2017年12月19日

意味から趣味へ 赤いロリータ「上坂すみれの研究」

■目次
(1)交通結節点と交通ルール違反者
(2)革命的ブロードウェイ主義者同盟とは何か
(3)共産趣味とは何か
(4)一期は夢よ、ただ狂え
(5)タモリとコトバと意味
(6)すみぺにとっての「音楽」
(7)すみぺにとっての「かわいい」
(8)恐怖からの逃走、自由への闘争



HACObook 赤ずきん×上坂すみれ






(1)交通結節点と交通ルール違反者

 精神的に追い込まれている時は上坂すみれの電子ドラック的な癖のある楽曲がちょうどよく、ここ最近は、1st AL『革命的ブロードウェイ主義者同盟』(2014年1月8日)から1st EP『彼女の幻想』(2017年10月18日)までよく聴いている。

 上坂すみれ(1991年12月19日生まれ、声優、歌手、タレント)こと、すみぺは全く万人向けするものではない。すみぺの歌う曲はいつも新しく、そして曲者だ。エロクトロポップス?テクノ歌謡?ニューウエーブ?電波?
 
 メッセージがあるようでないような、酒は飲んでも飲まれるな的な警告を発しているようで、否、ジャンジャン飲めよの享楽なのか・・・スーパーボールみたいに色とりどりで、駄菓子屋みたいにいろんなお菓子がゴチャゴチャしていて、もうあれもこれも入れすぎてわけがわからなくなった洗濯機が回ってる昭和のコインランドリーみたいに、ともかく落ち着きがない。

  
 たとえば、2017年7月12日に発売した8th single『踊れ!きゅーきょく哲学』と言っても3曲入りは、





「踊れ!きゅーきょく哲学」
 テレビアニメ『アホガール』エンディングテーマ。アニメを全く知らないで聴いた印象は、押しかけストーカー女房につきまとわれる系恋愛コメディーアニメのコミカルなオープニング曲風。職業が哲学者の主人公が、神出鬼没で気配のないハチャメチャな女の子によって人間性を取り戻し、結局、陥落されてしまうアニメのよう。


「最先端△ガール」
 内田真礼とのキテレツ大百科的な可愛い餅つき大会。キテレツがターンテーブルで、トンガリがシンセサイザーで、ブタゴリラが電子ドラム。ビンゴで一等賞が出るとコロ助もらえるみたいなパラレルワールドのサイバーゲームセンターのリズムゲームのよう。


「ヤバい○○」
 すみぺがホストのバラエティ番組『ヤバい○○』(TOKYO MXとBS11で2017年4月から6月まで放送)のテーマソング。ミラーボールキラキラでサイケデリックな蝶が舞うサイバーダンスフロワーで羽根付き扇子を振り回しながら踊るボディコンバックダンサーと褐色の海パン蝶ネクタイムキムキマンを従えてお立ち台で歌うサブカルロリータアイドル、だと自分を思い込んでいる心に病を抱えた女のよう。



 な、浮薄なシーサイドサイバーゲーセンディスコリミックスといった塩梅で、三曲ともノリノリなアッパーで楽しく、気分を上げたい時にはもってこい。髪はポニーテールで衣装は大きい水玉か花柄か幾何学か、50年代のロカビリー的なミニのワンピースで白いベルト、ガッチャマンみたいなヘルメットとマント、サイドカー付きのバイクで夏の太陽ギラギラの海岸線をすっ飛ばしている感じ。



 それに比べると、1st EP『彼女の幻想』の中の「アンチテーゼ・エスケープ」(テレビアニメ『URAHARA』オープニングテーマ)は聴きやすかった。逃げるの反対命題ということで、アニメのストーリーからすれば、スクーパーズ(地球の文化を奪う宇宙人)から自分の世界(心の声=趣味、感性、芸術)を守ろうとする歌だろうか。主張的には最先端△ガールに近い。「革命的ブロードウェイ主義者同盟」のスローガン「生産・団結・反抑圧」からブレていない曲。この曲はサビでテンポがくるくる速まる不思議な曲で、アニメ『URAHARA』の絵と色使いのようにパステルでファンシーでポップで可愛い。



 すみぺのこうした独自性は、昭和カルチャー、渋谷系、原宿系、アキバ、中野といったサブカル、、、、それら全ての交通結節点(ターミナル駅、港、ノード、ハブ)のような内面によるものだろう。美貌でオシャレで知的で多趣味なキャラクターは、共産趣味とロリータでコーティングされてオルタナティブであるが、却って現代の日本を象徴しているようで、私は注目している。


 すみぺが、誤解や批判や犯罪の的にされているのは実に腹立だしい。愚か者というのは愚かゆえに能力ある者を蔑む。人の話をちゃんと聞いて理解しようと努めることもしないし、できない。発言を文脈で捉えることをせず、断片的に切り取り、自分が受けた印象だけで事実を編集してしまう。

 6th single「Inner Urge」がいい例だ。




 これを聴いて、

 I felt all flushed with fever, embarassed by the crowd
(私は発熱して真っ赤になった、恥ずかしくて、ひとだかりの中で)

 したが、イコールすみぺの衝動(Urge)だと認識する奴は童貞で間違いない。正解は「お前らの衝動」なのは自明だろう。そもそもこの曲はアニメ『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』のEDだが、すみぺはお前らの衝動を歌にして暴露しているのである。名曲「Killing Me Softly With His Song」の

 I felt he'd found my letters and read each one out loud
(彼は私の書いた恥ずかしい手紙たちを見つけきて、一つ一つを声に出して読み上げているんじゃないかと思ったの!)

 I prayed that he would finish, but he just kept right on.
(もうやめてちょうだい!と祈ったけど、彼は読み続けたわ)

 だ。自身の下半身に聴いてみよ。何の証明もいらないはずである。

 確かに、私だって初耳では、はるな愛の新ネタかと思ったもんだ。新宿二丁目でやったら大盛り上がり間違いなしである。笑

 それにしてもだ。すみぺは「革命的ブロードウェイ主義者同盟」のスローガンとして「生産・団結・反抑圧」を掲げているが、「団結して性欲を解放せよ!己れのコンプレックスに支配されよ!怨恨を生産せよ!」などとは言っていない。もしそうであるなら、すみぺはとっくに公安からマークされているはずである。

 
 しかし曲解者は後を立たない。2017年、2chですみぺに殺害予告をした山形県鶴岡市在住の高等専門学校生・小野○○也(当時20歳)が威力業務妨害で逮捕された。加えてツイッターで異常者集団からの猥褻リプライ被害もあり、すみぺはツイッターをやめる事態になった。


 当時、この事態を私は以下のように分析した。

 すみぺは高い知性(上智大学卒業でソ連・ロシア文化に造詣が深くロシア語が堪能)、美(美しさ愛らしさ)、職業的成功(アイドル声優として大人気)、経済力(実家が裕福)、、、少なくとも4つの権力を持っている。

 端的にいって犯人らは、
 
 ①すみぺにひとつも勝っていないがゆえに嫉妬し劣等感を感じている。
 ②かつ女は男の従属物だと思っている。
 ③しかしながら、その美しさ愛らしさに魂を奪われてもいる。

 すなわち、すみぺはただ降参せざるをえない高値の花であるが、しかし権力欲(劣等感)に執着する者にとって、すみぺは悪魔である。なぜならば自分の下位に転落させなければ、すみぺはいつまでたっても自身の劣等感を意識させ続けるからだ。しかもすみぺは「女性」である。男である自分よりも劣等のはずの「女性」なのである。支配できてしかるべきか弱い「女性」なのである。だから許せないし憎くて嫌いなのだ。なのに同時に心を奪って離さない!美しい!愛らしい!三重の意味で犯人は葛藤している。

  犯人がこの非常に強い葛藤を克服して自由になりたいと思うのは当然だろう。
 
 この葛藤を克服するには、自らの努力によって優位性を得る方法があるはずだ。しかし、犯人らはそれはもはや不可能であると諦めている。いやむしろ、すみぺを何としてでも自分よりも劣等な存在に貶めたいと企図する。自らの愚かな誤った信念、すなわち女は男の従属物、男である自分は女より知性、経済力、社会的地位において必ず勝っていなければならない、を変えないでいようとしている。

 ゆえに犯人らは「美しさ愛らしさ」の破壊のみを選択する。なぜならば4つの権力のうち「美しさ愛らしさ」は暴力によって即時に汚すことができると直感するからである。己れの葛藤を克服するために自分に残された手段が暴力しかないと信じているほど、犯人には自尊心がないのである。実はそれほどまでに自分を劣等な存在だと自覚しているのである。それほどまでに自尊心がないがゆえに、己れの犯罪に無反省なのである。畜生と化すことに躊躇がないのである。だから、すみぺのその清純さと魂を最も傷つけ汚すと信じる暴挙に何度でも出れるのだ。

 ネットの安直な言説によれば、犯人はブロックでもいいから存在を承認されたいのだとか、すみぺの自撮りが扇情的で声豚を勘違いさせているからいけないのだという。私はいずれの見方も間違っていると証明することはできない。なぜならば私は犯人ではないからだ。笑
 
  しかし、こういうことは言える。
  
  
 その者はあなたの期待(主観)に引き寄せられてくるのではない。その者はその者の主観によってあなたのところにやってきたのである。
  
 あなたにはその者のあなたへの解釈、偏見を拒否する権利が無条件にある。その者のあなたへの主観を是正する機会を持つかどうかはあなたが自分で決定することができる。

 
 【炎上防止】妄想とリスクヘッジで楽しく続けるTwitterマニュアル2017年版より引用
 
 
 

 
 
(2)革命的ブロードウェイ主義者同盟

 では何が偏見で、何が本当なのか。すみぺは誤解を受けやすい「共産趣味」や「革命的ブロードウェイ主義者同盟」についてインタビューやラジオなどで自ら何度も語っている。印象だけで決めつけているのならまず話を聴くべきだ。話を聴いても理解できないのなら関わるのをやめたらいいだけだろう。何度、話しても理解してくれない者に、何度も説明させられる身になってほしい。それはとてつもなく疲れる。


 すみぺは「革命的ブロードウェイ主義者同盟」と、そのスローガン「生産・団結・反抑圧」の意味について、“来たれ!暁の同志”の歌詞についてのインタビューの中でこう答えている。





―この曲の歌詞にある「生産! 団結! 反抑圧!」というラインは、「革ブロ」のスローガンなんですよね?

上坂:それもカタチから入ったというか、やはり同盟にはスローガンが必要ですからね(笑)。「生産!」は、自分の好きなものからなにかを吸収して創造的に発信するのは楽しいよっていう意味で、「団結!」は、好きなものを互いに理解し合える者同士、集まって楽しもうっていう意味で、そして「反抑圧」は、いろんなしがらみとか「自分はこういうキャラじゃない」みたいな枷をもつのは止めようっていう意味なんです。つまり、このスローガンにはなんの抑制力もないんですよ。だから、「革ブロ」っていう名前は固いんですけど、その中身は普通のクラブ活動とかに等しいものなんです。

―だから、気軽に参加してほしいと(笑)。

上坂:そうなんです(笑)。歌詞としてこのスローガンをライブでコールすると、けっこうすっきりしますからね! みなさんが普段叫んでるような「うりゃ!」「おい!」の代わりに、「生産! 団結! 反抑圧!」と叫んでみるのもきっと楽しいですよ(笑)。

―(笑)。では、この先の「革ブロ」の展開を現在はどこまでイメージされていますか?

上坂:常に考えていないんです(笑)。というのも、同盟って指導者が張り切れば張り切るほど人民が離散していくものだし、こちらからなにかを「達成せよ!」というよりは、構成員の人々が自由にやってくれた方がきっと長く続くんですよ。オスマン帝国とかもそうだったし。

―比較対象がオスマン帝国というのもすごいですね(笑)。

上坂:オスマン帝国は土地の人にあまり細かいことを言わなかったから、ゆるく全世界を治めることができたらしいんです。だから、私もいつも同志(ファン)たちの意見に耳を傾けています。

―それこそまさに「団結!」と「反抑圧!」なんですね。それにしても、学生の頃を考えると、こうして同志に囲まれている現在の状況はとても充実しているようですね。

上坂:はい。私は独りに慣れていますけど、やっぱり同じ趣味の人が集まってみんなで楽しんだり、自分の話を聞いておもしろいと思ってくれる人がいてくれることはすごく嬉しいです。きっといまが人生で一番楽しいときだなと思ってます。

 表現の抑圧が進む社会で、我々はどこまで「ジョーク」を理解する心を持っていられるか?より引用



 2013年に刊行した櫻井孝晶との共著『世界でいちばんユニークなニッポンだからできること 僕らの文化外交宣言(p178〜181)では、こう答えている。


 声優としての活動を始めて以来、ありがたいことにたくさんの同志のみなさんと出会うことができました。その同志たちに対して、みなが集える場所のようなものを私から御礼の意味も込めて提供できないかと考えたのが、「革命的ブロードウェイ主義者同盟」です。

 このタイトルにはたくさんの意味が込められています。「革命的」は、いろいろなものがめまぐるしく変わっていく時代という背景もあってのことですが、私がアジテーターという言葉が好きなこともあり、何かを好きになるなら徹底的に夢中になってほしいという意味を込めました。そういう急進的な部分もあってよいと思うからです。

 「ブロードウェイ」は、私にとって聖地であり、故郷のような存在でもある「中野ブロードウェイ」からとっています。中野ブロードウェイはサブカルチャーの聖地として有名ですが、なんでもかんでも存在してよい場所です。中野駅近く、集合住宅の低層階に小さな店舗がところ狭しと並んでいる中野ブロードウェイに、私は何時間いても飽きることがありません。

 古本、ビィンテージマンガ、フィギュア、オカルト、コスプレ、アイドル、中古CD……なんでもありの店を見て回るだけで、ふと気付くと何時間も過ぎていたということも珍しくありません。時間があれば、中野ブロードウェイに顔を出すのは私の生活習慣にさえなっていると言えるでしょう。好きなものをなんでもかんでもショーケースに並べる。これが革命的ブロードウェイ主義者同盟の根本的な考えです。

 就職活動で履歴書に書きづらいような趣味の集合体が中野ブロードウェイですが、私は中野ブロードウェイ的なものを糧にこれまで生きてきたのです。私に関心を持ってくださる同志のみなさんには、概ねそうした傾向が私同様に強いように感じます。アニメが好きとか、アイドルが好きとか、ミリタリーが好きといったことは、就職用の履歴書にはなかなか書けないでしょう。でも、そういうものこそとても大切であると思うのです。

 社会で生きていく上で必要がないかもしれない趣味たち。もしかしたら、それは無駄なものと言われてしまうかもしれません。でも、人生にはそういった無駄なものがとても大事だし、だからこそ人間なのではないでしょうか。私からロシアが取り上げられてしまったら、それこそ途方に暮れてしまうでしょう。

 どんなに変わっていると言われても、自分が好きなものへの愛と関心を忘れない。そんな精神を持った人が集まる場所が、革命的ブロードウェイ主義者同盟なのです。
 好きなものをちゃんと好きと言う。そんな当たり前のことができない世界に対しての、革命的な同盟でもあります。

 海外のアニメイベントも、”好きなものは好き”と声高に叫ぶことの延長線上で発展してきました。言ってみれば、世界各国のアニメイベント自体が、仮想の中野ブロードウェイのような存在です。日本文化を愛してやまない海外の人たちが、「日本大好き!」と叫んで始めたイベントに何万人もの人が集まってくるようになった。しかも、それが世界中で起きている。

 革命的ブロードウェイ主義者同盟も、そんな世界のみなさんとどんどん交流していくべきだし、それはとても重要な文化外交だと思います。革命的ブロードウェイ主義者同盟は、同志の集合体ですので、国籍は関係ありません。

 同じ価値を持った、同じものが好きな似たもの同士が、もっともっと国境を越えて交流しだしたとき、世界はもっと明るい方向に動いていくのではないでしょうか。

 ですから、革命的ブロードウェイ主義者同盟は、私のファンである必要もなく、好きなものは好きと言える人、言いたい人はすべて同志であり、構成員なのです。



 非常にまっとうな理念である。引用文中のアジテーターとは「煽動者」のことである。(同書 p176〜177)

 私はアジテーターという言葉が好きなのです。アジテーター、つまり煽動者は、人の気持ちを盛り上げる存在と言えるでしょう。誰かにものを教えるとかいった大それたことではなく、わくわくした気持ちで話を聞いてほしいとか、自分が夢中になったものへの興味をおすそわけしてあげられたらなという気持ちを込めています。

 なにごとも一人でおもしろがるより、みんなでおもしろがったほうが楽しいし、同志がたくさんいればなお嬉しいです。一人で孤独にロシア・ソ連を追い続けた日々が長かったですから、なおさらそのことを実感します。


 
──タイトル曲で「必ず革命引き起こせ」とアジっていて、終盤では「FLYERS」になっている。革命成功の暁には同志諸君とともにどこに羽ばたいていくんですか?

