2018年06月22日

「コーシュト ボ ヨダミ」歌の正体を暴く




Flyways






◆I’m ready.

 4/15(日)、MOUMOON Flyways tour(初日)に行って来た。

 地下鉄千代田線赤坂の駅を降りると、マイナビ赤坂ブリッツは階段を登ったすぐそこだった。会場外の列に並んだのは17時45分。ゲートでは荷物チェック、身体チェックはなかった。

 ドリンクバーの長蛇の列を掻い潜って、なにはともあれ、おしっこだ。チケットにはBの58番とあったが、一階はオールスタンディングであった上に、人でごった返していたから、それがどこを示すのかよくわからなかった。人の放つ湿気で、むあっと暑い。とりあえずステージから見て左側のエリアの最も一番後ろへ行き、音響マンがいる金網に囲まれたエリアのすぐ横に落ち着いた。

 メガネの私には、この距離だと視界がボやっとしてしまうが人混みが嫌いだ。四方八方を他人に囲まれるよりは二方を壁にできるほうがよい。それに音響マンが機械をいじっているのを観るのが好きだ。何をやっているかはよくわからないが、彼らが全体を俯瞰しているのは明らかである。それはステージ上のアーティストよりももう一段上の視点。全体と細部を冷静に診ながら流れを澱ませない監督とエンジニアがいるエリアはそこだけ別次元のように見える。ビデオを回しているのを観たから、この初日のライブはブルーレイとDVDになるのかもしれない。

 それにしてもライブが始まるまでの待ちの数分間というのはどうしてこんなにも無意味なのだろう。湿気る暑さにじっと耐えるには微妙な洋楽のBGMが延々と小さく流れている。この暇をやり過ごすには、観客を観察するのもよい。後ろのエリアは男も女も一人で来ている者が多いようだ。年齢も10代から50代くらいと幅広い。控えめな人間は後ろに行き、そうでない者は真っ先にチケットを手に入れて前に行きたがる。当たり前すぎる有様には得るものは何もなく、私はライブが始まるまで目を瞑って心を無にした。





◆moumoon版「およげたいやk・・・」

 今回のライブはバンド編成だった。ヴォーカルのYUKAは赤いアコギを抱え、アタマにはブーケ状の白い花飾りと緑のふさふさした何か(これはリューカデンドロンアージェンタムという草だそう)をつけ、左半身にだけスパンコールのついたロングスカートの白いドレスで登場。

 ピアノとコーラスはmoumoonのファンにはおなじみのejiちゃん。ベースはエンジニアでもある宮本將行(まーくん)。安心の二人に安心してMASAKIはいつものように静かにテンションを昂らせ、ギターテクニックを見せつけてくれた。

 トークパートではYUKAの落語好きはやはり活かされず、満月の夜にYouTubeなどでやっている生放送「Full moon live」のように今回も台本無し。まーくんが本番前まで三日もちゃんと御飯を食べていなかった話を引き出し、時に眠らずに音楽をつくり続けるMASAKIには永遠の眠りを勧めるなど、終始オチのないトークは和やかで笑いも漏れ、やっぱりいつもの安心感のあるmoumoonだった。

 
 始まる前は温帯低気圧でグワァー!と来るのかと想定していたが、何か全体を通して穏やかな波にどんぶらこっこと、たゆたうようなマイルドさのある構成だった。今回の選曲はしっとりめの曲が多かったせいかもしれないが、松永俊弥さんのドラムに優しさがあったのだと思う。ドラムはロック系だと雷鳴や大型バイクのエンジン音のような主張の強い叩き方をする人が多いが、個人レッスンもしているという松永さんは正確で美しいドラムだった。(松永さんは夕轟,Sunshine Girl,Do you remember?などのCD録音に参加している)

 そのせいか手拍子をして踊るというよりも、本当に身体を揺らしてたゆたっていたかった。それでもラストのFlywaysからアンコールラストのGood Nightにかけては手拍子をして足を踏み鳴らして踊ってしまったが。

 それと私は目を瞑っている時間が長かった。客席に向けてライトがピカーン!と来るのが苦手だし、視覚情報が邪魔になるように感じた。せっかくの生ライブなのだからmoumoonの音楽が身体の中を駆け巡っていくのを感じたい。精神を感応させられるままに無限の宇宙をたゆたって泳ぎ回って流星の雨をしっかりと浴びたい。

 否、浴びた。流星雨は肌の上でTiny starsとなって細胞に侵入すると全身に『Circulation』した。痛み穢れた細胞はドロドロと洗い流されて浄化された。心と身体が爽やかになって元気が出た。この透明感は新緑眩しい午後、ガランドウの白い部屋に吹いた風でウィンドチャイムがカランと『Reflection』するようだ。

