2009年09月05日

立石フェスタ2009 ~ゆるキャラなんざ、いらねぇぜ~

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 『立石フェスタ』とは、03年、立石サンバカーニバルとして始まった立石商店連合会によるイベント。回を重ねる事にパワーアップし、07年には、サンバ以外にも出演者を増やして「立石フェスタ」にリニュアールした。08年には地元のチャンプ内藤大介も遊びにくるなど、近年は着実に市民権を増して来ている。
 そして09年、『ゆるキャラなんざ、いらねぇぜ!』と銘打って、あらゆるジャンルのミュージシャン、ダンサーなどが多数出演する「ごった煮」イベントと化した。

実行委員会の 公式サイトによれば、『決められたシンボルよりも、一人ひとりの個性を大切にすることでコミュニティーの文化を育て、より豊かで結束力のある地域を築いて行こう』という趣旨の下、「ゆるキャラ」に代表されるステレオタイプな地域振興策からの脱却を諮るという。

 はて、それは具体的にどういう事なのか?


島立ちの歌

14時30分、メイン会場の商店街に到着した私がまず耳にしたのは、女性シンガー小栗(cokuri)の歌声だった。民謡と三味線の名取でもあるという彼女は、小さな特設ステージに収まらない独特の世界観を創り出し、ギャラリーを魅了していた。オリジナル曲『島発ちの歌』『月の下で眠ろう』に思わず聞き惚れる。


月の下で眠ろう

 小栗のステージを後にし、商店街の人混みを歩く。屋台はなく、各店が軒に商品を並べたり、特別割引き商品などで呼び込みをしていて、それ目当ての客も多い。無料で振る舞っている麦茶を飲みながら、商店街に三箇所、設営されたステージの歌やダンスをハシゴして見てまわる。

 全体をザッと見てみて、各々が各々で勝手な事をしているといった印象を受けた。全体の統一感がまるでないのだが、悪くない。ただ『遊んでる』感じがして、大きなステージで、出演者と観客が隔てられ、時間通り進む一般的なイベントよりかは、ずっとイイ。と私は思った。そして活気のある混雑した商店街に懐かしく昔を思い出した。
 
 私がコドモの頃からあまり町並みに変化のない立石だが、バブルを境に少しずつ昭和の風情がなくなりつつある。スケベ映画館が潰れたのを皮切りにマンションが立ち並ぶようになったし、立石駅周辺の大規模再開発が動き出してからというもの、沿線の買収が進み、更地が増え、一年前にはソープランドも店を畳んだ。
 また、近くに大型スーパーが進出して商店街への客足は減る一方である。似た状況にある自治体も多いと思うが、立石は時代の変化に、ただ流されるでもなく、ただ再開発反対運動を展開するでもなく、今まで通り人情を大切にし、新しい事にチャレンジして行こというエネルギーに満ち溢れているように感じる。

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 商店街を横切る線路の踏切には警官が立ち、列車との接触事故が起きないよう見張っている。お祭の警備に駆り出される警官というのは大概、普段はデスクワークのひ弱な奴かデブが多い。私見だが、花火大会などの警備でデブの警官を見ると、「そんな体でどうやって市民を守るんだ!たとえデスクワークでもイザという時には動ける体を保て!」と本当に腹が立つのだが、今日の警備は背の高いガタイのイイ男達だ。武道の有段者のオーラが出てる。珍しいなと思って見ていたら、脇道からTVクルーを従えた早川久美子民主党衆議院議員(元葛飾区議)が出てきた。
 
 なんだ。TV対策か。

 早川氏は早足で歩きながら、ギャラリーに挨拶していく。葛飾区議の頃から選挙の時はショッキングピンクの衣装でチアリーディングするパフォーマンスが話題を誘う異色の久美子たん、今日もショッキングピンクの立石フェスタ特製Tシャツを着ている。