ムリにみんなを引っ張っていこうとは思ってないです。「アジテーターになりたい」とは言っているものの、「マストバイ」が苦手なのと同じように、私自身も誰かに「これ、本当にいいから!」とか「これやって!」って言うのがすごく苦手なので。みんなが好きなものと私の好きなものが自然と合致するのが一番いいことだと思っていますし、皆さんがいいと思っているものももっと知りたいです。

──確かに決起集会を観ていると上坂さんと同志諸君の関係ってすごくフラットですよね。

 上坂すみれ「革命的ブロードウェイ主義者同盟」インタビューより引用
                        


 革命的ブロードウェイ主義者同盟はサブカルチャー愛好者にとってのヴァーチャルユートピアコミュニティーといったところか。ゲイの人にとっての新宿二丁目のような。
 
 否、新宿二丁目には行ったことがないし、内側から見た時にどういう世界なのか知る由もないので比喩として使うことはよくないが、なんというか、新宿二丁目には鉄の掟があるイメージがない。あそこに行けばなんとかなるだろうと思って、なんとなく全国からゲイの人や女装味の人が集まって来て、なんとなく秩序ができているという印象がある。そこは、人と違っていようと傍流だろうと誰にも共感されなくても自分の趣味、感性を表現できる誰もが輝ける居場所。もちろん権力や世間のしがらみとは無縁の。議論を交わすというよりは談話を楽しむ。歌も踊りもある。そんな学園祭的なチャンプルーなコミュニティ。メディアの情報から私はそのような印象を抱いている。

 ところで街の特色というのは自然発生的なものだろう。秋葉原にしろ、原宿にしろ、中野にしろ、下北沢にしろ、その地区が持つ雰囲気を好む者達が吸い寄せられており、かつ吸い寄せられた者達がその街の雰囲気を維持している。そしてそこに集まる者達はみな知り合いというわけでもないのに謎の連帯感がある。笑

 厳密に組織化されてはいない差異化された長く続いているコミュニティとはあくまで「ゆる〜いつながり」ではないか。どこの誰だか知らないという距離感ゆえのそこはかとないつながりというのは個人経営のカフェや小料理屋、スナックなどの客、あるいはアイドルや歌手などのファンクラブに入ってる者達もそうかもしれない。

 かたや、顔も名前も見知っている者達で構成された、理想や利益を追求する上意下達型の組織というのは、遊びや余白を捨て去り、無理・無駄・斑を省いて最適化へと向かうものだ。その時、組織が構成員に先じるのなら、規律は人間のキャパシティを越えた抑圧へと向かう。そうなると当然構成員の統制は崩れる。組織維持のために構成員の意思に暴力が加えられるとするなら、いよいよ理想や利益はその獰猛な禽獣の正体を現すだろう。すなわち構成員に死者が出る。そして外部に幽霊(仮想の敵)をつくり出し不毛な戦いを始める。

 というのは歴史が何度も繰り返し証明してきたことだ。それこそソ連に学ぶべきである。経済も文明も人間の知性も理性も時代とともに進化するだけのものだというのは妄想だ。現代の日本をみよ。政治は専制化し、帝国主義の復活を企て、禽獣の正体さえ隠さないブラック企業が跋扈している。過ちを繰り返し続けるのが人間の本質だ。覚醒しないのならば。


 だから、すみぺは、


 ‘同盟って指導者が張り切れば張り切るほど人民が離散していくものだし、こちらからなにかを「達成せよ!」というよりは、構成員の人々が自由にやってくれた方がきっと長く続くんですよ。

 

 と。2015年のインタビューでも同様の主張を繰り返している。

上坂:私は難しいことを言っているようで、本当に何も考えていないんです。「仕事が終わったら本屋に寄って、家に帰ったらCSで映画を見て、寝る前に三国志を読んだら、それでおしまい!」という暮らしをずっとしているし、「世界を変えてやる!」みたいな意気込みがあるというわけでもないんです。革ブロも同じで、なんとなく堅そうな雰囲気の革ブロを、いかにしてその「雰囲気」だけにしておくか。私はそこに尽力しています。

―名前は堅いけど、その実態はものすごくゆるいってことですね。上坂さんが自由に活動するためには、「革ブロ」という枠組みが必要だと。

上坂:そうなんです。私のイベントに来てくれる人は、何が起こるのかわからない雰囲気を楽しんでくれているみたいなんです。それは私自身も同じで、今日のイベントはこんな感じ!」みたいなざっくりした工程があるだけで、「これはやめとこう」とかみたいなこともないから、いつも「やっちゃった! まあ、いいか」みたいなのが多くて。

―狙ってないから、上坂さん本人も予期してないハプニングがあるわけですね。

上坂:革ブロの「決まりごとがあるようで、実はほとんどない」というスタイルがあると、すごく楽しいです。だって、何も考えずに好きなことをしてるだけなのに、それがあたかも何かすごい成果を生んでいるように見えるので(笑)。そういう状態を維持していけたらいいなって。

 「反抑圧」を掲げる上坂すみれによる、マジメな下ネタ談義より引用


 だからすみぺはさしたる「目標」も持たない。


私、目標を決めても全然達成できないので、目標を定めないほうがいいって小学生くらいのときに思ったんですよね。
 
 (中略)
 
世の中にはさしたる目標がないチームもあっていいと思うんですよ。目標があるのはもちろんとても素晴らしいですけど、私は目標があるとそれ以外のことは全部手がつかなくなっちゃうので。ただ、あえて目標を作るなら、“本格派イロモノ”みたいな感じですかね。イロモノなんですけど、わりと豪華っていう。

──なるほど、本来の意味通りの色物っていうんですかね。落語家さんばっかりが出る寄席の中に漫才師さんや紙切りの人が出る。要するに本筋じゃないんだけど、その漫才や紙切りのクオリティはピカイチっていう。

そうなったらいいですね。じゃあそこを目指したいと思います。

 上坂すみれ「恋する図形(cubic futurismo)」インタビュー



 そういえば老子もこのように言っている。

老子道徳経57章 
 正道によって国を治め、奇策によって戦を行い、事を起こさないことによって天下を統治する。わたしは何によってそういうことが分かるか。
 いったい、世の中に禁令が多くなればなるほど、人民はいよいよ離反していく。民間に武器が多くなればなるほど、国家はますます混乱する。人々が巧みな技術を持てば持つほど、邪悪な物や事はますます生まれる。法なるものが明らかになればなるほど、盗賊はたくさん現れる。
 そこで聖人はいう。わたしが何もしないと、人民は、おのずとよく治まる。わたしが清静を好むと、人民は、おのずと正しい。わたしが事を起こさないと、人民は、おのずと豊かになる。わたしが無欲であれば、人民は、おのずと素朴である、と。


老子道徳経58章 
 政治がぼーっと大まかであれば、人民は素朴である。政治が厳しくこまかいと、人民はずるがしこい。
 災禍には幸福が寄りそっており、幸福には災禍がひそんでいる。だれがその窮極を知っていようか。
 そもそも絶対的正常などはないのだ。正常はまた異常になり、善事はまた妖(まがこと)になる。人々がこの相対の道に迷っているのも、まことに久しいことだ。
 そういうわけで聖人は、方正であっても人を傷つけず、切れ味するどくても人を刺さず、まっすぐであってもそれを押し通さず、光っていても人の目を眩まさない。

 岩波文庫「老子」蜂屋邦夫訳 p260〜265 より引用


 すみぺはその美しさゆえに人の目を眩ましすぎている。黙っていると魂を抜きとられるような魔性さえ覗かせて、かしずきたくなるほどに。その光の前に、一部の男たちが劣等な本性を現すのは、すみぺの人間としての正直さゆえの徳に、隠していた闇を照らされてしまうから・・・かもしれない。


 'et lux in tenebris lucet' 
 
 
 光は闇を照らしきである。


 なのに、しゃべると、おちゃっぴいで、あんみつ姫のよう・・・
 
 
 この認知的不協和を如何にして解決したらよいのか、ワカラヘン・・・というのは私の主観だが、そのスタンスは、まるで老子のいう聖人(理想の王)の如くである。
 
 
 
 ところで実際の「革命的ブロードウェイ主義者同盟」の様子はどうなのか?以下のレポートやDVDを見るのがわかりやすい。
 
 「実録・2.11 第一回革ブロ総決起集会」

実録・2.11 第一回 革ブロ総決起集会 Blu-ray


 

 
 
 2016年12月に行った東京・両国国技館でワンマンライブ「上坂すみれのひとり相撲2016~サイケデリック巡業」に集まった同志の様子は以下である。
  

上坂すみれのひとり相撲2016~サイケデリック巡業~&超中野大陸の逆襲 群星の巻 [Blu-ray]



 
──ライブの演出と言えば、プロレスや相撲をモチーフにしたものだけではなく、中盤のエアリアルパフォーマンスも幻想的で見事でした。

すごかったですよね。エアリアルだけずっと観ていたいと思いました。炎が上がる演出もあったり、ライオンキングみたいでしたね。

──中野サンプラザでは通路を歩いてなぜか物を配るというのが恒例になってますけど、両国ではどうなるのかと思ったら、トロッコに乗って回遊しながら同志諸君の服装について延々触れていくという。

やっぱりどうしてもお客さんの近くには行きたかったので、トロッコを使ってみました。トロッコはなかなか面白いですね。徒歩で行くよりも効率よく、見渡していろんな人を探せるので。私のライブは客層が幅広くて……子連れの夫婦もいれば、全然声優とかを知らないであろうプログレおじさんとか、受験生もおじいちゃんも、訳あってここに集まってる。

──訳あって(笑)。別の声優アーティストのTシャツを着た方をいじったりもしてましたけど。

「赤いTシャツを着なきゃと思ったけど、探したらこれしかなくて……」とおっしゃっていて、とても可愛らしかったですね。面白いんですよね、皆さん。もちろんいい意味でなんですけど、本当にいろんな方がいて。「ガスマスクを付けている人はライブを観るの大変じゃないのかなあ」とか。軍服完全装備の人もいましたけど、あれってすごく暑いんですよ。ソ連軍の軍服とか本当に暑くて、ジャンプすると勲章が落ちますから。ツナギをグッズとして販売したんですけど、2割ぐらいの方がツナギを着ていて……これ言っちゃいけないかもしれないですけど、たいそう不思議でしたね。買うなよって。

──自分で売っておいて(笑)。

「何買ってんだよ。買って、楽しんでんじゃないよ」って(笑)。同志諸君は順応性が高いので、なんでも受け入れちゃうんです。

 ──上坂さんの活動はしばしば「なんでこれが許されてるんだろう。レーベルや事務所の大人から止められることはないんだろうか」と感じる局面がありますけど、ほかにはない現場だからこそ集まった多種多様な人々が“同志諸君”として楽しそうにしているのを見ると、よくぞ止めずにいてくれたと思います。

確かに。なんでしょうね。

──いろんな角度のサブカルチャーを一手に担っているような。

サブカル懺悔室みたいな、この場に来ると何もかも許されるというところはありますね。同志諸君の話を聞くに、何かしらの最先端流行から脱落した人が多くて。「最近のアニメはわからないですが、ニューウェイブにはすごく詳しいです」みたいな方が声優のイベントに来るのは、やっぱり別の何かを求めているんですよね。プロレス好きと歌謡曲マニアとドルヲタと普通の声優ファンと……なんの集まりなんでしょうね。

──謎のエネルギーが四角い両国国技館の中に渦巻いていましたね。

そうですね。遠めの席から観るのも楽しそう。

 上坂すみれ「踊れ!きゅーきょく哲学」&「上坂すみれのひとり相撲2016~サイケデリック巡業」インタビューより引用


 
 

(3)共産趣味とは何か

 上坂すみれへの世間の誤解の最大の理由は「共産趣味」だろう。これは「革命的ブロードウェイ主義者同盟」のテイストとしても色濃く反映されている。私も何も知らずに「革命的ブロードウェイ主義者同盟」を聴いた時は違和感しかなかった。なぜならば共産趣味に全く共感できなかったからである。




「革命的ブロードウェイ主義者同盟」の間奏で、すみぺはこう演説している。

 親愛なる同志諸君、私は諸君に呼びかける。当計画は我が国内外の脅迫者の奸計から趣味者階級の自由と独立を守るための同盟を建設しつつある。その同盟こそが革命的ブロードウェイ主義者同盟である。我同盟は諸君に呼びかける。眠れぬ主義者諸君。真剣で誠実かつ強い意志を持った諸君。同志諸君。諸君の時が来た。革命的ブロードウェイ主義者同盟は諸君を求めている。前進強固な労働の道を。趣味者の自由と幸福のための勇敢な戦いの道を。名誉と栄光の道を。前進!