 透明な水をごくごく、どんよりとした曇は払いのけられ、森には明るい太陽が蛍光灯のようにいくつも差し込んでいる。空気が土と緑の匂いでシャッキリ。小川の流れる音がちょろちょろ。色とりどりの蝶たちが舞い、袖なしの白いロングのワンピースの女性は命の喜びを踊っている。濁った雨が苔むす森に濾過されて泉となるように、生まれたままの姿で、Oh, little-mini meにrefresh, reborn, return, 若返った気分だ。


 Moumoonのライブに行くのは2年半ぶりだったが、前回同様、奇跡を信じられる気持になった。Moumoonは厭世的で懐疑的な私を不思議とニュートラルにしてくれる。理屈の世界から感覚の世界に引き戻してくれる。無意識のアニマやlittle-mini meに繋げさせてくれる。別の世界に連れて行ってくれる。ファンタスティックな空想を起こさせる。


 「BIG FISH」では象、キリン、サイ、ライオンのいるサバンナの空が海になっている。熱帯魚はゆらゆらと、マグロやカツオの群れは鱗をテカテカに光らせながら透明チューブの中の急流を泳ぎ回る。とてつもなく巨大な魚のお母さんは積乱雲よりも高く、泰然としてヒマラヤ山の如し。

 その世界をlittle-mini meの私は魚になって泳ぎ回る。好奇心を満たすためだけに。身体にはとてつもない力が漲っている。もっと速く!速く!速く!海底から油を引いた水面に飛び立てば背中にはオパールの翼が生える。

 だが、すぐに風に煽られて操縦不能!May Day!May Day!管制塔応答せよ!乱気流に弾かれて着陸態勢に入ることもできないまま飛ばされる。

 月面宙返りで目が回る。もう意識が飛びそうだが、幸いにも巨大な丸いたんぽぽの綿毛に、ぼよ~んと受け止められる。あぶねぇ~、はて、ここはどこだ?

 現在地がわからない。しまった、帰り道を見失った。360°の視界、東の空はブルー、西の空はオレンジ。

 たんぽぽの綿毛は風に飛ばされ、どんどん地上から遠ざかろうとしている。高度が上がるほどに魚の鱗が剥がれて身体は人間に戻る。足がすくんでガクガクブルブルグランブルー。早く戻らないと帰れなくなる。

 背中の翼はまだ残っている。よし!行くぞ!この翼でもう一度飛ぶんだ!深呼吸!

 I'm ready now!…It's alright now!…I'm not afraid!…I'm ready now!

 「One!」左手を右肩の上に、「Two!!」右手を左肩の上に、「Three!!!」顎をしっかりと引いて、

 「No no no, be be be, brave brave brave, ROAR!!!!」___。


 無重力、身体は地上ではなく天空へと吸い込まれる。ああああああああ!そっちじゃない!!雲を突き抜けると

 I’m in the darkest night, full of stars, I witness the meteor shower___。




 

 偉大な画家達が人生を賭けて「これだ!」という色を探し求めたように、Moumoonは「これだ!」という音を探している。塑像を創るように、細かいディティールへのこだわりを何度も何度も積み重ねて、完璧を求めている。その嘘のなさは私の実存に語りかけてきて、多彩な想像を起こさせる。偉大な画家たちが絵で表そうとした世界を音楽で見させてくれる。聴かせてくれる。

 




◆疾風に勁草を知り、厳霜に貞木を識る

 トークパートで印象に残ったのは『Reflection』の解説。「思いや音楽が反響し合うことで新たな出遭いや創造が起こる」といった趣旨のことを話していて、その不思議さについてYUKAは上手く説明できない様子だったが、『Triangle』の歌詞にあるようにmoumoonとファンとはその音楽を通して、月を通して、出遭い、繋がっていることは確かである。

 『花咲く場所』の解説では、YUKAは作詞において植物からヒントを得ることが多いと言う。ブログや満月の夜にYouTubeなどでやっている生放送「Full moon live」でも語っていたが、「木は根を大きく張るから上へ上へ伸びていくことができ、嵐にも倒されない。草は、しなやかだから嵐にも飛ばされない」という。

 確かにそうだ。この点について少し私見を述べたい。

 草木花の成長は、日照、水、土、空気、周りに生えている植物、あるいは草食動物や人間からの影響を受ける。つまり環境によるところが大きく、環境に適応できるかどうかにかかっている。だから畑や家庭菜園では植物の生長に必要な条件をつくってやり、妨げるものを取り除く。

