著者:駿附逑ケ | 1978年,東京生まれ。



[自由連想法]の記事一覧

2016年05月20日

ポジティブシンキングの罠!(3)―ベッキーというアバターの死とレベッカのこれから―

 ベッキーがゲスの川谷との関係について本当のことを語るというので、5月13日(金)放送の金スマを観た。

 私は2016年1月24日に、

 ●比べる自己愛と比べない自己愛 ―テレビと自己正当化のヒロインたち―

 を書いたが、ベッキーの話を聞いて、自分の推理が的を得たものであることを確認した。

 この件について語ることはそれこそゲスかもしれない。しかし、ベッキーをなんら擁護しないのならば、何の教訓も得ないのならば、それこそゲスだという思いが私にはある。ゆえに私は語ろうと思う。この件を、ただの色恋沙汰エンターテイメントにしないためにも。

 動画はYouTubeにたくさんアップされている。これらは消されたとしても、すぐに新しいコピーがアップされるであろう。

 
 ベッキーが語ったことの要点は、内面を読み解くと以下である。ここに示す図を見ながら読んでほしい。

ベッキー相関図.jpg




■真相

 まず確認できたのはLINEは本物で会見は嘘があったということだ。嘘に関してはこれまでの情報からほぼ確定していたことだからもはや驚くに値しない。しかしクローンiPhoneが都市伝説ではないことには尚、驚愕する。ロックを解除しなくてもハッキングできるのならプライバシーはないに等しいではないか。

 それはさておき「妻のいる人と気持ちが通じ合った時点で不倫だと思う」という言葉があったが、お互いに恋愛感情があったのは事実であり、実際は、お友達では押し通せない間柄であったいう。妻がいると知った後もずるずる付き合い続けたのは、「夫婦関係は破綻してる」、「妻は川谷への愛情が冷めている」、「川谷は妻と離婚する」という認識だったためだという。その情報源は無論、川谷であるが、川谷の説明を裏も取らずに鵜呑みにしたベッキーは、川谷と妻が離婚すれば、その後は普通に付き合えるというノンキな認識があったという。

 そのノンキさはベッキーの得意なポジティブシンキングによるものだろう。頭では不倫だと理解しているが、理性よりも恋情が勝って、心では認めなかったのだ。現実をロックアウトして理想の未来だけを思い描いたのだ。自分に都合のいいようにだけ解釈し続けたのだ。

 だから離婚が成立するまでは「この関係はあくまでお友達なのだ」と、自分と川谷に言い聞かせたのだ。

 請われるまま実家にもついて行ってしまったのは「わたしのことを真剣に考えてくれている」のだと解釈したという。確かに元旦に実家行きを誘われたら常識で考えてもそういう思考になるだろう。それにエキセントリックな川谷のことである。

 これは、両親の前で、離婚の成立と、自分へのプロポーズがあるのではないか?

 誇大妄想に憑依されていたベッキーが状況からそう考えても無理はない。しかし同時に「断る勇気がもてなかった」とも言っているので、この時には「わたしは利用されているのではないか?」という疑いもあったのだ。

 また「断ったら気持ちが離れてしまいそうで怖かった」とも言っていたのが気になる。ヤッパリ本当のベッキーは自己肯定感が低いのかもしれない。そもそも健全な自尊心があれば妻がいると知った時点で激昂してないとおかしい。「実は結婚してました」というのは確実に騙しだったわけだから。


 「自分に都合のいいようにだけ解釈していた」というのはまさにポジティブシンキングのことであるが、これについては既に解説している。

 ●ポジティブシンキングの罠!(2)―キミは掌の石つぶてを捨てられるか? 乙武洋匡について思うこと―


 
 川谷はウィキペディアなどの情報によると、7歳年上の兄と6歳年上の姉がいる末っ子だという。この情報だけでも愛されキャラであることが推測できるが、家庭内で若様、姫様になってしまう者は、実社会での人間関係に問題を抱えることが多い。中国では甘やかされた一人っ子のことを、その傍若無人ぶりを揶揄して「小皇帝」というのだそうだが、実際、川谷はバンドメンバーと何度も決裂していて、学生時代には同級生からハブられたこともあったようだ。

 ところでベッキーは動物が大好きでたくさん飼っているという。2010年当時の情報だが、ピグミー・スロー・ロリス1匹、ケヅメリクガメ1匹、犬3匹、ヘビ1匹を飼っていると証言している。