 実にモノモノしい。自己陶酔して拳を振り上げる暑苦しい指導者の姿がダブつく。実際、トロツキー(1917年、ロシア十月革命における指導者の1人。権力闘争に破れて国外追放、亡命先のメキシコで暗殺される)の演説のパロディであるという。


 フジテレビ的なロゴマークの象徴は、

  星→輝きたい、光(勇気)になりたい、憧れ
  黒い星→敗北、実在しない、夜には見えない、デススター
  白い星→勝利、金星
  赤地→共産趣味(旧社会主義国の体制文化風俗や重要人物を研究する嗜好)
  目→目覚め、目立ちたい、知りたい(興味関心、知識欲、知的好奇心)
  少し欠けたハート→愛されたい、人情重視

 と直観させる。一番気になるのは目のマークだろう。都市伝説としての闇の勢力イルミナティのロゴマーク(米1ドル札に描かれているプロビデンスの目)に似ている。史実としてのイルミナティ(アダム・ヴァイスハオプト、1748-1830による)は原始共産制の国家の樹立を目的とする位階制の組織だったといわれているが、陰謀論者はマルクスとエンゲルスはイルミナティの一員であり、社会主義国(ソ連、東ドイツ、中国共産党、北朝鮮)こそその体現であると主張している。

 その真偽はここでは問わないが、ソ連の共産主義は実際は、基本的人権を制限した専横であり、最高権力者への個人崇拝、秘密警察の暗躍、粛清、人民の強制労働と大量餓死、、、ディストピアそのものだ。今の北朝鮮と同じである。北朝鮮はソ連(と大日本帝国)をモデルにしてるのだから同じ軌跡を辿っているのは当然だが、現在の日本だと共産主義は連合赤軍というテロリストとも強くリンクしている。

 すみぺはミリタリーの趣味もあるという。それらの情報を繋ぎ合わせるなら、相当に危なっかしい人物なのか?と思われても無理はないだろう。

 否、すみぺは、
 
 '革ブロも同じで、なんとなく堅そうな雰囲気の革ブロを、いかにしてその「雰囲気」だけにしておくか。私はそこに尽力しています。'と、いうように、革ブロの“ソ連ぽさ”はあくまで「ジョーク」なのだという。


―上坂さんの表現ってそれなりに誤解されやすいとも思うんです。つまり、共産趣味的なネタをネガティブに受け止める人もきっといると思うんですけど。

上坂:たしかに私はよく「売国奴」とか言われてるみたいで。でも、私はこういうのをジョークとして捉えることが、平和だと思うんですよ。だから、そこで人やメディアから受けた情報だけを鵜呑みにして「ロシアは北方領土を渡さないから敵だ」「上坂すみれも敵だ」と判断するのってすごく危険だし、ソ連をモチーフにした私のジョークを「左翼的だ」と受け取るのも、ちょっと違うと思うんです。こういうことをジョークとして受け止められなくなったら、日本は平和じゃないと思います。それに、たとえばナチスドイツに関わるものをぜんぶ規制したら、それって強権の表れじゃないですか。

 表現の抑圧が進む社会で、我々はどこまで「ジョーク」を理解する心を持っていられるか?より引用


 共産趣味を「ジョーク」と表現しているのはロシア人が好きなアネクドート(政治風刺の小話)が前提にあるようだ。


―歴史は消そうとしても消せないものですからね。そういえば、上坂さんは実際にロシアにも何度か行かれているんですよね?

上坂:はい。やっぱり行ってわかることってすごく多くて。書物や映像の中で見たロシア人と、実際に会えたロシア人はぜんぜん違いました。私はモスクワにしか行けてないんですけど、そこには普通の生活があって、日本が好きなロシア人もたくさんいるんです。イべントもやってきたんですけど、来てくれた方の中には、「声優という職業がある日本、素晴らしい!」って、カタコトの日本語で精いっぱい声をかけてくれる人もいて(笑)。こんなに声優の自分が歓迎してもらえるなんて思っていなかったので。そこで「私はロシアが好きです」と伝えると、逆に「なんで? 信じられない!」と言われたりしました。

―その「信じられない」というのはどういう意味?

上坂:ロシアの人ってけっこう自虐ネタが好きらしいんですよね。自分の国のことを「こんな、日によってシャワーの出方が違う国なんて全然よくないよ」とか言ったり(笑)。でも、本当は自分の国が好きなんです。そういう感覚って、どことなく日本人と近いような気もするから、そこにも親近感が湧きましたね。


―自分たちと近い匂いもあると。では、上坂さんのジョークはロシアの方にも伝わりましたか?

上坂:はい。もともとアネクドート(政治風刺の小話)はロシア人が発明したものですし、ロシア語通訳者でもある米原万里さんの小説によれば、ロシアではアネクドートをいくつも覚えるのが当たり前だったらしいんです。というのも、ソ連ってすごく抑圧的で、一個人が逆らったらすぐに殺されてしまうような国だったから、その時期のソ連の作家たちは規制を避けるようにそれを皮肉って、作品にしていたみたいなんです。だから、ロシア人ってなにかを表現に昇華することがすごく得意なんですよね。どんなに苦しくても、それをジョークやオマージュにして訴えかける。そういう力って表現の根源的なものかもしれないなと思っています。

―ジョークは武器なんですね。一方で日本は表現への抑圧がこれからもっと厳しくなっていく可能性もありますよね。それでも上坂さんのやることは変わりませんか?

上坂:変わらないと思います。なにかをオマージュして、それを自分なりにアレンジして表現することはずっと続けたい。そういうものを取り巻く状況がこれから悪くなる可能性は確かにあると思うんですけど、ちゃんと伝えればわかってもらえると思いますし、数少ない共産趣味者の権利のためにも、がんばっていきたいですね。

 表現の抑圧が進む社会で、我々はどこまで「ジョーク」を理解する心を持っていられるか?より引用


 悟られないように批判する、苦悩を笑いに変えるというのは、逆らえば殺される抑圧の中では数少ない残された自由だろう。その自由とそのための技術を、ジョーク、オマージュという言葉で語って共感するというのは、それなりのわけがあろう。学校教育というものは規則と同調圧力による管理社会だが、すみぺは学生時代は周囲と趣味興味関心が噛み合わず友達が少なかったというし、人権までもを抑圧しようとする安倍専制政治を感じてのことかもしれない。共産趣味者としてもそうだ。絶対数が明らかに少ない中で、誹謗中傷に晒されるのは存在を末梢されるような恐怖があろう。


 すみぺは中高生向けの「世界を平和にするためのささやかな提案」(河出書房新社 2015年)に寄稿した一文では、共産趣味についてこう語っている。

 私が提案したいのは、世界に、国家に、オマージュを捧げて遊んでみることです。思想を発信して世界に影響を与えるとか革命を起こすとか、大それたことをやるんじゃなくて、もうちょっとまろやかに、思想を刺激せずに、遊ぶという感覚で他の国を見てみませんか? きっと、他の国が、世界が、全然違って見えるようになります。
 たとえば、私はソ連・ロシアで遊んでいます。ソ連を、物騒なものじゃなくて、過去に存在して今にはない面白いもの、刺激的なものという風にファッション的に眺める。そういう目線でソ連を見て楽しんでいます。ソ連の共産主義とか思想は置いておいて、アバンギャルドな部分を楽しむというのでしょうか。このような発想ができるのは、生まれが平成というのもあるかもしれないですね。

私が最初にソ連と出会ったのは、高校生の時でした。ロシア国歌を動画で見てソ連に興味を持ちました。

 (中略)

 こんな時代があったんだ、とソ連がなかばフィクションの世界みたいに感じられて。すごく極端な世界で面白いなあ、と。

 そこからソ連はどんな国か、共産主義はどんなシステムか、どんどん調べるようになりました。共産主義者にあこがれる、というわけではなくて、純粋にその構造に興味を持ちました。そうしたら、びっくりすることばかりで。



 オマージュとはhomage、尊敬や敬意を意味するフランス語である。オマージュという言い方をしたのはなぜか。一般に人は無価値と判断したものには敬意を払わない。文脈からすれば、すみぺはソ連にファッションとしての価値を見出しているようだ。それもシュールな側面に対し。ソ連という国をフィクションとして感じているというのは、

 ・ソ連→1991年に崩壊→終わったこと→過去→ファンタジー
 ・北朝鮮→現在進行形→現実


 という観点からだろうか。


 『世界でいちばんユニークなニッポンだからできること 僕らの文化外交宣言』(p18〜19)にもこうある。

 ソ連がない時代に育った私には、ソ連という国の仕組み自体が虚構のように思え、それがある種のファンタジーのように感じられました。

 イデオロギーも、国家体制も、ソ連のトップに立った人たちも、国民の生活も、街の様子も、知れば知るほどなにもかもが二一世紀的でないところにファンタジーの世界を感じたのです。謎の”ディストピア帝国”のようにさえ思えてきて、ソ連にどんどんひかれていきました。

 (中略)

 私は、ジョージ・オーウェルの『1984年』的な世界がとても好きです。
 ディストピアで実際に自分が暮らしてみたいというのではありません。歴史が好きな人たちなどが、”廃墟萌え”なとと言ったりしますが、そういった感覚に近いでしょう。
 なぜディストピアにひかれるのか、自分でもよくわからないのですが、そういった感覚を持つ人は少なからずいるのではないでしょうか。
 ユートピアを求める人は自分がそこに行きたいわけですが、ディストピアが好きな人は自分が行きたいわけではない。俯瞰で見ていて、自分をコマにしてその世界に住まわせてみるみたいな感覚だと思います。

 でも、このディストピアに憧れる、人間としては間違った感覚が、逆に人間にしかできないことです。

 そしてソ連という、いまの日本に住んでいるかぎりなかなか想像しづらい環境の国家が実際にあったという史実があり、そこが私のなかでディストピアとソ連をつなげていくのです。

  
 
 そういえば、ハリウッド映画は冷戦終了後もソ連・ロシアを敵国としたプロパガンダ映画をかなりつくっている。

 007ロシアより愛を込めて、ランボー2・3、レッド・オクトーバーを追え、エア・フォースワン、2012、ライラの冒険、ソルト、アイアンマン、、、
 
 『世界でいちばんユニークなニッポンだからできること 僕らの文化外交宣言』は政治性を抜きにして、世界共通の「カワイイ」という感性を拠り所として、日本発アニメやファッションを武器に、世界各国の普通の人達との文化交流を楽しもうという問いかけだが、ハリウッドは未だにその逆を行っている。

 確かに冷戦は終わった。とはいえ、現在も米ロの緊張は解かれてはいない。元CIA職員のエドワード・スノーデン亡命援助、クリミア併合(親アメリカ政権樹立失敗)、ロシア政府による仮想通貨発行を見れば、むしろサイレントウォー、サイバーウォーに突入しているのは明らかであるし、アメリカは今のところプーチンに歯が立たない。

 実はアメリカが最強なのはスクリーンの中のみであることを露呈しているようで笑えるが、ともかくロシアよりアメリカの情報に接することのほうが多い日本人にとってはロシアの印象は良くないだろう。加えてソ連の体制を知っていれば尚更だ。
 
 ソ連の被害者はソ連の国民だが、日本も無関係ではない。第二次世界大戦時、広島原爆投下の二日後に、ソ連は日ソ中立条約(1941年締結)を破棄して日本に戦線布告した。つまり日本が負けるとわかりきった時に、兵を揚げたのである。そして千島列島と樺太を奪い、日本兵を捕虜にして強制労働させ、多数の死亡者を出した。作家の五木寛之は少年時代を満州で過ごしたが、侵攻してきたソ連軍による災禍は壮絶である。

 いじめでもそうだが、やったほうは忘れるが、やられたほうは忘れない。つまり年配の日本人にはソ連に「恨み」のある者が多いのだ。もちろん日本も加害者であるから、日本側の加害や愚かさを棚に上げているつもりはないが、共産趣味を理解できない者が一番ひっかかるのはそこではないか。

 日本政府は現在進行形でソ連に北方領土の返還を求めているということもある。このような政治情勢、怨恨感情のある中で、思想を抜きにして文化やファッションだけを取り出すという捉え方に批判が出るのは仕方のないことである。特に直接の被害者においては、過去の被害と政治を抜きにすることなどできようがない。

 そもそも思想に共鳴せずに、文化にだけ共鳴するというのは人間の知性的認識に反しているのではなかろうか。ゲシュタルト、部分の認識は全体の認識との連関を伴うものであり、つまり部分はその全体が意味するところの意味から分離して認識されない。よりわかりやすく言えば、ただの玉ねぎはそのまま玉ねぎであるが、カレーの中の玉ねぎは、もはやただの玉ねぎではないのだ。カレーの味が染み込んでいる玉ねぎは、カレーを構成するひとつの要素であり、それ以外の意味を持たないのであり、もはや畑で出荷を待つ土のついた玉ねぎと同一の玉ねぎとして見ることも味あうこともできないのである。調理されたものとされていないもの、どちらも玉ねぎであることは変わりはないが、「意味が変わってしまったら同一のものとは認識できない」のだ。 

 しかし、カレーの中の玉ねぎであってもカレーの味(思想)を排することができるのが共産趣味者だ、と解するなら、これは個人に付随する独自の感性だろう。
 
 
 すみぺはミリタリー趣味に関して、「放課後アサルト×ガールズ」の作者・高田慎一郎との対談でこう語っている。
 
高田 今MP40の話をしましたけど、実は僕、近代兵器って苦手なんですよ。

上坂 あっ、私もです。

高田 それが綾子たちに第二次大戦時の米軍の装備をさせた理由でもあるんですけど。

──なぜですか? より高性能な兵器のほうがカッコいい気もしますけど。

高田 さっきおっしゃっていた、人を傷付ける道具だからですね。特に近代兵器は、今まさにリアルに誰かを傷付けているだけに萌えられないっていうのがあって。第二次大戦中の兵器ももちろん誰かを傷付けていたんですけど、もう70年前の話だから、ちょっと不謹慎なのかもしれないけど歴史の一部って言うんですかね。傷付けられた方々には哀悼の意を表すけど、兵器に対しては、もう少し客観的。もはやただの“モノ”として萌えられるんです。

上坂 確かに第二次大戦の頃の兵器と近代兵器の魅力ってぜんぜん違いますよね。当時の兵器の、あのある種異様な魅力ってなんなんですかね? 私は第二次大戦時にソビエト軍が使っていたOTシリーズっていう、火炎放射戦車がすごく好きで。フロント部分に火炎放射器があって、火を噴く戦車なんですけど……。

高田 それ、戦車で人を焼くってことですか?

上坂 どうなんだろう? 人を焼くのか建物を焼くのかはわからないし、リアルに人を焼くところを見たいわけでもないんですけど……。

──ゴア(残虐な流血描写)はお嫌いなわけですもんね。

上坂 はい。でも「戦車なのになぜか火を噴いてる」っていう、そのすごく不思議な感じがすごく好きなんです。

高田 きっと我々が今話しているような感覚って過去の兵器が好きな人間だけのものではなくて、近代兵器が好きな人も皆さん持ってると思うんですよね。

──先生は近代兵器には「現在運用されている」というバックグラウンドがあるからイマイチ乗れないけど、とはいえ近代兵器が好きな人たちだって当然「現在誰かを傷付けている」という事実をよしとしているわけではない。兵器という“モノ”に対するフェティッシュみたいなものに動かされている点では一緒だろう、と。

高田 ええ。ミリタリーマニアの名言に「戦争は大嫌い! だって兵器が壊れちゃうじゃない!」っていうのがあるくらいですから。

上坂 まさにその通りです。作るだけ作って使わないのが一番。

──兵器ってなんなんだろう(笑)。

高田 確かにミリタリー趣味のない方にはそう見えるかもしれないですね。でも戦争ドキュメンタリーなんかをマジメに観て歴史を反省しつつ、その一方で兵器はいいなって思う。そういう人種なんです(笑)。だから本当に戦争が好きなミリオタっていないんじゃないかな? 兵器を使ったらどうなるかっていう現実を知っているぶん、いざ戦争が始まったら最初に反対する気がする。
 
 「放課後アサルト×ガールズ」高田慎一郎×上坂すみれ対談より引用

 
 ミリタリーマニアは戦争と兵器にきっちり線を引いているというのは、観点を変えれば案外、一般的な感覚かもしれない。たとえばヤクザ映画が好きだからといって、その者がヤクザ者とは限らないし、外国の人が日本のアニメやファションやサブカルに興味を抱く時、そこに政治性は皆無であろうし、逆もしかりである。日本人の若い女性の間では韓国のアイドルは一定の需要があるが、あれも政治性は皆無である。あるいは日本人でフランスのファッションや音楽や料理が好きな者でもシャルリエブトというくだらないゴシップ紙には反吐を吐いた者だっていたはずだ。その者はだからと言ってフランスのファッションや音楽や料理を嫌いになっただろうか?