 それはそのまま子育てや友人関係あるいは教育や福祉にも言えることだろう。人間社会もそうやって、その人の生きやすさをつくり出し、自分の花を咲かせられるようにするのが理想である。弱肉強食の厳しい自然環境、経済的合理性、専制政治に適応して勝ち抜いた者だけが生きることを許されるのでは家族や社会を形成している意味がない。

 しかしどんな環境であれ、人間は太陽(真理)の光(意味)を浴びて、自分だけの花(真実)を心に咲かせることができる。嘘偽りだらけの世の中で、誰にも理解されず、真冬の冷たい風に吹きつけられるような生きづらさに喘ぐとしても。

 しかも人間における花(真実)は木(人生)にたったひとつだけ咲くのではない。いくつも咲くのだ。過去がどうであれ、現状がどうであれ、人間はいつでも今から新しい楽しみをみつけることもできる。今そのものを生きるために、使命を果たすために、愛しい人に思い出を残すために、今を使うことができる。

 誰もが幸せになりたいというが、親が悪い、相手が悪い、時代が悪いとボヤいて運命を呪い、過去が変われば今が変わると嘯く発想に幸せはありえない。人類は迷妄により過去が苦しみの原因だと思い込んでいるが、そうではない。過去は、運命は、未来は、いつでも私を愛している。私を幸福に導こうとしている。夜空の星の光が遠い過去から届いているものであるように、光(意味)は過去からも、いつでも届いている。未来に私を待っている誰かや何かから届いている。

 意味は光であり、声であり、匂いである。意味はいつでも私の傍に寄り添って離れないがとても小さなものである。

 憎しみはその光を見ることを、その声を聴くことを、その匂いを嗅ぐことを妨げる。憎しみは他人、世界、運命、自分に対する、諸々の自分勝手な期待が破られた時に生まれるものだ。期待とは権利というエゴの主張だ。変えられない過去に、運命に、未来に愚痴を言って受け入れないのはいつも自分のほうだ。

 中国の古い歴史書にこんな言葉がある。


 疾風に勁草を知り、厳霜に貞木を識る


 その草木の生命力は、強い風に倒されないでいられるか、真冬の厳しい霜にも耐えうるかで知ることができる。だから樹木の年齢はそのまま生命力の強さを示している。運の良さもあるが、ひとえに、その年齢の数だけ何度でも風雪に耐えてきたということだ。樹齢10年の樹より、樹齢300年の樹の方が人間を感動させるのはそれゆえである。

 枝葉を横に広く伸ばしている樹木は鳥獣や昆虫の憩いの場所となる。その無数の葉は風に吹かれれば美しい音楽を奏でる。その木陰は人間や鳥獣を暑い日差しから守ってくれる。

 そしてその樹木は枝葉と同じだけ、ないしはその倍、根を深く、広く伸ばしている。


 人間も同じではないか。どんな過去であろうとも、どんな出自であろうとも、いたずらに環境に負けないためには、その過去にしっかり深く広く根を張って生きるしかないのではないか。人生を生き抜くための栄養は大地(過去)から吸収するしかないのではないか。そうしない限り、強い風に飛ばされない、厳しい霜にも倒れない、草木花のようなしなやかさと強さは身につかないのではないか。

 根も枝葉も伸ばさず、上に高く高く伸びることにしか興味のない者は、幹の重さが根の重さを超えた時、キツツキの一撃でさえ、バランスを崩して倒れるに違ない。真っ直ぐ伸びているだけの木には鳥獣、昆虫、人間は寄り付かない。だが家や家具をつくる材木にはちょうどいいだろう。時期が来たら木こりに真っ先に切り倒されるはずだ。

 人生から失敗、挫折、怪我、病気、諍い、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦、天災、人災、そういう不慮の事態の全てを事前に察知して排除することはできない。無論、どんな困難も勝てるならfight back,戦えばいいし、逃げられるならEscape,逃げればいい。無用な争い、無用な我慢はすべきではない。だが、植物のようにそこを動けない時はどうか?

 それは受け身が取れるならユーモアにしてしまう柔弱さを発揮すること、受け身が取れないなら腐らないでそれなりにやり過ごすことができること、だろう。そのイージーなテクニックは以下に書いた。いい本があったらそのうち紹介しよう。


 意味との付き合い方「逆らう、壊す、すり替える、水を差す」


 
 さて、現実として、全ての障害を取り除かれて育った温室の草木花は、その当の障害に遇えば瞬く間に打ち倒されるのみである。根を深く広く張らない樹は風雪、地震に遭えばたちまちに倒されるのみである。誰の人生も真実を咲かせているが果報は人によりけりである。100個得られる者もいれば、1個も得られない者もいる。努力が実るかどうかは運鈍根次第である。だから努力しなきゃ始まらないが、努力が無駄に終わることもある。咲いた花に気づきもせずに、甘い果報だけに価値を見出して追いかける人生がやたらと推奨される風潮があるが、では健康上の理由でその果報を追いかけられなくなったらどうするのか?