 動物は人間の思い通りにならないものだが、犬や猫なら、餌をあげさえすれば、なんとか心を通わせることはできる。トイレを躾けることもできる。

 こうしてみると、世話の焼ける川谷との不倫は、動物好きでポジティヴ教のベッキーだからこそ嵌った罠と思えるのである。




■嘘は目には表れない

 しかし文春で妻の記事を読んで事実を目の当たりにし、川谷の不実がハッキリして目が覚めてしまった。妻の話は、川谷がベッキーに話していたこととはだいぶ違っていたのだ。冷めていたのは川谷ひとりであり、妻ではなかったのだ。妻は探偵を使ってでも証拠を押さえたのだ。妻には川谷を引き止めたい強い意志があったのである。一度目の大きな隠し事である「妻がいる」という大きな不誠実があったため、この段階でベッキーは川谷を確実に信用できなくなったのだ。

 ベッキーは中居の質問に、基本的にはまっすぐ前を向いて答えているが、上と下を見る割合も多い。いろいろ仮説はあるが、一般に上を見るのは過去の体験を思い出している時である。下を見るのは過去の思考を思い出してる時である。

 目の動きで嘘を見破れるという言説があるが、実際、目の動きだけを追っても嘘を見抜くことはできない。とだけ言っておくが、ともかく、ベッキーは即答できることには中居の目を真っ直ぐに見て答えている。正確な事実を語ろうととする時は、上を見て、よく思い出そうとしている。質問への考えがすぐにまとまらない時は、あの時はどう考えたかと、下を見て考えている。

 ベッキーは中居に質問されたことだけに答えて、はぐらかそうということがなかった。質問されたことをその時に理解して都度、答えている。

 最後のファンへの謝罪は事前に何度も台本を考え暗記したものだろう。放送の時間枠もカメラ目線にしないのも事前の取り決めがあったろう。「泣かない」とも誓ったはずだ。だから涙が美しくない。顔より、毅然とすることに意識が行っている。

 また「ブレーキをかけられるポイントはいくつもあったのに毎回かけられなかった」と述べているが、中居の「もう好きじゃないの?」という質問に「文春報道が出た当初は、正直、報道が落ち着いたら、また何ヶ月後かに出会って、そこからまた恋が始まったらいいなぁ」という気持ちがあったこと、川谷への自分の気持ちが偽りであることを段階的に受け入れたことも、正直に述べている。

 つまり今は客観的に現実的に当時の自分から距離を置いて分析できている。ならば川谷への気持ちはもうないだろう。



 
■善意の第三者こそジョーカー

 しかし選挙に出るわけでもなかったし、犯罪を犯したわけでもなかったし、才能ではなく好感度だけで売ってるタレントのプライバシーを暴くことをスキャンダルと称して人権侵害にならずにビジネスとして成立すること自体異常である。

 オタに大人気の某女性声優のAV出演疑惑もそうだ。そんなことは全く知りたくなかった。あれはおそらく反社会勢力か自称ジャーナリストかなんかに強請られたのだ。事務所は、そんな奴の金ズルにされるのは死んでも嫌だった。しかし本人であることは間違いなかったので、ヤクザを押さえ込むために系列の出版社を使ってリークさせた。そして声優には損害賠償金をチラつかせて疑惑を否定させた。

 そんなところだろう。

 ファンからしたらあんまりな話だが、AV女優は男性の欲求を解消してくれる聖なる職業であるし、出る出ないは本人の意思である。だから出たことの是非について問うつもりはない。むしろ歓喜したファンがいるし、それでも信じなかったファンもいるし、販売元も潤ったのだから結果は吉である。

 しかし、自称善意の報告者さえ現れなかったら、誰もこんな茶番劇にはつき合わされずに済んだことだけは声を大にして言いたい。社会正義のない秘密の暴露に了承できる点は何もないではないか。
 
 某声優はこれから世間の好奇の目に晒されながら、事務所で一生飼い殺しである。現場で一緒になる声優にも「他人の空似」という暗黙の了解を強い続けらなければならない。スケベな男たちからのセクハラは不可避である。ならもう十分に罰せられているだろう。それでも法の範囲内の過去を裁くのは正しいと思うか?