 そういえばアメリカに二発も原爆を落とされた国がある。無数の婿の民を殺戮されたのにアメリカの文化を受け入れたのはどこの国民か。


 感情、感性、知性を分けて考えてみるのもいいかもしれない。

 ・すみぺはソ連の芸術に感性的感応、体制に知性的関心→趣味

 ・被害を受けた世代の日本人(と、それを知っている日本人)はソ連に感情的憎悪・感性的憎悪・知性的否定→拒絶感

 ・上記に当てはまらない現代日本人はソ連を知性的・感性的・感情的無関心→興味なし


 『世界でいちばんユニークなニッポンだからできること 僕らの文化外交宣言』の中で、すみぺは高校生の時に「愛のソビエト・ロシア手帳」なるものを書いて遊んでいたことを告白しているが、それは本やネットで調べて勉強したことのノートに限らず、「穀物が似合うソ連の重要人物ランキング」をつくったり、重要人物をアニメのキャラのようにして「妄想の漫画」を描くといったことであったという。アニメの同人誌というのがあるが、それに似た感覚だろうか?その態度は、楽曲にも現れている。





 「どうして!ルイ先生」(1st EP『彼女の幻想』に収録)はソ連の農学者トロフィム・ルイセンコを題材にしたノリノリのエロクトロポップス。ルイセンコは2011年の東日本大震災の折に、原発過酷事故による御用学者がメディアに登場した際、ツイッターなどで話題になったことがある。警鐘のため、権力と癒着し科学を体制のために都合よく利用するというルイセンコが引き合いに出されたのだ。ナチスの優性政策もそうだが、ルイセンコは、科学を装った妄想が誇大妄想としての権力とタッグを組むとカタストロフィへ向かうという、反面教師として知っておくべき人物である。

 ルイセンコ論争 

 ルイセンコはそもそも科学者ではなくオカルティストのような気がするが、どっちにしろ誤った見識で一国の農業政策を指揮し、反対者を粛清までして国民を大量に餓死させていたということに驚愕する。

 政治と疑似科学 

 医師で作家の森鴎外が脚気の原因を見誤ったことで陸軍軍人約2万7千人が死亡するという事例もあるが、科学者や権力者はなぜ死人を出しても自分の誤りを認めないのか。日本では、ハンセン病、水俣病、石綿(アスベスト)、薬害エイズ、原発過酷事故など、権力と癒着し都合のいい解釈をする御用学者が後を絶たないが、それについては、安冨歩のいう立場主義も参考になるだろう。

もう「東大話法」にはだまされない 「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く (講談社 α新書)





 立場主義という観点は、ソ連という誇大妄想について理解するのにも助けになるかもしれない。いずれにせよ責任ある立場の者が過ちを認めず、己れの妄想に固執し、自分の地位を守るために権力に擦り寄るなどして、罪なき人々を巻き込むのはとても罪深い。被害者からすれば法で裁くだけでは、悪魔的人間への恨みや葛藤は癒されないのだから。

 現在、世界的にも似非科学、原理主義、ポピュリズム、排除の論理が跋扈しているが、そういったものは亡霊となって彷徨うもの、人に取り憑くものなのかもしれない。というとオカルトだが、それくらいの根深さがあろう。それはすみぺの「ヤバい○○」の歌詞でいうところの「理性の罠」=感情の劣化の反知性主義なのだろうか。

 ところで最近、日本人の女性による北朝鮮のファンクラブ「千軍女子」というのを知った。
  
 http://toyokeizai.net/articles/-/196328
 
 http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/popress/feature/CK2017061102000227.html
 
 https://web.archive.org/web/20160814184912/http://dailynk.jp:80/archives/category/先軍女子「ちゅぬんトンム」の恋する北朝鮮?rensai=1


 共産趣味については何となくわかった気がしてきたが、北朝鮮は現役の国家である。リーダーは大学で大日本帝国時代の美術と北朝鮮の現代美術を専門に研究したという韓国寄りの人物で、冗談のつもりはないようだ。すみぺがソ連の芸術に感性的に感応し、体制に知性的に関心を抱いたように、やはり、北朝鮮に対してもそのような捉え方をする者がいるということのようだ。

 自身を少数者だと知る者は、今までは差別や偏見を恐れて表には現れなかったが、今はネットの時代である。同好の士を見つけるには時空を越えるネットは恰好の場だ。しかしネットで同好の士を得ようとすれば、同時に批判者も得てしまうことは避けられないのが現状である。

 千軍女子をジョークとしてだけ評価するなら私は面白いと思う。ジョークというのは不謹慎なほど面白いものだから。しかし世間というものは鷹揚であった試しがない。「千軍女子」もかなりの攻撃に遭っているようだ。

 やはり大方の日本人にとって、北朝鮮から文化芸術だけを切り取って見るのは難しいのが事実だろう。北朝鮮の主な被害者は北朝鮮の国民であるが、その点だけ観ても人道的に理解できないのに、複数の日本人が拉致被害に遭い、今も戻って来ないのである。しかも戻って来ない者は既に死亡していると思われる。そして現在、アメリカの子分として日本は北朝鮮と緊張状態が継続している。そうしたノンフィクションがまず目に飛び込んできて無視できないのである。そのせいで文化芸術は目にも入らないのである。


 ひとつだけ言えることは理解も許容もできないからと言って彼女たちが社会的に排除されてはならないということだ。思想信条の自由とは個人の感性をも保証するものだろう。多数派だったら良くて、少数派だったら駄目というのは非論理的だ。多様性の社会の実現ということを言うのなら自己は相対化しなければならない。遵法精神の欠落、倫理の欠如がないのなら、価値観の違い、感性の違いは許容されなければならない。
 

 とはいっても受け付けないものは受け付けないし、乗り越えられないものは乗り越えられないのだが・・・。
 
 
 そんな時、私はこの態度『関わらない!逃げる!距離を取る!平和は野良猫に学べ!』を躊躇なくとっているが、ともかく事実として「人間は誰でも主観、つまり自分の知情意を基準にしてものごとを認識する」ものである。これを知っている者はいつも自分を相対化するが、知らない者は自分を絶対化して他者を、世間を、裁く。

 
 105歳で逝去した日本画家・小倉遊亀(1895-2000)は著書「画室の中から」(中央公論美術出版 1979年刊 84歳時)で、

「自分の作った観念の殻にとじこもって、他を排斥して止まぬかたくなさを、老人というのだ。希わくば老人になりませんように」


 と言ったが、残念ながら今の日本はまさしく偏屈老人だ。政治家も市民もこぞって排他的独善的正義を振りかざしている。帝国主義復活への道が開かれ、自由と民主主義は死に体だ。北朝鮮を敵視断罪しながら、北朝鮮のような国になろうとしている。こんな笑えない笑い話があるだろうか。
 
 
 70余年後、現代の日本を趣味とする者は現れるのだろうか。

 私が提案したいのは、世界に、国家に、オマージュを捧げて遊んでみることです。思想を発信して世界に影響を与えるとか革命を起こすとか、大それたことをやるんじゃなくて、もうちょっとまろやかに、思想を刺激せずに、遊ぶという感覚で他の国を見てみませんか? きっと、他の国が、世界が、全然違って見えるようになります。
 たとえば、私は日本で遊んでいます。日本を、物騒なものじゃなくて、過去に存在して今にはない面白いもの、刺激的なものという風にファッション的に眺める。そういう目線で日本を見て楽しんでいます。日本のアメリカ追従型帝国主義とか思想は置いておいて、アバンギャルドな部分を楽しむというのでしょうか。このような発想ができるのは、生まれが晋恵(2019年、平成天皇退位後の世界)というのもあるかもしれないですね。

 私が最初に日本と出会ったのは、高校生の時でした。アメリカ国歌を動画で見て日本に興味を持ちました。

 (中略)

 こんな時代があったんだ、と日本がなかばフィクションの世界みたいに感じられて。すごく極端な世界で面白いなあ、と。

 そこから日本はどんな国か、日本のアメリカ追従型帝国主義はどんなシステムか、どんどん調べるようになりました。帝国主義者にあこがれる、というわけではなくて、純粋にその構造に興味を持ちました。そうしたら、びっくりすることばかりで。


 「世界を平和にするためのささやかな提案」2094年刊より引用

 




(4)一期は夢よ、ただ狂え



 「リバーサイド・ラヴァーズ(奈落の恋)」(テレビアニメ『鬼灯の冷徹』第弐期エンディングテーマ)は耳で聴くだけだと、桜咲くうららかな春にシャボン玉が、ふわわわっと空に舞うようで気持ちよいが、PVを見たら花魁姿のすみぺがすごく妖艶でゾクゾクする。琴の調べによる長めのアウトロは風鈴のような、手こぎ船のオールのような、余韻を残して美しい。

 彼岸花咲く村外れの六地蔵に白い犬が出てくるが、タロットカードの「愚者」では白い犬は旅人ジャック(自由人)の相棒。ジャックの行く手は崖だが気づかないため、賢い犬は吠えて警告している。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/愚者

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/90/RWS_Tarot_00_Fool.jpg

 PVでは、この世の地獄で春も冬も味わった花魁もあの世に往かば白ワンピ一枚。奈落の恋は、つまりどんな危険が待ち受けようと、親友に警告されようと、心の声=感情&本能の純化に従うことだろう。それはつまり初期状態、0に戻ろうとすること。愚者ジャックとなって崖から転げ落ちることを恐怖ととらえるか、エキサイティングなアクティビティととらえるかはその人の感性によるだろう。タロットカードは1番から順に階段を登って21番・世界に至る道を示しているが、ちょっと待ってほしい。0番から崖を飛び降りて直接21番・世界へと至る道だってあるのではないか?奈落の恋とはそのショートカットダイブ。


 どうせ地獄に落ちるなら、知ってはいけない恋などありはしない


 と、いうのは私の都合のいい解釈だが、落ちてみたいものだ、奈落の恋に、、、


 などと軽口を叩くと○○を蹴られそうだから閑吟集(かんぎんしゅう、室町時代の1518年に世捨て人がまとめた歌謡曲集)の話をしよう。もっとも有名なのは以下の一節だろう。



 世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり
 何(なに)ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波(ふうは)の一葉(いちえふ)よ
 何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀(こらいまれ)なり
 ただ何ごともかごとも 夢まぼろしや水の泡 笹の葉に置く露の間に 味気(あぢき)なの世や 
 夢まぼろしや 南無三宝(なむさんぽう)
 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔(がほ)して
 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ 


 <訳>
 世の中はちろっと過ぎて行く。ちろっと瞬くその間に。
 どうってことないんだよ、うき世は。風に吹かれる木の葉のようなものさ。
 おやまあほんに、私も何時の間にか七十歳、古稀とやら。どうってこともなく過して来たんだが。
 この世はすべて夢まぼろし、水の泡のように、また笹の葉の上の露のようにはかないもの。その一時の夢の世をどうやって生きるっていうの。
 この世は夢まぼろしだって。わあ大変、えらいこっちゃ。
 まじめくさった人なんて、見ちゃいられない。夢、夢、夢の世の中を、一人醒めたような顔をして。
 どうする気だい、まじめくさって。所詮人生は夢よ。遊び狂え、舞い狂え。

閑吟集 宗安小歌集』(新潮社 1982年刊)より引用
 

 ちろりってなんやねん!っと思うが、とりあえずオノマトペということにしてスルーするとして、ようは人生は瞬く間に過ぎる夢幻なのだから、一瞬一瞬、自分の夢(興味、関心、恋etc)を追求して無心におもしろおかしく生きよ、といったところか。


 この歌を理解するには少し時代背景を説明しておいたほうがよいだろう。閑吟集が編纂された1518年から遡ること約40〜50年前、足利将軍家の家督争い、および幕府管領家の家督争いに伴う幕府を東西に二分した戦争・応仁の乱(1467〜1477年)があった。この時、30万人といわれる兵が京都に集結したため、京都の街は灰燼と化したという。この戦いで幕府は弱体化したため、その戦後も各国の大名同士の小競り合いは続いた。貧しさに耐えかねた農民たちの一揆も止まず、現代から俯瞰するなら1559年、尾張の統一と共に魔王・織田信長が現れる戦国時代の幕開けを今か今かと待っている時代だった。

 応仁の乱において東軍側で戦い、加賀一向一揆を諫めた蓮如(浄土真宗本願寺中興の祖、1415-1499)による『白骨の御文』はこの時代を写し取るものだろう。


それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。



 閑吟集にも、こうした無常観が通底している。

 梅花(ばいくわ)は雨に
 柳絮(りゆじょ)は風に
 世はただ嘘に、揉まるる

 訳)梅花は風に、柳の実は風に翻弄されるが、この世はまた「嘘」というむなしいものに揉みくちゃにされているよ



 世間は霰よなう
 笹の葉の上の
 さらさらさつと降るような

 凡そ人界の有様を
 暫思惟してみれば
 傀儡棚頭に彼我を争ひ
 まこといずれの所ぞや
 妄想顛倒、夢まぼろしの世の中に
 あるをあるとや思ふらん


 訳)この世は霰、笹の葉の上に降りかかる霰みたいなものよ。さらさらさっと、降っては過ぎ去ってしまう。そもそも、人間界の様相をあれこれ考えてみるに、傀儡師の操る人形の舞台同然のこの世で、人はああだこうだとわずかなことを争い、本当に自分がいかに小さな存在であるかも知らずにいるのだ。迷いにとり憑かれて誤ったさかさまな判断をし、夢幻のごときこの世なのに、目に見えるものすべてを実在だと思い込んでいるようだ。

閑吟集 宗安小歌集』(新潮社 1982年刊)より引用


 こうした諦念は、聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真(この世にある物事はすべて仮の物であり、ただ仏の教えだけが真実」、聖徳太子を尊崇していた親鸞(1173-1263)の言葉をまとめた唯円の歎異抄「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて、そらごと、たわごと、真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」にもあるように、ずっと日本を支配し続けてきた世界観だろう。
 
 ただし、閑吟集の歌たちは、ただ嘆き悲しんでいるのとは違うようだ。閑吟集は今の時代でいうところの歌謡曲である。それも七五調にも囚われなければ、歌い方も決まってない、芸道とは違う自由な歌謡曲。貴族、武士、僧侶、庶民、、、身分を越えて広く流行した歌謡曲集。閑吟集の編纂者は自ら世捨て人の僧侶を自称しており、おそらく老人であるが、偏屈ではなく、古典に精通した風流な人物のようだ。尺八を友として、富士山を望むところに隠居して10年だという。そのような人物が編纂した閑吟集は全311首のうち、恋の歌が最も多い。それも秘密の逢引や片思い、一夜限りの恋の歌。単純に編纂者の趣味なのかもしれないが、これは、恋が火宅無常の世界を生きる上で人々のエネルギーとなっていたということかもしれない。恋の歌を紹介しよう。

 扇の陰で目を蕩めかす 主ある俺を 何とかせうか せうかせうかせう(閑吟集90)
 
 訳)扇の陰から蕩ろりとした目で色目を使って。ちゃんと彼氏のいる私をどうしようっていうのよ。どうしようっていうの、一体どうしようっていうの。

 
 ※“俺”は現在でも東北地方で男女問わず使われているように、ここでは女性。

 扇というのは実は女性の陰部の暗喩でもある。茶壷、靭(矢の入れ物)、鞘(刀の入れ物)、臼(杵に打たれるもの)もそう。二対になっているものはだいたいそう。古典は下ネタ抜きでは語れないというのは余談だが、この歌は以下のように続く。

 誰そよお軽忽(きょうこつ)
 主ある我を
 締むるは
 喰ひつくは
 よしや戯るるとも
 十七八の習ひよ、十七八の習ひよ
 そと喰ひついて給ふれなう
 歯形のあれば顕るる