 果報は他者と分け合えるものである。果報を多く持つ者は、一個も得られない者に自分の果報を分け与えることができる。それをするしないは人間性による。だが真実は誰とも分け合えない。真実は自分だけのものである。他者には意味を成さないのが真実である。

 ならば私はこう思う。我をこの世に縁起させた過去の全ての命たちは、自分の半生は、どんな傷であれ痛みであれ誤ちであれ、この不確実で不条理で謎だらけの世界で生きる己をバックアップしてくれる存在、一人ぼっちの夜の燈明、だと。


 
この痛みは心を守る為にもうこれ以上自分を騙さぬように本当の自分忘れぬ為の‶ みちしるべ″



 これはMoumoonの『Pain』の一節である。Moumoonには人の痛みに寄り添う歌、そっと背中を押してくれる歌が多い。『Pain』を含むアコースティックアレンジアルバム『ACOMOON』(2017年発売)はまさにそんな曲を集めた一枚だ。このアルバムは歌詞がYUKAの声と共に聴く者の心にすーっと染み込むように、伴奏はアコースティックギターのみで行われ、しかもその伴奏を極限まで削ぎ落とすという実験をしているが、これは見事に成功している。


moumoon acoustic selection -ACOMOON-



ジャケットはYUKAが描いた絵。これを見ていると天目(アジナチャクラ)が開いて、優しい風が吹き、葉擦れが聴こえてくる。


 太陽(真理)は肉眼で観たら目が焼かれてしまうが、月は太陽(真理)の光(意味)を柔らげて闇(苦悩)を照らしてくれる。一人でも怖くないように、夜でも道を歩けるように。

 映画『望郷』の主題歌となった「光の影」も、Moumoonの名の通り、‶柔らかい月”のような歌である。


 moumoon『光の影』(映画『望郷』主題歌)感想






◆琴線に触れる

 咲いた花はいつか散る。しかし散ることは無駄ではない。桜の花は散り様も美しい。散った花(真実)は土(過去)へと還る。否、桜はむしろ風に散りたくて咲くのだと思う。私は『夕轟』を聴いて短歌を詠んだ。


 桜は風に散りたくて咲くんだよと子にいう妻と夕轟


 『夕轟』を聴いた時、ある家族が思い浮かんだ。幼い女の子と男の子をつれた夫婦が桜堤の土手を、白い月の夕暮れ空に手を繋ぎ家へと帰る光景が目に浮かんだ。こども特有の汗や乳臭さが香った。

 私は未婚でこどもはいないからそれは私の記憶ではない。なのにその印象は私の記憶のような懐かしさがあった。

 否、無意識の記憶が呼び覚まされたのかもしれない。『声』を初めて聴いた時もそうだった。今年の始めにした経験を思い出させた。夕時に自転車で外出した時、横断歩道で信号待ちをしていたら、4~6歳の幼い姉妹の手を引いた初老の男が傍らに立った。姉妹が「あっ!おかあさ~ん!」と大きな声で向いのマンションに手を振ると、上階から母と思しき女性が「は~い、聴こえてるよ~」と手を振り返した。女性は娘達を連れて出かけた父を心配して待っていたのだろうか。姉妹は嬉しそうに「鍵開けといて~」と言ってはしゃいでいた。

 こんなありふれた家族の様が、私はなぜか気にかかった。去年の年末に母を亡くしたばかりだったからだろう。葬儀に際し、遺影用の写真をタンスや物置を漁って探した。私や妹の幼い頃の写真を収めたアルバムは観たことがあったが、未整理のままの写真もたくさん出てきた。その中にまだ妹が生まれていなかった頃に家族で柴又の土手に行ってお弁当を食べている写真があった。私と妹は5歳マイナス一日離れているから、おそらく4歳にも満たないくらいだろうか。

 幼すぎて全く記憶にないが、私は生まれてからずっと葛飾区に住んでいるから、柴又の土手は日常空間である。中学の時のマラソン大会は柴又の土手であったし、都合が合えば花火大会も観に行く。昭和の遺産である映画『男はつらいよ』が好きで繰り返し観ている。