 久美子が現われたという事は、そろそろサンバカーニバルが始まる時間だ。




14:50
サンバカーニバルのスタート地点に移動し、最前列に場所確保。

14:55
サンバ隊が続々と登場。ペンギンに扮装したちびっこ達に手を振られ振り返す。萌え。

15:00
開会式始め。早川久美子民主党衆議院議員、平沢勝栄自民党衆議院議員、青木勇葛飾区区長、他、お偉方の挨拶始まる。

15:05
挨拶が延々続く。商店街アーケードの中は蒸し暑い。熱中症に注意。

15:10
隣にいた女の子が『あつい、かえる』と愚図り始める。

15:11
その母親が宥めるが、女の子は落ち着かない。

15:12
突然、後ろからパンチパーマのババアが私を小突いて声をかけてくる。孫二人を私の前に入れて、見せてやってくれと要求。子供は背が低いから仕方ないが、ババアも私の横にちゃっかり割り込む。私は最初から並んでいたのに、後から来て、ずうずうしいのは遺憾。

15:13
お偉方の挨拶がようやく終わる。するとなぜか、洋一郎(インディーズの歌手)が、変声で新曲『かつしかの青い空』を歌い始める。

15:14
ついに会場全体が殺気立つ。このクソ暑い中を、一体いつまで待たせるつもりなのか「空気読め!『かつしかの青い空』が血に染まる前に、早く終われ!」とオーディエンスもサンバ隊も、ひとつにまとまった気がする。

15:15
やっと前置きが終わる。合図と共に鼓笛隊が大音声を発する。ついにサンバカーニバル始め!

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 二人の小学生が前にいて、その左横にはババア、また右横には私と同世代の母と、その小さなこどもがいることから、大家族にでも見えるのか、踊り子達が、こども達にハイタッチしてゆく。近すぎて照れる。写メ撮りまくり。笑顔決まりすぎ。私もタッチしたいぞ!!

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 前回の浅草サンバカーニバルのブログにも書いたが、サンバの良さは、パレードもギャラリーも老若男女が入り乱れて楽しめるところだ。また特に決まりもない。よさいこいソーラン節のように気持ち悪いまでに揃ってなくてもいい。あれは北朝鮮を髣髴させるね。みんな同じ顔で、同じ衣装で、同じ動きをして何が面白いんだろうか。どんなチームよりも長けた全員一致の完璧な演技を目的にしていたら、楽しみなんてこれっぽちもないだろうに。ちょっとでも振り付けを間違ったら、メンバーや自分を責めるんだろう。

 それに比べてサンバにはそもそも失敗なんてありえない。サンバのステップ(形)さえ踏んでいればいい。太陽や風やギャラリーからの声援を感じたままに踊ればいいんだ。鼓笛隊も少しぐらい間違ったっていい。音程を外すのも、テンポがずれるのもかえって「味」になる。純正律の音楽なんてラテンじゃない。楽しむために歌い踊るんだからアバウトでいいんだ。だけど合わせるところは合わせる。それがサンバさ。

 それゆえパレードには『無秩序の秩序』とでも言うべき不思議な連帯感がある。それは、まさしく、『みんな違ってそれでいい世界』だろう。スタイルに自信があるなら派手な格好をしてもいいし、露出を控えたければフリフリの衣装でもいい。コスプレでも問題ない。踊りがダメなら、楽器をやればいいし、歌ってもいい。目立つのが嫌なら裏方として支えればいい。もちろん見ているだけでも構わない。ともかくサンバが好きなら関わり方は問われない。こんな愉快な祭りが他にあるだろうか。

 サンバはその派手さから、どうしても若い女性のセクシーさにばかり注目が集まってしまうが、先述したようにサンバカーニバルが再現する『無秩序の秩序=みんな違ってそれでいい』にその最大の特徴があると私は思う。そもそも祭りとは閉塞された日常=秩序に支配された世界を、開かれた非日常=無秩序によって、最も自然な初期状態『無秩序の秩序=道(タオ)』に再構成しなおす作業なのではないか。戦争もそれをなしえる一手段と思われるが、「祭り」ならかつ安全に世界を再構築できる。しかし、規律や完璧な目的の遂行を目的にしているよさこいソーラン節に代表されるような団体主義はこれに習わない。構成員をいかなる時も助け合う善良な人間にし、上からの指示を最も最適かつ高速にこなす集団をつくりあげることに寄与するのみである。それは閉塞した日常=秩序の強化に他ならない。その先に「しあわせ」などあるはずもないだろう。