 浮からかいたよ 
 よしなの人の心や

 
 訳)誰よ軽はずみな。彼氏のいる私を抱きしめたり噛んだりして。まあいい、私も17,8歳の女盛りとて少々のいたずら心は許されるでしょうよ。しかし噛むにしてもそっとにして下さいな。「歯形のあれば顕るる」というから。
 思い切り煽って、ウカラカシ(うっとりと、あるいはほうけて心が奪われてしまうように、人を興奮させる)てやったわ。人の心なんて他愛のないものね。



 なんとも奔放な歌である。現代日本の感覚から言えばビッチだ。笑

 まぁ昔の人は恋と性とは一心同体だったそうだが、、、。


 この少女に惑わされたかのような男の歌もある。

(序歌)
 花の錦の下紐は
 解けて、なかなかよしなや
 柳の糸の乱れ心
 いつ忘れうぞ、寝乱れ髪の面影

 訳)あの子の美しい下裳(したも)の紐がとうとう解けて、思いを遂げることが出来たが、まなじ心が燃えさかり、やるせない思いをかきたてる。私の心は柳の糸のように乱れ、あああの寝乱れ髪の面影が、何時も何時も瞼から消えない。



 なんという恋情の濃さなのか。芳香とともに強烈な映像が瞼に浮かんでくるようだ。閑吟集の時代、武家は政争し、庶民はヒモジさの中で横暴な権力に立ち向かっていた。その彼らの慰みが、労働歌でも反戦歌でも革命を叫ぶ歌でもなく、このようなエロティックな恋の歌、切ない恋の歌を歌うことだったと思うと、実に濃厚な人生が想像できまいか。否、老人であろう編纂者の「世の中同様、人の心も虚しいけれど、思い出すのはその虚しかった恋ばかり」という、卑俗さからの選曲なのかもしれないが、私には、厭世を突き抜けて、権力を求め、飯を求め、恋を求め、笑いを求め、争いを厭わず、欲望を肯定し、生きることに本気だった往時の人間のあり様が目に浮かぶのである。

 生きる意味のない世の中でソビエト人はアネクドート(政治風刺の小話)を発明したが、日本人は恋にうつつを抜かして文学へと昇華した。そう考えると文化の違いというのは実に面白い。
 
 
 



(5)タモリとコトバと意味

 すみぺには無常観も厭世観もないようだが、趣味三昧(狂い)の人であることは間違いないだろう。加えて、自然体、知的、即興的、自己相対的、キワモノ的、深夜番組的、得体の知れなさ、、、名付けようのない芸風はタモリ(森田一義,1945年8月22日生まれ)にも通じるかもしれない。

 ならばタモリというフィルターを通せば、すみぺの正体に近づけるだろうか。そう思って、『タモリ学』(戸部田 誠・著 イーストプレス 2014年刊)という本を読んでみた。その結果、やはりタモリはタモリであり、すみぺはすみぺであると結論するが、タモリというフィルターを通すことは手がかりになりえるかもしれないとも思う。

 たとえば以下の一文などは、そのまま、すみぺのソ連への評価ではあるまいか。

 本は危ない、とタモリはいう。

 「活字に対しての『あやしいぞう』と思う気持ちは、いつもありましたね」

 ある本を読んでいた時、その著者が「異様に盛り上がっている」ことに気付いた。ごく当たり前の意見をやけに仰々しく記し、その勢いで、いかにも非現実的な前提を元に論を進めてしまっているのだ。

 「だから、途中から、『バカじゃないか』と思うと同時に、『まちがっているけど、本人は、ものすごく盛りあがっていること』が、おもしろくなっちゃって」「最初につまずきはあるんだけれど、それにもかかわらず、もう、勇んで、勇んで、勇んで……!勇み足、勇み足の連続で」

 自分の言葉に酔い、その無内容な言葉を積み重ねていくことで、どんどん論旨が逸脱し矛盾が膨らんでいく。しかし当の本人はそれに気付けない。

 「本というモノの悪い面は、そこですよね。本の中だけで、いくらでも盛りあがっちゃうというか……」(p94-95 『タモリ先生の午後2007。』『ほぼ日刊イトイ新聞』2006年12月)



 NHK青年の主張全国コンクールに対するタモリの感じ方も近いように思う。「嫌い」と思うところを「面白い」と捉える感性。

「あの欺瞞と偽善に満ちたワザとらしさ、クサさがたまらなく笑っちゃうんだよねぇ。パターンが決まってるんだよ。まず一念発起して何かを始める→挫折する→涙を振り絞って再び出発する。これだよ、クサいねぇ、クサくて鼻曲りそうだろ。これが面白いのよ」(p77『タモリが本屋にやってきた』タモリ著、オールナイトニッポン編/ニッポン放送出版 1983年)



 すみぺとタモリ、端的にふたりの違いを述べるならば、すみぺはタモリほど自身の思考を明確化、言語化していない。それは女性ゆえの慎みによるものだろう。日本の文化は女性に直截な表現を規制している。

 最大の違いはタモリの芸はテレビ、ラジオありきだということだろう。舞台やネットでは成り立ちにくい。すみぺはテレビでも、ラジオでも、舞台やネットでも成り立つ。


 ふたりの共通項は、

 ・目標を持たない
 ・正直
 ・自立しているが孤立はしていない
 ・自分独自の世界観を持っている
 ・知的好奇心が強く、観察眼がある
 ・模倣能力(演技力)が高い
 ・趣味三昧(狂い)
 ・宴会芸
 ・芸(趣向)の無意味性・即興性(アドリブ)・批判性(主に偽善への)→予定調和の破壊
 
 
 タモリがいう「なるべく異常なことを普通にやりたい(p83)」を実現しているのも同じだし、反省しないというのも同じかもしれない。すみぺは自身のライブ映像を振り返らないという。
 
──現場で観たライブでも、違った視点、さまざまな視点から楽しめるのがライブ映像のだいご味かなと思います。ちなみにご自身でライブ映像を観るのは……。
 
観ないです。

──えっ。製品盤じゃなくとも映像チェックなどは。

やったことがないです。リハーサルの記録映像は確認のために観ますけど、製品盤なんて恐ろしくて観られないです……酩酊している自分を観るようなものなので。

──折に触れ映像化を拒んでますよね(笑)。中野公演のMCでも「DVDなんて滅びればいいのに」って。

本当にそう思いますね。DVDからBlu-rayなんて「何を進化してんだ」って。だって、昔はそんなにライブ映像って作られていなかったし……ザ・スターリンが豚の臓物を投げているところなんて映像で残ってないですよね。

──確かに、昔からライブビデオはありましたけど、今ほど頻繁に作られるものではなかったかもしれません。

そんなに何度も思い出を反芻しなくていいですよ。1回だけで十分。

 上坂すみれ「踊れ!きゅーきょく哲学」&「上坂すみれのひとり相撲2016~サイケデリック巡業」インタビューより引用

 
 タモリも自分が出た番組を振り返らない。


「反省なんかしません。反省なんかしたら毎日やっていけませんよ。悪いこといっぱいあるんだもの。俺が自分の番組いっさい見ないのも、悪いことばっか見えちゃうから。自分の番組見てたら自分大嫌いになりますよ。自分のこと大嫌いですから。番組中は自分のことを忘れて結構やってるから、後でああいうことやってる自分を見たら嫌だもの」(p212『エチカの鏡 ココロにキクTV』フジテレビ 2009.2.1)

「反省と一口に言っても、勝手に自分だけが悪いと思っている場合があるからね。そこでもう一回、その反省をもとにして、同じ状況に立って、こうすれば良かったと思ったことを再びやったときに、それがその場にそぐうかそぐわないかは、また疑問だからね。そんなことのために反省してもしょうがないものね」(p212『パピルス』幻冬舎 2008.10月)



 タモリは五無主義「無計画、無責任、無目標、無国籍、無専門」を掲げており、加えて思想もない。

「俺なんてテレビで伝えようと思ったことがないもん。だいたい伝えたことがない。」(p260『笑っていいとも!増刊号』フジテレビ 2013.7.7)


 
 タモリは物事に期待も執着もしないというから、実際には九無主義だ。「無計画、無責任、無目標、無国籍、無専門、無反省、無思想、無期待、無執着」。これではいくら内面を覗いても何も見えないはずである。覗いたところでブロッケン現象のような人型が薄らぼんやりと突っ立っているだけで、暖簾か、幽霊か、柳のように手応えがない。そこにあるのは何にでもなれる自由さ、可能性だけである。否、むしろそれを楽しむためにアイデンティティに執着がないのではないか。キャリア指向の自己成長物語「本当はもっと凄いはずの自分」を探すことよりも、誰かや何かの特徴(こだわり、癖の強さ、大げささ、嘘、隠蔽、偽善、ナンセンスさ)のおかしさに気づき、それを味わうことに生きる楽しみを見出しているのではないか。
 
 このように仮定した時、私はある着想を得た。一般に解釈とは、目的や動機や理由といった「意味」を見出そうとする推理のことだろう。しかしその定義だとひとつ困ったことが起こる。なぜならばハナモデラ語やデタラメ外国語によって言葉の意味を破壊しようと試みるタモリには如何なる解釈も無効ということになるからだ。

「意味の世界がきらいなんです」
「ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね」
(p78『はじめてのJAZZ。』ほぼ日刊イトイ新聞 2005年)


「無思想で、明るく単純に楽しむのが、音楽なんだ」
(p72『タモリが本屋にやってきた』タモリ著、オールナイトニッポン編/ニッポン放送出版 1983年)


「俺のやることに意味なんかあるわけないだろう!」(p68)
「意味なんてどうだっていいんだよ」(p81)
「意味をずっーと探すから、世界が重苦しくなるんだよ」(p81)
(笑っていいとも!)


 当時(中学時代)タモリは、毎日のように教会に通っていた。
 台風の日でさえも教会を訪れ、牧師の話に耳を傾けていた。「今日ハココニ集マッタカタガタコソ信仰深イカタデス」と牧師は語り、タモリに「アナタハ敬虔ナ人デス」と熱心に洗礼を勧めるのだった。
 タモリが数年にわたり教会に通っていたのは、信仰心があったからではない。ただ単に、牧師の口調が面白かったのだ。
 外国人の、しかも牧師特有の片言の日本語。当時でも日常的にはあまり使われない「アマツサエ」「ナカンズク」などの単語が織り交ぜられた仰々しい口調が、タモリにはとてもおかしかった。
 キリストの教えという「思想」や「意味」ではなく、言葉の響きや牧師の口調を味わっていたのだ。こうした体験が、インチキ牧師の下地になったのは間違いないだろう。
 さらに遡れば、福岡の地理的条件により容易に受信できた米軍放送や北京放送を、タモリは小学生時代から好んで聴いていた。
 言葉の響きだけで意味が無いもの。それをタモリは好んだのだ。(p92-93)



 私の父はタモリの一つ上で、中学2年まで仙台で過ごしている。父も日曜になると母やきょうだい達と教会に通って日本語の賛美歌を歌ったりしたという。なのに父は聖書は読んだことがなく、信仰心もないという。ではなぜ教会に通ったのか?理由を尋ねると、教会に行くのは近所付き合いのひとつであり、学校の友達も来るし、甘いものが貴重だった時代に「肝油ドロップをもらえたから」だった。牧師からしたらあんまり話だが、人が来なければ教会も存在意義がないのだから、そのような者も受け入れる大らかさがないとやっていけないのかもしれない。東京の山谷などのキリスト教の教会で説教の後でホームレスに食事を提供しているが、あれもそうだ。集まる者はただ腹を満たしたいのであって思想(意味)にはてんで関心がないというのは、なんだが喜劇みたいで可笑しい。宗教者は善意を餌に教えを説こうとしているが、受け手は教えに関心を示すふりをして善意だけを受け取っているのだから。宗教者は気づいていなのか?否、承知の上なら大したもんだよカエルの小便!見上げたもんだよ屋根屋のふんどし!

 それはさておき、戦後すぐという時代は物資だけでなく、娯楽というものも少ない時代である。だから『遊びは自分で見つけ出さなければならなかった』。父の場合は、化石の採集をしたり、横笛を吹いたり、山の中の屠殺場に行って牛を観察しながら粘土で牛をつくったり、学校に行ってない白っ子と遊んだりしたという。ラジオはあったからよく聴いてたようだ。仙台には進駐軍キャンプがあったのでアメリカのポップスをよく聴いたという。CDの時代になると、当時(1650-60年代)のヒットソングのアルバムを懐かしがって買い揃えていた。父はもちろん英語はわからない。ただメロディを楽しんでいただけだが、それも音楽の楽しみ方だ。歌詞の意味がわからなくても、インストゥルメンタルでも、楽しめるのが音楽なのだから。

 日曜の教会の集まりや、ちんぷんかんぷんな外国語の音楽、、、意味を無効にしても楽しめるものの発見

 少年時代、娯楽に飢えていた私の父やタモリの年代の人達にとってはそれはそんなに珍しいことではなかったのだろう。ただタモリが異質だったのは、そこから一歩進んで意味の表象である言葉に疑いを抱いたことである。

「言葉」と「現実」が齟齬をきたすのは、活字や本の世界だけではない。「『人間、お互い話せばわかる』なんてウソ」
「話せば話すほど言葉にだまされて、ますますわかんなくなる。「『話せば、わかる』じゃなくって『離せば、わかる』」(『JUNON』主婦と生活社 1989年8月)

「かんたに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう」「何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいことから離れている」(p106 『愛の傾向と対策』タモリ、松岡正剛/工作舎 1980年)



 コトバが理解できない、つまり意味がないのに楽しめるということは、コトバは不当に権威づけられているのではないのか?