 ベッキーも同じことだ。会見で堂々と嘘をついたのはファンの気持ちを踏みにじったかもしれないが、逮捕されることはしていない。
 
 善意の者はいつだって抑えの利かない第三者だ。いわばジョーカー。人の口に戸は立てられないというが、ジョーカーには勝てる札はない。

 
 隠し事のある人間は、ジョーカーを切られないように、自分で気をつけるしかない。




■職業人格と自然人格

 タレントとはあくまで職業人格であり、イコール当人の人格ではない。メディア上ではあくまでキャラクターを演じるのがタレントの仕事である。乙武洋匡をみてもそれは明らかだろう。ならばファンとはそのキャラクターに対する感情である。タレントとファンの関係とは、ようはキャバ嬢と客、ホストと客の関係と同じだ。すべてはメディアというお店の中のことである。その親密さが成立するのはカネを媒介としたシステムの中でのことである。ゆえにキャバ嬢もホストも、お店の外、システムの外では、ただの人である。お店の外、システムの外では、相手が客であっても赤の他人である。

 タレントとファンの関係もこれと同じである。ファンとてそのプライベートに踏み入る権利はないのだ。ましてやファンですらない者には何の関係もないことである。

 タレントとはいうなれば会社と一緒である。会社は法人格を持つ。法人とはその活動において権利と義務の主体であるものをいう。ゆえに法人の責任は個人ではなく法人が取る。経済活動はともすれば多額の負債を抱えてしまう場合があるため、個人にすべての責任を与えると一族もろとも路頭に迷わざるを得ない。そうした事態を見込んでの保護として、そもそも法人はある。

 法人:タレント「ベッキー」としての職業人格
 個人:本名「レベッカ・英里・レイボーン」としての自然人格


 タレントという職業は会社員なのか個人事業主なのか、いずれの形態をとっているのか知らないが、レベッカ・英里・レイボーンはベッキーとして契約義務違反を犯したのだろうか?

 レベッカ・英里・レイボーン個人の行為の責任は無論、レベッカ・英里・レイボーンにあるのであって、ベッキーという職業人格にはない。

 タレントの職業人格と自然人格を分別し、自然人格に立ち入らないこと。それがファンとしてのマナーではないか。




■花王 愛の劇場

 さらには世間に謝罪するのが常識だという意味不明な状況にもウンザリする。世間とはいったい何様なのか。それ以上に川谷に憤りを覚える。ヤッパリ川谷が先導して唆してる。川谷は結婚は本当は本位じゃなかった。妻への気持ちはもう冷めていた。しかし長年支えてくれた恩義と幼児性から自分で終止符が打てなかった。だからたまたま知り合った自分のファンのベッキーを利用した。妻に自分をあきらめさせるために不倫という一番傷つく方法で終わらせようとした。自分の実家まで利用して。川谷がこれを意識的にやったかどうかわからないが、結局、誰も幸せになっていない結末から推理するとこのようなシナリオが浮かんでくる。

 サンテグジュペリは「愛とはお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」という。ベッキーは何を見つめていたのか。川谷健太か、川谷絵音か、川谷の音楽か。
 
 ベッキーが川谷から、ふと目を逸らした先で見たのは川谷の妻だった。妻の川谷への怒りと悲しみと愛情だった。それに対する川谷の妻への気持ちは冷め切っていた。

 愛には信用が必要である。信じるためには根拠が必要だがベッキーが川谷を信じた根拠は何だったのか?

 愛とは炎である。火は嵐に吹き消えるが、炎は嵐にあっても消えはしない。むしろ燃え盛る。


 だが、3人はどうなったか。

 ベッキーにとっても妻にとっても川谷を信ずべき根拠は何もなく、愛は週刊誌報道と世間からの舌禍という嵐に消え、見つめるべき同じ方向を見つけ出すこともできなかった。3人とも。

 その事実が、この物語の全てである。




■愛と信じるということ

 口説き文句に「キミは世界で一番美しい」というのがある。では私が愛する女性に「キミは世界で一番美しい」というのは事実だろうか?事実かどうか、どうやって証明するのか?

 いや、佐々木希のほうが美しいのは誰の目にも明白であったなら、「キミは世界で一番美しい」という言葉は嘘である。

 しかし「キミは世界で一番美しい」かどうかの真偽を客観的に証明する必要がそもそもあるだろうか?

