に欠けているのは自分を疑い批判する能力である。自らの罪を顧みて反省する能力である。この人として当然の能力がなければ建設的に人を叱ることもできないし、他者の批判を受け入れ、活用することもできない。どんな意図であれ自身の行いが招いた結果に責任を取らずうやむやにすることを恥としないのなら、こどもに示しがつかない。誰にも尊敬されない。


 飼い犬の糞は飼い主が片付けるのがマナーだ。他人に片付けさせてはいけない。


 先の大戦で我々は日本の指導層に戦争責任を問い、命で代償を払わせる事で決着をつけた。平和憲法を新たな国是とすることは自国民に二度と同じ過ちを犯さない事を約束し、かつ被害国へもそれを約束した。戦後、被害国側が怨恨を横においくれたから、日本は世界各国と信頼関係を築き直す事ができた。

 なのに、いつまでもアジア解放のための戦争だったとか、南京事件はなかっただとか、陰謀説を信じて何になる?何が事実であれ、戦争に負けたら一抹の事実でさえも捻じ曲げられる。延々と警戒される、レッテルを張られ続ける。戦争に負けるというのはそういう事だ。

 日本の過去の過ちを償うのは今を生きている我々である。日本が過去にした約束を履行するのは今を生きている我々である。日本の未来に責任を果たすのは今を生きている我々である。政治における現在は常に過去と未来を止めどなく含んでいる。謝罪なんて一回すりゃ充分、いつまでも謝り続けるのは自虐、そもそも戦後に生まれた俺にはそんな過去は関係ない、今と未来だけが大事、などという微視的な人間に政治は任せられない。罪も恩も忘れ責任を取らない者に人の上に立つ資格はない。

 そのような低級な者が天皇制を支持しているというのだから笑える。平成天皇は稀にみる責任的存在なのだから。彼はたまたま皇室に生まれたが、戦争の全ての犠牲者を慰霊する者として生きることを自身の人生の使命とした。終戦時に11歳だった自己に戦争責任があるかどうかを超えて。合理主義で無神論者の私には勿論、皇国史観もないが、平成天皇は尊敬している。彼は間違いなく民主主義と平和憲法の象徴だった。義理というのは恩には恩で一生報いることだと身を持って示した自己超越の人生は、近頃流行りの自分のやりたいことだけやって生きる自己啓発病キラキラカルトとは正反対だ。

 祖国愛とは、他国と自国を比較して初めて生じる感情だ。他国を劣等と見做すから、自国を他国よりも優れてると錯覚して「日本すごい」などと言い始めるのである。その劣っていると妄想する被害国が私怨を横においてくれた恩を忘れ、先人の多大な努力に唾を吐くのなら、たかがチンカスミュージシャンとて、その一生でその代償を払うことになるだろう。だから自業自得、自らがまいた種は自らが刈り取らなければならないのだし、政治家でもない者の発言にいちいち目くじらを立てるな、騒ぐほうがバカの思うツボだというのも最もだ。

 だが本人はプロパガンダでやっていない、純粋なバカだから、プロパガンダにはならない、ミュージシャンに高い知性や倫理を求めるほうがおかしいというのは楽天的すぎる。いつの時代も思考力のない者たちは、ある者よりも遥かに多くいて、流行っているもの、わかりやすい正義を追いかけることで安心したがる。絆だ!団結だ!勝利だ!と喚いてこころをひとつにしたがる。

 野田は、「この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。」と言ったが、


 なんでどんなことがあろうとも立ち上がらなきゃいけなんだ?

 なんで前に進み続けなきゃいけないんだ?

 なんでみんなでこころをひとつにしなきゃいけないんだ?


 別にじっとしてたっていいじゃないか。気の済むまで休ませてくれたっていいじゃないか。悲しんだんっていいじゃないか。なんで絆の外で自由に生きさせてくれないんだ。群れないで生きる自由だってあるだろう。生きてるだけでみんなもう十分、頑張っているのに、なんで他人にガンバレ!ガンバレ!言われなきゃいけなんだ。



 アタマ空っぽで有名な人が言っていたからと疑いもしない連中がマジョリティーとなったら世の中どうなるか?

 そうなったら、平成天皇、美智子さん、今日まで平和のために活動してきた全ての人の努力と人生を無意味なものにしてしまう。それでいいのか?私は承知できない。

 思慮分別ある我々には、事実無根の美談、ファンタジー、約束放棄、責任放棄に立ち向かう義務があるはずだ。今を生きる我々がこの義務を果たさないのなら民主主義と平和は本当に死んだも同然となる。
 
 ウヨやヘイトはいわばガンのようなものである。文明社会においては健全度を表すバロメーターだ。多ければ多いほどその社会は機能不全に陥っている。楽観して対処せず放置しておけばガンは自然と拡大していく。

 病気の対処と一緒だ、結果がわかっているなら、悪因は早めに摘み取っておいたほうが身のためだ。

 政治のみならず戦前への懐古趣味が大衆歌にも押し寄せてしまうのなら、この挑戦には当のミュージシャンたちこそ受けて立つべきだ。誰かこの糞ダッセー奴らを烏賊したラップでディスり倒してくれ!!(寸)
posted by 駿喆咲道 at 17:56| 音楽 | 更新情報をチェックする






■恋愛にも新規顧客開拓にも使える出遭いの教科書
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駿喆咲道@suntetusakudou

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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