 その疑いはタモリに急進的な考えをもたらす。


「いまは現実そのものに何の意味もなくなり、言葉だけが意味をもつかのごとく祭りあげられている。だから、言葉は変化しなくなってしまった。これはヤバイ」「それならむしろ言葉はないほうがいい。なぜなら、おれたちにとって本来大切なのは、言葉よりも現実。この現実に重みをもたせなければだめだ」「言葉に権威や正統性を持たせようとするなら、そんなのはどんどん地に落として踏んづけないと、新しい言葉は生まれてこない」(p96-97『ちょっと手の内拝見 プッロフェッショナル30人の読む、書く、話す』とらばーゆ編集部編/就職情報センター 1983年)

「コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりはコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命に燃えましてね」(p106 『愛の傾向と対策』タモリ、松岡正剛/工作舎 1980年)



 しかし、思考とはそもそもコトバを使ってするものである。独り言も、他者との会話も、本が文字によって著されるのもそのためだ。つまり人間はコトバからは逃げられない。そこでタモリは「言葉の意味の破壊活動」に出る。

「おれは乱しているんじゃなくて、壊しているんだ、日本語を」(p97 『今夜は最高!』タモリ/日本テレビ放送網 1982年)

「コトバをやっつけようという気はありますね。コトバを使ってね」「コトバっつうと、まず意味でしょ。そのへんからやっつけたかった。意味をなくそうって」
(p103 『愛の傾向と対策』タモリ、松岡正剛/工作舎 1980年)


 オカネも各種契約書も憲法も法律もコトバによって記述されている。コトバは意味を持っているから人間とその活動の現れである文化や文明を支配できるのである。ならばコトバから意味を剥奪することでコトバを無力化してみたらどうだろう。その時、コトバは単なる響き、音色としてだけ存在することになる。響き、音色でしかないコトバは、それでも現実を支配できるだろうか。俺を支配できるだろうか。

 その仮説を検証するための実験がハナモゲラ語、デタラメ外国語なのではないか。


 ハナモゲラ語、デタラメ外国語は、聴いてるほうとしてはくだらなくてだただ笑ってしまうが、それはタモリの仮説が実証された証左だろう。確かにコトバを話しているのに意味がない(内容がない)のだから。そのおかしさはふざけた言葉遊びにしか見えないが、タモリの思考を辿ってみると、タモリはかなり革新的なことをしたのだと気づく。


 さて、ここでタモリの深層心理の追求をやめては核心には至れない。そもそもタモリはなぜ意味が嫌いなのか。コトバから意味を剥奪しようとするほどに。タモリが「言葉とは余計なもの」と確信したのは19歳の時だったという。

 浪人生だった時にタモリは、ふと座禅を組もうと思い立った。
 正式なやり方はわからなかったが、とりあえず部屋の隅であぐらをかき、目をつぶった。
 するとすぐに雑念がどんどん頭の中に入ってきて、さまざまな言葉が浮かんでくる。何時間もそれを続けていると、一種のトランスであろう「変な状態」になっていったという。ともかく目だけはつぶっていようと初めは思っていたが、その意識も薄れていった。
 やがて、もうどうでもいいとヤケクソのような心境になり、ふっと目を開けた。タモリの視界に飛び込んできたのは、見慣れた窓の外のねずみもちの木。それがなぜか新鮮で美しいものに見えて感動したという。(p93-94)

 「もしからしたらね、小さい頃はいろんなものがそういうふうに見えてたんだと思うんです。それが、だんだんそう見えなくなってくるのは、やっぱり言葉がいけないんじゃないか」「言葉が全ての存在の中に入りこんできて、それをダメにしている」「オレの中では言葉がすごく邪魔している。一種言葉に対するうらみみたいなものが、なんとなくずーっとありました」(p94 『広告批判』マドラ出版 1981年6月)


 
 つまりタモリは瞑想によって得た真理、すなわちコトバという「嘘」に支配されているのが現実であることを知ったのである。タモリにはこの嘘が「今ここを生きている生々しい私(現実存在)」の邪魔でしかなかった。タモリは意味なんていらないというが、否、コトバと意味と嘘のトリニティに支配されて生きるのは、生きる意味のない耐えがたい絶望だったんじゃないか。タモリが生きたいのは見慣れた窓の外のねずみもちの木が新鮮に見えて感動するあるがままの真実の世界のほうなのだ。タモリにはその世界にこそ生きる意味がある。

 その世界はコトバでは言い表せない世界である。だからタモリにとってはコトバは意味がない。真実の世界を語れないのだから。タモリにはコトバの意味は「嘘」であり真実ではないのだ。なのにコトバと意味と嘘はトリニティとなって現実を支配している。だからタモリはこのトリニティと対決することにした。そこから自由になるために。しかし人間である以上はコトバそのものからは逃げられない現実がある。そこでタモリは戦略としてコトバから意味を抜き去ることにした。その結晶がハナモゲラ語でありデタラメ外国語。コトバを意味のない嘘に成り下げてみせることでコトバの正体を明らかにするのと同時に無力化したのだ。

 




(6)すみぺにとっての音楽

 さて、このタモリのコトバと意味と嘘のトリニティに対する葛藤の克服と似たことをすみぺもやっているといったら信じてもらえるだろうか?

 もちろん仮説、否、無意識という実証不可能な仮説に基づいた私の妄想小説であるから、ここから先は与太話を聴くつもりで聴いてほしい。

 まずは音楽について。すみぺは共産趣味について「思想は置いておいて」と語っているように、音楽でもそのスタンスをとっている。すなわち「意味」を目的や動機にして活動していない。すみぺはヘビィメタが好きな理由をこう語っている。
 
パンクやヒップホップも現状に不満のある人の音楽だと思うんですけど、パンクスの人やラッパーの人って社会的なメッセージを直接的に歌うじゃないですか。それも素晴らしいんだけど、メタルの人はもうちょっと地下に潜っている感じ。もちろんジャンルにもよるんですけど、その不満を悪魔なんかになぞらえてみたりするところも好きで。そのファンタジックな感じ、ちょっとオタクっぽい感じも私と通じているのかなあっていう気がしています。
 「閻魔大王に訊いてごらん」&「80年代アイドル歌謡決定盤」インタビューより引用

 
 すみぺは自身が選定したコンピレーションアルバム「80年代アイドル歌謡決定盤」に収録された森川美穂の「姫様ズーム・イン」についてこう言っている。
 
「姫様ズーム・イン」の歌詞もかわいいですよね。男の子言葉で「ムカつくぜ イラつくぜ そのナヨっぽさ」とか言っちゃって、ちょっと二次元っぽくて(笑)。今も当時もあんな言葉遣いをする人って女の子はもちろん、男の子にもいなかったと思うんですよ。

──確かにいませんでした(笑)。

でもどこかにはいそうな感じもする。その現実にいそうでいない雰囲気がいいなって思ってます。

 「閻魔大王に訊いてごらん」&「80年代アイドル歌謡決定盤」インタビューより引用
 
 
 「Inner Urge」についてはこう言っている。
 
このメロディとアレンジはすごく好きです。ちょっと懐かしくもあるし、踊れるしって感じが「スペースコブラ」の主題歌(前野曜子「コブラ」)とか、ハロプロの最初の頃の曲とか、あと黒人ボーカルのディスコもの……例えばドナ・サマーとか、ああいう曲を思い出させてくれるので。
 
 (中略)
 
 よく「歌うときに心がけたことは?」って聞かれるんですが、いつも上手に答えられなくて……。今回に限らず、あまり意図とか狙いはないんです。例えばこの曲であれば私が考えたことは「にぎやかだしセリフっぽいフレーズもあるから、愉快に楽しく歌ってみよう」っていうことくらいで。そうすればあとはスタッフの皆さんがいい感じに仕上げてくれるんじゃないかなって(笑)。

 「Inner Urge」インタビューより引用
 
 
 「恋する図形(cubic futurismo)」についてはこう言っている。
 
アバンギャルドな世界観なのでわかるといえばわかるし、わからないといえばわからないという感じなんですけど、好きですね。聴いてる人は歌詞の意味ではなく全体の雰囲気を聴く感じになると思うんですが。でもテクノポップってそういうものだと思うのでいいと思います。私もあんまり意味があるようには歌っていないので、音を楽しんでもらえたらと思いますね。

 「恋する図形(cubic futurismo)」インタビューより引用
 
 
  決定的なのは以下の発言だろう。

「私らしさ」ってどういうものだと思います? 「Inner Urge」は、ニューウェイブテイストの「七つの海よりキミの海」やクラストコアの「パララックス・ビュー」とは明らかに違う。でもどの曲も上坂すみれのディスコグラフィにキレイに収まっていますよね。

なんでなんだろう……。「あえてムリヤリ例えるならば!」ではあるんですけど、うまい棒みたいなものかもしれませんね。あるいはランチパックのどっちか。

──へっ!?

うまい棒もランチパックもたくさんバリエーションがあるけど、どれもうまい棒の味、ランチパックの味がするじゃないですか。すごくヘンなご当地うまい棒を出されても「ああ、うまい棒だね」って。本当に意地を張って例えてみるならっていう話ではあるんですけど、なんとなく“上坂すみれという型”があるから、中に何を詰められても“上坂すみれの曲”になるのかな?っていう気はします。

──リスカは当然うまい棒のレシピを持っているはずだし、ランチパックの山崎製パンもしかり。上坂さんは上坂すみれのレシピを持っていたりは?

いえ。あくまで「なんとなく“上坂すみれという型”がある」っていう感じかな、と。心のどこかには「上坂すみれとは」という基準があるのかもしれないんですけど、それは無意識のことであって前意識にも出てきてないです。そしてそれでいい、“上坂すみれという型”に対してそんなに自覚的でなくてもいいんだろうなとも思ってます。

──それはなぜ?

その自覚が邪魔をしていろんなことができなくなる気がするんです。今の私を形成しているものの根本にはロシアやソ連、ミリタリー、ロリータがあるんですけど「私はそういう人だから!」って規定してしまうと、例えば横山三国志にハマるのはなんか違う気がするし、この間オススメさせていただいた「うる星やつら」も読んでる場合じゃなくなる気がしますし。

──“上坂すみれという型”に行動を制限されたくはない、と。

自分で自分を特定しないほうがラクですし、「うわあ……」って思いながらも愉快に楽しく「Inner Urge」を歌うことだってできますから(笑)。ただ、今回は特に何も考えず、愉快に楽しく歌いすぎた気はしていて。音源やミュージックビデオを解禁したとき、けっこうビックリした同志もいたみたいで……。

──普段下ネタを言っているイメージがないから、練度の高い同志ほどこの詞にはビックリするかもしれないですね。

そうみたいです。ただ「Inner Urge」って下ネタというには開けっぴろげすぎるというか。「月刊コロコロコミック」や、ゲームの対象年齢を決めるCEROでいうとA(全年齢対象)レベルの下ネタ・言葉遊びみたいなものだと思うし、これを境にさらにエロティックなことを歌う人になるわけでもないですし。もっとエロティックな……例えばそうだなあ、「女囚・油地獄」みたいな歌は50代になってからですね(笑)。でも、ビックリした方がいるなら、何か1つくらいはこの曲についてタメになるお話ができるといいんですが……。

──いや、難しいと思いますよ(笑)。「『キセイ』の中には『セイキ』が隠れてる」「ぺろりぺろぺろぺろ 私ペロリスト」「S・O・X S・O・X S・O・X」。今回上坂さんはタメになることなんて1つも歌ってませんから。

あはははは(笑)。なんか洋楽の訳詞みたいですよね。日本盤の洋楽のCDって歌詞カードに対訳が載ってるじゃないですか。これもちっちゃい頃の話なんですが、父のクルマの中でディスコのコンピや洋楽のヒット曲集を聴いたあと「あのすごくキレイな曲は有名な歌だし、きっと人々の心を打ついいことを言っているに違いない」と思って歌詞カードを見てみたら「イカしたあの子のナイスなヒップが オレのフライドポテトを……」みたいなことしか書かれていなかったっていうことがあって……。

──ド下ネタもいいところ(笑)。特にディスコやR&Bって、ホントにいい声で、ホントにしょーもないことを歌ってたりしますよね。

LAメタルなんかもそうなんですよね。聴いているだけで絵が描けるくらい、いろんな情景を想起させてくれる筋肉少女帯や、絵本のように深遠な谷山浩子さんみたいな意味や物語性に富んだ曲ももちろん大好きですし、私の曲にしてもちゃんと意味のあるものはあって。それこそ大槻(ケンヂ)さんが書いてくださった「パララックス・ビュー」は意味深い歌ですし……。

──「げんし、女子は、たいようだった。」や「来たれ!暁の同志」は上坂さんのアティチュードを表明する楽曲ですしね。

はい。でも、その一方でLAメタルや電気グルーヴの「エジソン電」が大好きな私もいるんです。「この曲、本当に意味がない!」って(笑)。世の中にはそうやって愕然とするくらい意味がないのに楽しかったりカッコよかったりするものもあるし、「Inner Urge」もこの意味のなさを楽しんでほしいです。そういう点もまさにモラトリアム、猶予期間っぽい。今の私の音楽活動にぴったりだなって思ってますし。

 「Inner Urge」インタビューより引用
 


 すみぺは「意味」を目的や動機にして活動していないということを理解しないと誤解や偏見が生じるのは明らかだろう。受け手は『意味がないはずがないという先入観』を捨てないといけない。すみぺにとって音楽はむしろ雰囲気、世界観を楽しむものなのだ。加えて、同志(ファン)たちとのコミュニケーションを楽しむためのものである。


常に「どう歌えば私らしく、しかも楽しい曲になるか」という工夫は凝らしているつもりなんですけど、「私はこういうボーカリストになりたい!」「私のこの歌を聴いてください!」という欲求は薄いですし、目指すべきスタイルのようなものまだ明確には持っていない気がするんです。


──「私の歌を聴いてください!」という欲求が薄いとなると、なぜCDをリリースし、ステージに上がるんでしょう?


同志諸君(※上坂ファンの総称)をイジりたい……じゃないですね(笑)。同志諸君とコミュニケーションしたいからなんだと思います。花やしきのイベント(2015年のバースデイイベント)がまさにそうなんですけど、私のライブやイベントは町内の子供会スタイルというか。よい子のみんなとMCという名のおしゃべりを楽しみつつ、お歌の時間になったら、そのみんなと一緒に歌う(笑)。それができることが音楽活動をするモチベーションになっているんだと思います。


(中略)


音楽活動は声優とは違う魅力があって。曲のレコーディングはスタジオでの作業になりますけど、その後、その曲を皆さんの前で歌って踊ってみせるステージイベントがお仕事の中でも大きなウェイトを占めているから。その切り替えが楽しいんですよね。しかもお芝居と音楽ってまったく別世界のことではないとも思っていて。たくさんの人に会えるライブには声優・上坂すみれにもなんらかのフィードバックがあるはずですし。特に私のライブはセーラー服を着ている女の子もいるし、ロリータファッションの人もいるし、飛行士の制服にガスマスク姿の人もいるし、全然違うアイドルさんのTシャツやプロレスTシャツを着ている人もいるし、オタクの博覧会みたいなところがあるんです。その一見てんでバラバラの人たちはどういう人たちなんだろう? なぜ今ここに集まってきているんだろう?という感じで思いを巡らせることが、もしかしたらお芝居に何か影響を与えるんじゃないかっていう期待もあるし、「私が何をすればみんなは盛り上がってくれるんだろう?」って思案することもきっとお芝居に生きてくるはずですし。

 「20世紀の逆襲」特集ロングインタビューより引用
 

歌はなんで楽しいんだろう? 身体表現そのものが好きなわけではないし、ほかの誰かになれるわけでもないし……。

──「20世紀の逆襲」は“上坂すみれ”の2ndアルバムですしね。

だからやっぱりコミュニケーションの問題に話が戻っちゃうんだと思います。“上坂すみれ”のCDを楽しんでくださる誰かがいるから、“上坂すみれ”のライブを観に来てくださる誰かがいるから歌えるし、歌うことを楽しめるんだと思います。

 「20世紀の逆襲」特集ロングインタビューより引用
 
 
歌が好きでも、表現が豊かなわけでも、踊りがうまいわけでもないんですけど、同じ闇属性の人たちと集まる場を作るのが好きなんだなって。だからライブは好きなんですよね。曲を作ったりレコーディングをしたりするのは、それに向けての……コミケの申し込みみたいなもので。「申し込みに受かったらライブをやろう」みたいな。

──「こういう作品を発表する催しを開いてもいいですか?」と。

はい。私はライブを到着点に音楽活動をやってるんだなって。

──自分および同じ嗜好を持つ同志にとってより心地いいライブの空間を作るための、1つひとつの要素を構築するために曲を作っているみたいな。

そうですね。店に並べるものを作っているんだなって思います。

 「踊れ!きゅーきょく哲学」&「上坂すみれのひとり相撲2016~サイケデリック巡業~」インタビューより引用

  
 
 
 
 
(7)すみぺにとっての「かわいい」

 すみぺのいう「かわいい」の意味について。どうも、すみぺは「かわいい」というコトバに一般的な意味とは別に独自の意味付けをしているようだ。

確かに私はなんでもかんでも、チャーミングというか「かわいい目線」で見ているんだとは思います。例えばソ連の政治家の(ヴャチェスラフ・)モロトフが好きなんですけど、そのモロトフの魅力を伝えるにあたっても「スターリンという暴君中の暴君に粛々と仕えるその精神がとても愛おしい」とか「みんながスターリン批判をしている中、自分だけは批判しなかった。なんていい子なんだろう」とか、なんか結局「かわいい」に帰結する感じで語っちゃうんです。戦車についてもそうですし。「(ソ連の戦車)BTはキャタピラを取ると高速移動できるようになるんだけど、装甲が薄いから結局すぐに撃ち抜かれちゃうところがかわいいですよね」とか(笑)。

 「革命的ブロードウェイ主義者同盟」インタビューより引用
 
 文中の「愛おしい、いい子、かわいい」というコトバの意味を分析してみると「無意味、無能、無価値な存在」に置き換えられそうである。
 
 
 スターリンという暴君中の暴君に粛々と仕えるその精神がとても愛おしい(人として無意味、無能、無価値な存在)
 
 みんながスターリン批判をしている中、自分だけは批判しなかった。なんていい子(人として無意味、無能、無価値な存在)
 
 装甲が薄いから結局すぐに撃ち抜かれちゃうところがかわいい(殺人兵器として無意味、無能、無価値な存在)ですよね

 

 スターリンの暴走を止める役割をすべきだったのに単なるイエスマンでしかなかったモロトフ、備えているべき装備がないのに戦場に投入される戦車、どちらも達成したい目的を達成できていないという矛盾がある。その矛盾をすみぺは「愛おしい、いい子、かわいい」というコトバで表現しているのだとすれば、これは「可笑しい」と同義ではないか?つまり


 『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』が、すみぺにとって「愛おしい、いい子、かわいい」

 
 とりあえず、このように仮定してみる。

 
 一般に人が誰かに「かわいい」という時は、「わたしのこころをとらえてはなさない」という意味で使うものだろう。すみぺもそこは同じで、動物やアイドルに対して「かわいい」を使うことに躊躇はないようだ。相手にとって「かわいい」は褒め言葉であり、言えば喜んでもらえることを知っているのなら言うことを憚る必要などないのである。

 しかし、自分が「かわいい」と言われるのは癪に触るのだという。すみぺは自身が「かわいい」と言われることを酷く嫌がっているのだ。なのでファンは「かわいい」というコトバの代わりに「毛深い」と言う約束がある。
 
 
──「かわいい」を「毛深い」に置き換えるって発想、どこから出てきたんですか?
 