 もうひとつだけサンバの特徴をあげておこう。それは他の祭りやカーニバルには類を見ない『ストーリー性』だと私は思う。
 
 それはどういうことか。

 ペンギンの扮装をしたかわいらしい女の子も、10年もすれば、華も恥らう乙女となり、練習と挫折を繰り返しながら、ダンスの魅力や奥深さを知るようになるだろう。そのまた10年もすれば、幾多の恋を経験し、目配せするだけで男を虜にする美しい踊り子へと変身するはずだ。
 だがその美しい踊り子も、もっと年を重ねてゆけば腰のくびれも酒樽のようになってしまう...。
 
 それが自然というものだ。女も華も美しいのはひと時だけ。だけれど夢見る頃を過ぎても、踊り続けることはできる!!

 それに気づかせてくれるかのようにサンバカーニバルにはすべての世代の女性達が登場する。少女から熟女まで、女の一生を魅せてくれる。それが証拠に50代と思しきディーバが、あられもない姿で激しく贅肉を揺らしながら踊る姿があった。まるで袋田の滝のような迫力で、若くて美しい踊り子よりも注目を集めている。

 セルライトがなんだ! たれパンダがなんだ!! 私だって昔は綺麗だったのよ。若くて美しい後輩達も、いつかは私のように影も形もなくなる時が来るでしょう。だから、その前に思う存分恋をしておくのよ。恋は心の財産よ。心に財産があれば幾つになっても心をときめかせられる。だからオバサンの私もこうやって楽しく踊れるわ。あなたたちも、オバさんになっても人前で踊り続けることができたなら、本当のダンサーね・・・。


 そう叫んでいるような鬼気迫る踊りを披露する彼女に、おもわず天の岩戸開きを思い出す。

 高天の原を侵略しにやってきた須佐男が田畑をめちゃくちゃにして、ウンコを撒き散らしたせいで、天照大神が引きこもりになってしまい、世界は闇に包まれた。困った神々は、左右非対称の顔をしている天渦女を連れてきて、思金神に祝詞を読ませて神を降ろし、世にも奇妙な裸踊りをさせる。これに神々が笑い転げると、その様子が気になった天照大神が、岩戸をちょっとだけ開けて覗いてしまう。そこをすかさず手力男神が、手を押入れ、怪力でこじ開けて天照大神を引き出し、世界は再び昼を取り戻した...。

 この神話を人間の深層心理として解釈する学者もいるが、ダンスには「人の心を変える力」が確かにあると私は思う。事実、何の変哲もない商店街が今まさにリオのカーニバルと化しているではないか。それは『場を変える力』とも言い換えられるだろう。

 立石で、地域おこしのお祭りが始まった03年以降、スケジュールの都合で立石のお祭りには縁がなかった。というより「どうせたいしたことない」と、どこかでバカにしていた。浅草サンバカーニバルを知っている身としては立石の狭っくるしい駅前でやるサンバなんて高が知れてると思っていたのだ。わずか1,2チームの出場で、歌もなし、山車もなしで、どうやって盛り上げるというのかと。

 私は虚しく誤っていたようだ。大規模な浅草と違って、立石は本当に目の前で見れる。ただでさえ狭い商店街だから、パレードとギャラリーの隔てがないのも同然なのだ。踊り子の肌を伝う汗がはっきりとみえるほどに!!

 笑顔を絶やさず踊り続ける妖精たちにクラクラする。照りつける太陽に汗ばむ肌が光輝くようだ。

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 光もあれば影もある。ひとりの踊り子には腰椎の手術痕を見た。足首をテーピングする踊り子もいる。
 興奮したカメコ達が、周囲も省みずに上から下からベストショットを撮ろうと、恥も外聞もない行動に走る姿も見受けられる。


 それでも彼女達は踊り続ける。

 なぜなのか。

 露出狂? 