 ここで私が話題にしているのは「(私にとって)キミは世界で一番美しい」ということである。つまり客観的な証拠など必要ないのである。

 ようするに彼女にとって、意味をなしているのは、私の主観において「キミは世界で一番美しい」ということを、信じるかどうかだけなのだ。信じるのならば、その言葉は意味を持つ。信じないならば意味は持たない。その選択は彼女に任されている。

 では、ひとつ問おう。愛は信じることだという。疑わないことだという。本当にそうか?

 もし愛は信じること、疑わないことだというのなら、自分を信じさせ、疑えないように仕向ければいいのではないか。信じるかどうかは主観の問題で、客観的な根拠は必要ないのなら、つまり騙しはOKということになろう。

 もし愛において信じるかどうかは主観の問題で、客観的な根拠は必要ないのならば、私は方々で 「キミを愛してる。キミは世界で一番美しい」と言うだろう。数打ちゃ当たるだ。ひたすら褒め称えていれば、なかにはひっかかる女がいないとも限らない。

 だが私はそんなことはしない。なぜか?
 
 科学の夜明けを起こしたデカルトは「疑って疑って、もう疑いようのないことだけが真実である」という。ならば真実には信じる価値がある。真実には、信じることを遮るものは何もないからだ。

 畢竟、愛は超主観(主観を超えるほどの主観)だが、愛とは、疑って疑って、もう疑いようのない真実だけをつかみとることではないか。別に言わなくていいことはあるだろう。しかし隠し事や騙しがあるのでは、その、疑って疑って、もう疑いようのない真実としての愛をつかみとれるだろうか。

 愛にとって信じることとは疑って疑って、もう疑いようのない真実へと向かうこと、辿りつくこと。そのすべてのプロセスである。

 愛は最初から無条件に信じることではないのだ。

 信じることは保留してもよいから、疑って疑って、もう疑いようのない真実をみつめよう。私の真実、キミの真実、私とキミの真実を。




■レベッカのこれから

 ともかくもうベッキーを責める理由はない。この件はこれで終わりだ。元気の押し売りことベッキーという虚像もこれで終わりだ。状況的に、今後、テレビで生きていくのは難しいかもしれない。テレビは小中学生程度の知能の大衆を視聴者として想定している。つまり視聴者は人の気持ちへの想像力がなく手加減などしない。「視聴者をバカにし、人の夫を横取りする、嘘つきの悪女」というレッテルを悪趣味な彼らが剥がすことは想像できない。この物語は実際、多くの教訓を含んでいるが、彼らには日常の鬱憤を晴らすネタにすぎない。

 いずれにせよ、どこで生きていくにしろ、レベッカ・英里・レイボーンは全く新しい職業人格を一からつくるより他ないだろう。

 先に、

 レベッカ・英里・レイボーン個人の行為の責任は無論、レベッカ・英里・レイボーンにあるのであって、ベッキーという職業人格にはない。

 と言ったこと矛盾するが、レベッカ・英里・レイボーンはベッキーという職業人格ごと川谷との過去を捨ててしまえばいい。世間は忘れてはくれないが、その上で、女優活動をするなりなんなりして新しいアバターを獲得すればいい。もしも女優として血も涙もない悪女を完璧に演じることができたなら、評価は変わるかもしれない。

 川谷はどうなっても知らないが、誰もが認める嘘のない最高の一曲を書くこと以外に、名誉挽回も汚名返上もないだろう。(寸)




■ベッキーくれた教訓

・不倫はゲームである。
・自分に都合のいいポジティヴシンキングは現実を歪ませる。
・母性本能をくすぐる成人男性に対する感情は犬、猫へのそれと同じ。成人男性に対する愛情じゃない。
・人は過去だけでは判断できないが、身辺調査が大事。
・家族内の立ち位置と友達を調査しろ。
・自分の過ちを止めてくれる善き友を持て。
・自分を守るためだけの嘘をつくと、バレた時に信用を失う。
・言葉は嘘をつけるが、真実は嘘をつかない。
・妻帯者と付き合うな。
・バンドマンに気をつけろ。
・のっぺりとした童顔はやめておけ。(ex橋下徹、武藤貴也、川谷絵音etc)
・愛は初めに信ありきではない。信じることは保留してもよいから、疑って疑って、もう疑いようのない真実を共に見つけ出すこと。





posted by 駿附逑ケ at 23:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自由連想法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...