(中略)

かわいいの近似値にあるキュートとかだとよくないんですけど、「毛深い」は真反対の世界の言葉なので。かわいいの語感が嫌いなのかな? 毛深いって言葉は私を通り過ぎていってくれるんです。言葉を置き換えることで脳内でシナプスの旅をしてくれて、その間に脳が落ち着くってことだと思います。

──「かわいい」はガーンと突き刺さってくるけど。

「毛深い」は犬の毛のように会場中に散っていくという。私は脳科学的にも新しいと思っているんですが、同志諸君は言葉を発するときに「これでいいのかな?」って迷いがあるみたいで。毛深いを褒め言葉でストレートに言うっていう命令がなかなか成立しないみたいなんです。

──あえて逆の意味の言葉を指し示すわけですからね。

でも毛深いは“醜い”みたいな主観じゃなくて、状態を表す言葉なので。

──ああ、確かにかわいいゴリラとかいますからね。

はい。毛深さはかわいいということに作用しないので。

 恋する図形(cubic futurismo)インタビューより引用
 

 動物が毛深いのは生命の性質であって、身体の保護のために必要なことである。つまり意味がある。すなわち「毛深い」は意味のあるコトバであるが、「毛深いって言葉は私を通り過ぎていってくれる」という。

 その理由は「毛深い」は、すみぺの身体にとって「事実ではない」からだろう。「事実ではない」のなら「毛深い」と言われることはすみぺにとって意味がないことになる。


──でも上坂さんもハロプロとか好きなアイドルにはかわいいって言いますよね?

私は人にかわいいって言いたくて仕方ないです、はい。

──わがままだなあ(笑)。

普通の人はかわいいって言われてうれしいですよね? アイドルの方もありがとうって言ってくれますし。「かわいい」って言うことでいい作用をもたらすときとそうでないときがあって、私はあかりちゃん(Juice=Juiceの植村あかり)には「かわいい」って言っていいんです。なんの説得力もないんですけど(笑)、私の場合はそうなので、現場のルールとして覚えておいていただけると。

 恋する図形(cubic futurismo)インタビューより引用

   
 すみぺが動物やアイドルに対して言うように、ファンは本当にすみぺを「かわいい」と思うから「かわいい」と言う、言いたいわけで、「言うな」というのはどうみてもわがままだ。ファンの自由意志にまで介入しているわけだから。もちろん、されて嫌なことを拒否する権利はあるが。

 一般論を言うが、女性は好きな男性から「わたしのこころをとらえてはなさない」存在として見られることを嬉ぶが、好きではない男性からそう見られることはうっとうしいだけだろう。加えて『わたしが好きな男性を「わたしのこころをとらえてはなさない」存在として見ている女性』を嫌うだろう。女性にとって恋愛関係は二人だけの排他的な関係でなければならないのである。

 ところが男性が女性に「かわいい」という時はいささか、幼児に対するのと同じ感覚を含んでいることがある。すなわち「わたしのこころをとらえてはなさない」の他に「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたい」という欲求を含んでいる。幼児は保護しなければ生きられない存在であるから、幼児に対して、そうした本能が発動するのは自然なことだろう。成人に対してもそう思うのはちょっと歪かもしれないが、男性の女性を「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたい」という欲求には「恋愛関係になりたい」「セックスがしたい」という意味が含まれていることが多い。ということは未成年の子女に、その意味で「かわいい」というのはかなりまずい。汗

 日本には「かわいい」未成年をアイドルとして愛好するビジネスが認められているが、それが許されるのはアイドルとファンとはカネを媒介とした一対多勢の関係にしかなれないものという暗黙の了解があるからだろう。それにしても未成年に対してどんな欲求を持つのも自由だが行動は法律でもモラルでも規制されるからセーフなんだろうか?アニメなら全然問題ない?・・・汗

 その是非はここでは置いておくとして、アイドルは、どれほどの他人に「わたしのこころをとらえてはなさない」存在として見られているかが自尊心となるような承認欲求があるとされる。その言説の真義はどうであれ、あまり疑われないものだろう。

 だから、自撮りをよくするアイドル声優上坂すみれもそうなのだと、おまえらは思ってる。『自分の美貌に酔いしれている自分大好きな承認欲求の塊なんだろう』と。


 その観方が間違っていることは、ここまで述べたことで既に証明している。すみぺはファンに「かわいい」と言わせず、自分にとって事実ではない「毛深い」と言わせることで、「かわいい」というコトバから「わたしのこころをとらえてはなさない」という意味を抜き去っているのだから。すみぺは自分自身が誰かの「わたしのこころをとらえてはなさない」=意味ある存在として見られることが好きではないのだ。役者ゆえに単純にイメージを固定されるのを避けたいというのもあるかもしれないが、無意識の“上坂すみれという型”に対して自覚的でありたいとさえ思っていないというし、
 
 
 お芝居はその「リア充になれない私」であっても何者にでもなれるところが大きな魅力になってる」

 20世紀の逆襲」特集ロングインタビューより引用
 
 ともいう。これはつまり自分探しをしたいのではなく、何者かになることを楽しみたいということだろう。自分の無意識の型からも、誰かの「わたしのこころをとらえてはなさない」=意味ある存在であることからも自由でいたいのがすみぺなのである。
 
 おそらく、すみぺは平均よりも「かわいい」というコトバを幼児の頃からずっと言われ続けてきたと思うが、一般に女子も思春期になる頃には「かわいい」と言われることが嫌になるものなのではないか?一端の大人になろうとしているのにいつまでも「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたい」すなわち「コドモのままでいろ、オトナになるな」という期待を親や世間から受けてしまったら、それは強要と感じられるのではないか。だから男の子はたいがい母親にこう言って反発するのである「うるせぇババア!(ほっといてくれ!自由にさせろ!)」。女の子はこう言って父親を嫌うのである「クサイ!キモイ!(うっとしいから近づかないで!)」
 
  
 この心理を理解するのに、私が前に書いた記事が参考になるかもしれない。引用する。
 
 
 ■対他存在から対自存在へ
 
 ヘーゲル現象学には対自存在(Fürsichsein:being-for-itself)、対他存在(Sein für ein Anderes:being-for-others)という一対の概念がある。対自存在とは『主体性をもって世界や他者に関係する存在。名付けて対自分存在、略して対自存在』のことである。平たく言えば、自らの在り方と人生を他人の意思意志に左右されずに自らの意思意志で選択する者のことである。

 対他存在というのはその逆で、『他人の主観によって他人の中につくられる自己のイメージ、他人から~のように見られている私』を私とすることである。

 つまり対他存在としての私は他人の頭の中に存在しているが、「彼の眼差し」に見つめられた時には、私によって発見されるものである。

 たとえばあなたがホテルの部屋でひとりで裸でヘッドホンをしながら歌って踊り狂っていたとしよう。その姿を偶然、見も知らぬ他人である掃除のおばちゃんが気づかずに部屋に入って来て見てしまい、目が合う。するとそのおばちゃんはあなたをキチガイだと判断した。あなたはそのまなざしを感じて自分を恥じた。

 こういう出来事があった時、ではなぜ、裸でヘッドホンをしながら歌って踊り狂っているのを他人に見られるのを恥ずかしいと思うのか?

 その理由は、あなたが、その時、その他人にとっては今、自分が「キチガイ」として存在していることを認めたからだ。このように他人に関係されることで自分が主体性を失い、他人の眼差しによってのみ存在する在り様を対他人存在、略して対他存在というわけである。

 ではこの時、もし他人の眼差しを恥じなかったとしたら?

 むしろあえてちょうどいいところに人が来たから、「ヘイ、ブラザー、トゥゲザーしよぜ!」と誘うくらいだったら、あなたは対他存在にはなっていない。なぜなら主体性が自分の側にあって相手に積極的に関わろうという意志を保ったままだからだ。この時、あなたは他人のキチガイという眼差しを感知せず、自分勝手におばちゃんを一緒に踊りを楽しむ相手として見たのであり、あなたは世界や他者に「関係している存在」として存在している。つまり世界や他者に対する自分存在、略して対自存在である。


 ●世界や他者から関係される存在としての私=対他存在。矢印は世界から私に向かっている。

 ●世界や他者に関係している存在としての私=対自存在。矢印は私から世界へ向かっている。


 実存哲学者のサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905.6.21 - 1980.4.15)はこの概念を、鍵穴から女を覗く男が他者から目撃される状況で説明している。男が鍵穴から女を覗いている時、男は女に秘密裏に関係している存在としてのみ、つまり対自存在として存在しているが、その姿を他者から見られた途端、変態へと転落する。欲望のままに覗きをしているその時に他人から目撃される、つまりこの変態野郎!という眼差しで関係されることで、我に帰って自らを恥じた私は、変態男という対他存在になるというわけだ。

 他人の眼差しは自己を貶めることばかりに働くわけではないので、もうひとつ例を出そう。一軒家の火事があって、こどもがベランダに取り残されている。消防隊はまだ来ない。そこに居合わせた助平さんが頭から水をかぶり濡れたタオルでほっかむりをして果敢にも火の中に突進した。そして怖がるこどもを抱えてベランダから地面へと飛び降りた!

 このようなことがあったら、助平さんはギャラリーによってヒーローという対他存在になるのは自明だろう。もし助平さんが本当はどうしようもないバカで目立ちたがりな奴だったとしても、その時、現場にいた人に見られているのは火事からこどもを助けたという状況のみである。仮に現在、助平さんから迷惑を被っている人がこの出来事を見ていたとしたら、助平さんの人間性を見直すかもしれないが、生まれきってのバカ、目立ちたがりというレッテルを撤回することはないだろう。つまり見ている人によって、その時、その時で、人は対他存在となるのである。


 ではあなた自身は対自存在だろうか?対他存在だろうか?他人の眼差しに見つめられ対他存在にならないでいられているだろうか?

 男の眼差し、とりわけ助平さんからの性的対象としてしか見てこない、若さと美しさにしか価値がないという、女はバカで可愛いいだけでいいという、セックスのできる家政婦として隷属して欲しいという、諸々の人権を無視した眼差しに、FUCK YOUの眼差しをちゃんと返せているだろうか?

 否、むしろ、他人の中に、対他存在として『可愛い私』として存在することを自ら欲していないか?

 モテテク、女子力、自分磨き、オシャレ、自分撮り、インスタグラム・・・


 あなたは一体誰なのか?

 
 誰になろうとしているのか?



 ここ10年ほどで日本でも多様性社会ということが言われ出したが、それはLGBTであるなら古くはドイツ出身の女優で歌手のマレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich、1901.12.17-1992.5.6)という対自存在、最近ならレディー・ガガを筆頭に海外セレブの当事者たちが自ら表に出て声を挙げたからである。日本でも乙武洋匡という当事者が、ともすればマイノリティの存在を末梢しようとする社会の中で「私はこのようにして生まれた!私はここにいる!」と声を挙げたからである。その結果、勇気ある彼らの後を追う者、彼らの存在を偏見なく認める者が増えたからである。

 これは対他存在、『他人の主観によって他人の中につくられる自己のイメージ、他人から~のように見られている私』を私としないことだ。偏見で他人に関係されることで自分が主体性を失い、他人の眼差しによってのみ存在することへの拒否だ。

 愛とは何か、人生の価値を実現した小林麻央さんの勇気と業績を讃えてより引用
 
 
 少年少女というのは親に押し付けられた「かわいい」から、いつかは脱却を図るものである。すみぺにとっては、それと同じで自分に向けられた「かわいい」というコトバは自分の成長、自分らしさ、自分の自由意志の抑圧と強くリンクしているのではないか?すみぺは幼い頃から広告モデルなどをしていたという。やはり子役に求められのは「コドモらしさ」であろうし、少女に求められるのは「少女らしさ」であろう。その「コドモらしさ」、「少女らしさ」=「浅くて薄っぺらい」は、すみぺの自然人格とはかけ離れていた。演技は自然人格を無価値にするものでは決してないが、間違った指導を受けたか、間違った捉え方をしてしまったか、まだ演技というものが掴めていない段階で、オーディションなどで採点されるという特異な状況があって、自分でない者を演じるために自然人格を過度に無意識に抑圧してしまったということがあった?あくまで推測だが。
 
 すみぺを他者と差異化し、最も特徴づけているのはもちろんサブカル趣味である。なぜサブカルだったのだろう?そこに必然性はあったのだろうか?
 
 わたしはわたしとして、親や世間から一個の人格として認めてもらうには→自分と他者を差異化させる必要がある→それには容易に他者や親に理解されない人間になる必要がある→それはたとえば趣味や知識によって→メインカルチャーより人があまり目をつけていないサブカルチャーに関するほうが都合が良い→それも意味的なものではなく雰囲気重視のもの。

 ・意味がわからない→知的理解を越えたもの→それを好きな自分は理解されない、判断されない→他者の視線からの自由

 ・ファンが少ない→わかる人にしかわからない→選民意識


 学校であまり友達もいなかったことへの葛藤は以下のように克服したかもしれない。
 
 ・クラスの中心的存在女子=メインカルチャー好き→流行に流されるだけのバカ→(無意味、無能、無価値)

 ・クラスの中心的存在女子が好きな男子たち=男子は外面の「かわいい」しか見てない、内面を見ていない→バカ(無意味、無能、無価値)

 ・クラスの中心的存在女子の取り巻き=自分の地位を守れる現実的なあり方→みじめ(無意味、無能、無価値)


 だから好きな男性のタイプは「かわいい」系ではなく、男らしい男なのか。
 
 好きな男性のタイプ=ゴルゴ31、高倉健、三船敏郎→周囲に流されず、自分で考え判断し、命をかけて使命を全うする存在。チームプレイもできるが基本的に単独行動を好む。
 
 この三人は見た目が濃い。見た目の濃さは力強さ、有能さを意味しているのなら「毛深い」というコトバにはあるいはバカと反対の意味を与えているかもしれない。すみぺはプロレスや漫画のキン肉マンも好きだという。男性だからこその力、自信、友情を、決して自分では手に入れられないものとして憧れているのだろうか?