 生活のため? 

 頼まれて仕方なく?

 そんな偏見がくすぶっているのも事実だ。だが、それらはどれも偏見にすぎない。彼女達の人権擁護のためにも、この場を借りて私が代わりに弁明しよう。

 ダンサーにとって踊りは言葉なのだ。口から発するものや、文字にできるものだけが言葉なのではない。踊ることは感情や思いを表現し、外界とコミュニケーションする言葉同様の手段なんだ。天渦女は踊ることで神々を寿いだではないか。『踊り』は山川草木、花鳥風月、目に見えるものも見えないものも、相手としコミュニケーションすることができるのである。

そうした自然=精霊、神々(教示的ではない自然の霊威=トトロみたいな妖精)と交感する力を『言霊』というのではないかと私はみる。神は人間が日常、意思伝達に使う「コトバ」ではなく、踊りや、音楽や芸術といった原始的で抽象的で直感的な方法でのみ交信が可能なのではないか。

だとするなら、ダンサーから踊りを奪うことは言葉を奪うことと同じだ。それは画家や音楽家にも同じことが言えるし、表現の場がないということもまた、言葉を奪うことに他ならない。さらにはトトロたちとの交流さえ不能にする。中編でも述べたが、祭事とは閉塞した日常=秩序を、もっとも自然な初期状態=道(タオ)に戻すために行われる。それは言い換えれば、神々との交歓であり、寿ぎなのだ。ダンサーは人の心ばかりか神々までも寿ぐことのできる巫女なのである。



 ダンサーやアーティストに対する偏見がどうかなくなってもらいたいものである。そして発表の場がもっと増えることを願う。




16:35
お巡りも仕事を忘れて、デレデレと鼻の下を伸ばしている(それでいいんだ!)。

16:40
パレードゴール地点。タカラトミー社前に先回りして、サンバ隊の到着を待つ。

16:45
先発チーム到着。ペンギンのこども達は疲れて踊る気ゼロ。

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16:50
後発チームも到着。二つのチームが入り乱れて踊る。

16:55
クライマックスに向けてボルテージ上昇

17:00
パレード終了。大団円。拍手声援の中、サンバ隊は退場。




 今年から、出演者を増やし、ごった煮イベントと化した『立石フェスタ』。混沌とした昭和の残る町、立石ならではの素晴らしく混沌としたイベントだった。浅草サンバカーニバルとは赴きを異にするけれど、引けをとらない満足感だ(出場チームは浅草サンバカーニバルにも出場しています)。このような企画を成功させた出場者、立石商店連合会、NPO法人かつしか若手産業人会および関係各位に敬意を表したい。こどもの頃の活気のあった商店街を思い出せた。立石駅周辺は大規模再開発が進行中であるが、たとえ高層ビルのそびえ立つ、区画整理された、クソ面白くない、ネズミ一匹いない綺麗で清潔な駅前になってしまったとしても、案ずることはない。もう一度『立石化』してしまえばいいだけのことさ。

 それに土地の氏神や道祖神、立石様たちも、一緒に楽しんでいる姿が私には確かに見えた(気がする)ので、きっと来年以降もうまくゆくでしょう。

 ゆるキャラを見るとなぜかイライラしてタックルを噛ましたくなる私も、影ながらこのブログでPRに協力します。来年からは毎年見に行くぞ!

 立石フェスタ公式サイトURL
 http://festa.tateishi-syo-ren.com/




おまけ

夏の終わりってのはな、残尿みてぇなもんだ。とぎれとぎれに出てきては、出し切った気もしねぇ。まだ出るかと思ったら、待てど暮らせど出てこねぇ。もう出ねぇと蔵ったら、チョロっと出るから、油断がならねぇ。亀の頭じゃあるまいに、気まぐれにも程があるぜぇ。

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 立石駅前、しょうべん横丁にて、よっぱらいのおじさんの嘆き。(寸)
posted by 駿喆咲道 at 19:00 | TrackBack(0) | 祭りとイベント | 更新情報をチェックする






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■著者
駿喆咲道@suntetusakudu

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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