  
▼一般社会の定義としてのすみぺの「かわいい」の理解
「わたしのこころをとらえてはなさない」という意味しかない褒め言葉。他者とのコミュニケーションに使用するには何の障壁もない。


▼すみぺの個人的な定義としての「かわいい」
『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』


▼すみぺがオトナや世間から言われてきた「かわいい」の裏メッセージ
「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたいからコドモのままでいろ、オトナになるな」=人間的に「無意味、無能、無価値」であれ。


 だからすみぺは「かわいい」と言われることを毛嫌いした。かわいさを期待されない『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』になろうとした。大人であることの証明である「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたい」もの、人間的に「無意味、無能、無価値」を愛する側に早くなろうした。世間的には無駄と言える教養と趣味の世界に逃げ込み自分の境界を守りつつ、自分に向けられた「かわいい」というコトバから「無意味、無能、無価値」「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたいからコドモのままでいろ、オトナになるな」という意味(期待、強要、抑圧)を抹殺するために「毛深い」=濃い=浅いの反対を使うことを思いついた。


 そしてこの「かわいい」の捉え方が、すみぺの趣味の対象を決定した。それは、

(1)『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』であり、
(2)他人が自分を『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』として位置づけてくれるものであり、
(3)つまり、他人の視線を、すみぺの自分の定義としての「かわいい」に書き換えて、他人の視線から自由になれるものであり、
(3)かつ「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたいからコドモのままでいろ、オトナになるな」への反抑圧の表明なのだ。

 スローガンの生産(労働)は日本ではオトナにしか許されていない行為である。ブルーカラーにとっての労働とは、自分の人生の時間と引き換えに、他人の命令を実行して対価を稼ぐことである。それは団結がそうであるように全体の理想、利益、目的を達成するために個としての自分を「無意味、無能、無価値な存在」にすることによって行為される全体主義である。団結と生産によって得たカネで生活を維持し、好きなものを買う人生はまさに『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』である。

 ロリータ服も同じ文脈だ。すみぺはロリータ服を「女の戦闘服」と言っているが、女性の衣服の中でもロリータは女性にとって最も女性らしさを表現できる服装だろう。ただしロリータは女のセクシャリティを消し去る。否、体臭すら消し去ってしまう。まる人形であるかのように着る者を年齢不詳のアイデンティティのないものにしてしまう。だからロリータは男から見た時、「わたしのこころをとらえてはなさない」もの足り得ない。むしろ不気味なものである。つまりロリータは着る者を「かまいたい、甘えられたい、世話を焼きたい」「恋愛関係になりたい」「セックスがしたい」という、外面だけを見て内面を認めない軽薄な男の軽薄な視線から解放する。

 すなわち我々がメディアを通して見ているすみぺは、オトナになる過程で、抑圧(親や他人からの視線、支配)からの逃走を企図した結果なのである。否、その企みは今でも続いているだろう。すみぺは私が私であるために、本気で自由への闘争をしているのだ。すみぺはFUCK YOUの眼差しを投げ返す代わりに、こうしたやりかた(反抑圧)を試みたのではないだろうか。
 
 




(8)恐怖からの逃走、自由への闘争

 ここで、ここまで述べたことを使って、共産趣味をもう一度読み解いてみたい。

 私はソ連に対して、以下の恐怖を伴った疑問を持っている。


 ・なぜ共産主義という恐怖政治(嘘)が70年も罷り通ったのか?
 ・なぜこんな馬鹿げた妄想に国民は団結して反旗を翻さなかったのか?
 ・もし自分がその国の国民として生きなければならないとしたらどうだったのか?


 すみぺにもこの恐怖を伴った疑問があるとしたらどうか?

 知性的に恐怖を乗り越えるためには、まず『共産主義とは何か』から知る必要があるだろう。まずはどうしてソ連は間違った方、間違った方へと突き進んだのかプロセスを明らかにしなければならない。そうすればどの時点で、どうすれば過ちを認めてやり直すことができたのかがわかるだろう。

 しかしソ連は既にこの世界にはない国である。なら、今更、失敗の原因と更正法を知ってもそれを試すことはできない。

 ならこの私の葛藤は宙ぶらりんのままになってしまう。それは気持ちが悪い。何かいいオプションはないものか。ソ連(的なもの含め)がもう私を恐れさせないようにするための・・・。

 
 つまりすみぺはソ連を知った時、その体制を、現実を生きる意味のないものにした「嘘」として憎悪したのだ。タモリが、現実を生きる意味のないものにしている「意味を伴ったコトバ」を嘘として憎悪したのように。自覚していなくても無意識で。だからタモリと同じように、ソ連から嘘で塗り固められた思想や権威といった意味(力、Force)の剥奪を図ったのだ。同人誌のようにアニメ化し、アバンギャルドなものとして茶化すことによって。思想としての価値は認めず、ファッションにだけ価値を見出すことによって。そうすることで、もはや私を支配し恐れさせないために『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』へと転落させたのである。
 
 ミリタリー趣味もそうだ。銃火器を手にするすみぺをよく見てみよう。
 
 

革命的ブロードウェイ主義者同盟【初回限定盤B】





20世紀の逆襲(初回限定盤A)(Blu-ray Disc付)



 
 すみぺはそれらの恐ろしい殺人能力としての力に惚れ込んでいるのではなく、自分とのコラボにより、むしろ殺人兵器はその力が無効になるのだとを主張しているようにも見える。アーノルド・シュワルツネガーやシルベスター・スタローンと殺人兵器のコラボだったら何の矛盾、チグハグさも感じないが、すみぺだと殺人兵器が「無意味、無能、無価値」なイミテーションに見えてしまうのは、すみぺの見た目に、それらが全くマッチしてないということに尽きる。実際、なんら戦闘能力のないすみぺが、戦車、軍艦、銃火器を手にしたところで、それで人を殺めることは考えにくい。敵を前にしたら恐怖に支配され、使うわずに逃走するか、降伏するのがオチだろう。

 なら殺人兵器はすみぺにとっては持っている価値のない『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』である。


 ☆ソ連から嘘で塗り固められた思想や権威といった意味(力、Force)を剥奪し『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』へと貶めること

 ☆人々が恐れ戦き、使う者を悪魔にしてしまう殺人兵器を『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』へと貶めること



 すみぺの活動を結果だけから見れば、すみぺは、この目的を達成している。平和活動家とは違うが雄弁な批判である。タモリが「コトバでコトバやっつけた」ように、すみぺは「ソ連が産んだロシア構成主義でソ連をやっつけ」、「カワイイ、萌え、アニメ、女性であることで殺人兵器をやっつけ」たのだ。


 いやいや、そんな面倒なことをせず普通にバカにすればよくね?という疑問が沸くかもしれない。それにはこう答えよう。

 個人的な話をするが、1978年生まれの私は、地下鉄サリン事件のあった1995年3月20日に高校1年だった。サリン事件の2日前の同時刻にアルバイトの面接で地下鉄馬喰町の駅で降りたり、友達が通学に日比谷線を使っていたこともあって、事件にリアリティがあり、当時、この事件に衝撃を喰らった私は、春休みが明けて2年生になっても、学校が終わるとまっすぐ家に帰り、日本テレビで放送していた草野仁のワイドショーを連日食い入るように観ていた。報道は、ともかくなぜ?の連続で、全てが理解不能なものだった。犯行動機の身勝手さには怒りと同時に滑稽さも感じた。その実態は、異常な教祖ひとりの力によるものではなく、社会に絶望した者や挫折した者たちが、自分たちの居場所づくりと欲望充足のためにあまりに子供じみた虚構(責任からの逃避、思考停止というぬるま湯)をつくりあげていたからである。

 オウムというカルト、否、テロリストは当時、多感な高校生だった私の記憶に強く残っている。オウム事件とは直接関係のない私だが、被害者や遺族の心情を慮った時の怒り、悲しみ、やるせなさ、怖さ、絶望感、、、私はそれらの感情にどう向き合ったか?今思えば、笑いに変えて吹き飛ばそうとしたのかもしれない。私は教祖や広報だった男の似顔絵を描いたり、モノマネを級友に披露しては笑いをとっていた。あいつらはともかく見た目もしゃべり方も特徴的だからデホルメしやすい。私が教祖の本妻を演じれば、誰かが二号を演じ、また誰かが江川昭子を演じる。即興の寸劇は休み時間の暇つぶしにちょうど良かった。

 つまり、私はオウムを「笑いもの」にしたのだ。笑いものにするというのは敵や加害者への感情的な「仕返し」になるから。アネクドート、ハリウッド映画、シャルリエブト、ネトウヨ、嫌韓、安倍やめろ、、、これらもみんな同じだろう。ちょっとでも理性と知性のある人間は、物理的な破壊のための暴力よりも、それの価値を貶める精神的な暴力を好むものである。ユーモアや屁理屈を使ってそれが『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』であることを証明しようとするものである。ようは単に「バーカ!」「死んじまえ!」というだけでは飽き足らないし、つまらないのである。


 誰かが趣味というコトバを使う時、人は「彼はそれを愛好している」ということを疑わない。


 しかし私はここに疑いを持っている。私の仮説では「人はそれが自分を支配する恐怖を無力化するためにそれにハマる」のだ。


 宗教にハマるのはなぜか?神の怒りを恐れるからではないのか?


 スピリチュアル・自己啓発にハマるのはなぜか?自分の人生を自分の意志ではないものに支配され、自分でコントロールできなくなることを恐れるからではないのか?


 神、教祖、成功者、引き寄せの法則、独裁者、、、それらに出会った者たちが、まずは疑ってかかるというプロセスを大胆に端折り、なおかつ盲従するほうを選ぶのは、そのほうが自由になれると信じたからである。自分を支配する恐怖を無力化できると信じたからである。不況、失業、外国、病気、悪霊、移民、異教徒、、、我を仇なすであろうものへの恐怖を取り除いてくれるはず!と、彼らのコトバが信じさせてくれたからである。

 
 アルコール・タバコ・違法薬物がやめられないのはなぜか?好きだから?意識の変容に耽溺するから?

 否、その禁断症状が自分を支配することの恐怖に耐えられないからではないのか?

 痴漢や万引といった犯罪が、常習化するのはなぜか?脳の報酬系が働いて成功体験にやみつきになるから?

 否、やらないとその禁断症状が自分を支配することの恐怖に耐えられないからではないのか?



 趣味、嗜癖、愛好、信仰、、、、ハマるとは『恐怖からの逃走』だ、と私は仮説する。ハマっている時に自由と力を感じられるのは、切らしている時に自由と力が奪われていると感じられるからである。人は自由から逃走しているのではなく、自分が欲っする自由を奪うものに恐怖しているのだ。だからその恐怖に打ち勝つために、妄想を含め、「自分を支配しようとするもの、自分には支配できないもの」を無力化しようとしているのである。どんな無力化の方法を選ぶかはその者の人間性によるだろう。法と秩序に従う者は忍耐強い者である。笑いとして茶化そうとする者は、人気者になれるが、それを崇拝する者やそのやりかたを嫌う者から批判される。粗暴な言葉、粗暴な態度を慎み、既知に富んだ風刺ができる者は、批判対象を貶めることができるだけでなく、自己の他者からの評価を上げるだろう。


 すみぺに殺害予告した男、猥褻リプをした奴等は、無能な男の手中には収まらないコントロールのきかないすみぺに自分の心を支配されるのが嫌だった。共産主義や戦争の道具を無力化するほどの力を持つ美しい才女に四六時中、惚けてしまうことは自分を見失うようで怖かったのだ。

 ISISは異教徒と外国にイスラム世界を引っ掻き回されられるのが本当に嫌だった。それを許す自分への神の怒りが自分を罰することが怖かったから。自分の信じる世界が破壊されることが怖かったから。
 
 シャルリエブトとシャルリエブトを擁護したバカな奴らも同じだ。自分たちが信じる価値体系がイスラム教や移民によって揺るがされているのが嫌なのだ。異なる文化によって自分たちが最高の価値を置いている世界の優位性が奪われる恐怖に耐えられないから。


 恐怖からの逃走において、暴力を選ぶ者はただただ愚かである。恐怖の対象への葛藤を自身の中で無力化する以上のことは全て邪悪である。恐怖の対象の奴隷化、抹殺に向かう者は個人であれ、国家であれ、「正しい暴力」を使ってでも止めるべきだ。矛盾するが。

 もちろんその段階に至らないための努力を世界各国および地球市民は継続すべきなのはいうまでもない。『世界でいちばんユニークなニッポンだからできること 僕らの文化外交宣言』はその努力、というよりは楽しみ方のひとつのやり方だろう。


  
 さて、本稿で示した仮説が正しいかどうかはすみぺ本人に聴いてみないことにはわからない。本当に、すみぺにとってのかわいいの正体が、『矛盾をはらんだことで「無意味、無能、無価値な存在」と化している「可笑しなもの」』なのかどうか。ソ連(共産主義)が「自分を支配し自由意志を奪う恐怖の体制」の象徴なのかどうか。その場合、おそらくは『学校生活に疲れたり、先生が怖くて学校に行きたくなかったり、塾に行きたくなかった*1』『中学の頃からはクラスの話題について“いけない”んじゃなくて、ついて“いかなく”なり、学校自体さしたる興味もなくなってきて……。「もう行っても行かなくても同じだよお」とか言いながら、なんとなく行って(笑)。で、休み時間になると心理学の本とかを読んでました。特にニーチェを持ってったときはヒドかったなあ。(中略)でもちょうどその頃、映画の「下妻物語」が流行ってロリータが市民権を得てきていたので、クラスにもロリータに詳しい子やヴィジュアル系が好きな子はいて。そういう人たちとはおしゃべりしてましたね。で「2~3人だけど友達もいるし、このままでいいや」「もう好きなことだけ調べて過ごそう」っていうメンタルが整い始めたんだと思います。*2』という時代のイメージの転化だと思う。すみぺは自身にとって意味のない学校に嫌でも行かなければならなかった葛藤を、よく似たソ連に映し出してやっつける(無力化する)ことで正気を保とうしたのではないだろうか。というのが私の推理である。タモリがそうであるように、すみぺも『恐怖からの逃走、自由への闘争』として「意味のない世界で趣味に狂うことで正気を保つ生き方」を覚え、さらには対他存在から対自存在へと生まれ変わったのだ。もしこの試みに失敗していたなら話の合う女子がいたところで登校拒否になっていたかもしれない。
 
 *1「七つの海よりキミの海」インタビュー 4ページより引用
 *2「七つの海よりキミの海」インタビュー 1ページより引用
 
 いやいや、しかし、これこそ、「自分が受けた印象だけで事実を編集」である。上坂すみれを一掴みで理解できないもやもやをとにかく解消しようという浅はかなやり方だ。そもそも会ったことすらないのだ。笑

 ひとりの人を理解するのには時間のかかることであるが、私はせっかちである。わからないものをわからないままにしておかなければならない期間への耐性、寛容さがないのである。願わくは、その実、すみぺを使って上坂すみれをやっつけようと画策した私を叱ってほしい。(寸)
posted by 駿喆咲道 at 00:00| 音楽 | 更新情報をチェックする






■恋愛にも新規顧客開拓にも使える出遭いの教科書
■著者
駿喆咲道@suntetusakudu

profile200×200_200x200.jpg

1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


読者メッセージを送る