 昔から土手を独りでちょくちょく散歩もする。広い空の夕焼けに感傷的になるのは、憶えている記憶だけでなく、憶えていない記憶が、琴線に触れているからかもしれない。

 私はmoumoonのnewAL『flyways』を聴き始めた3月14日からずっと

過去とは何か、記憶とは何か、本物の歌とは何か

 を考察している。実は、このブログを最後まで読んでもらうとそれが明らかになっている。すでに結論をひとつだけ明らかにしているが、それは

歌とは聴く者の憶えている記憶、憶えていない記憶に触れて琴線を鳴らすこと

 ということである。






◆Alone and Lonely

 自分にしかわからない感覚というのは誰にでもあるだろう。私が桜に感じている感覚はかなり特殊なものである。というのも私は桜の花の季節になると、桜の花から見られている気配を感じるのだ。花壇の花は小さな子供のように「わたしを見て見てカマって」という感じがする。

 だから軽く触れたり匂いを嗅いだりすると花びらが喜ぶように感じるが、誰もいない夜の桜は無言でこっちをいっせいに観ている。

 花びらのひとつひとつはシジミの裏みたいで、それは母の乳房を吸う嬰児のほっぺのようなホンノリ淡い可愛さがある。

 思わずつんつんしたくなるが、しかし僅かに聞こえる香りは、ごつごつとした堅い樹皮に抱きつかれたかのように冷たくて寂しい。この透明な寂寞は、自分の底にある自分の正体そのもので、桜は私のその井戸の底を観ている。私が子供の頃からずっと感じている孤独を観ている。

 2017年、moumoonの師匠でもある大沢伸一MONDO GROSSOのアルバム『何度でも新しく生まれる』に参加したYUKAが『late night blue』で歌った孤独を私はこのタナトスのようなLonely(一人ぼっちで寂しい「感情」)としてイメージする。



何度でも新しく生まれる



『GOLD』が素晴らしすぎる!棚引く雲の壮大な空に荘厳な陽の光が差している!



 一方、『優しい闇』で歌っている孤独はAlone(周りに誰もいない「状況」)のほうだろう。このような女性のイメージが湧いてくる。


 ___今日も夢と現実の色味の違いは埋まらないまま、疲れを抱えて部屋に帰った夜。わたしは真っ先にソファーに身を投げ出した。テレビは観たくないし、音楽も聴きたくない。ソファーで膝を抱えてじーっと、まとまりのない、とりとめのない思考をコロコロ。

 スマホの通知音に、ふと我に返る。いつのまにか進んだ時間。その分だけ幽霊になった心、重くなった体。深い溜息をついて立ち上がる。

 お湯を沸かす。

 風呂のスイッチを入れる。

 窓を開ければいつの間にか通り雨の気配。温かい飲み物に冷たい風が吹きかかる。かすかに聴こえる虫の声。湿った空気にAloneが冴えて、しみじみと浮き上がってゆくようだ。

 冷蔵庫を開けると何も食べるものがない。帰りに晩飯と明日の朝御飯を買うのを忘れていた。めんどくさいけど、お風呂に入る前に買いに行こう。お腹が空いた。近くのコンビニまで自転車を走らす。

 住宅街、闇夜に煌々と光るコンビニの存在感はいつ見てもどぎつい。なのにその内部は人の気配も、流れている音楽も、すべてが軽薄だ。雑誌をパラパラと立ち読みしてから、飲み物と御飯を適当に選ぶ。そして罪深き棚の前へ。

 一年365日24時間営業。誰かや何かの犠牲と引き換えの便利さの罰は、甘いもので払わなければならない。


 帰りはお気に入りの緑の散歩道を行く。自転車を押してテクテク歩く。お行儀が悪いけれど、チョコレート菓子を頬張りながら。お気に入りの歌を脳内再生。

 ビー玉みたいな水滴が頭と肩に、

 
 ぽたん!


 ひゃっこい


 近づくたびに消える茂みの虫の声


 淋しいけれど悲しくはない、こんな一人の時間。一人だからこそ癒されていく一番純粋な私、一番傷つきやすい私、little-mini me.

 五臓六腑を温めるお味噌汁のような

 おかあさんといっしょに入った温かい湯舟のような

 そんな優しさを私は私にあげたい。誰かにあげたい。誰かからもらいたい。

 ビリビリの炭酸が舌と喉をいじめるように誰かと笑いたい、誰かを笑わせたい。

 ドライヤーの焦げた風が濡れた髪を乾かすように、涙を拭いたい、拭いてほしい。


 そんな気持ちを書き込む、お風呂上りのSNS


 いいね!をくれるフォロワーは名も知らぬ人ばかり


 さて、歯を磨きましょう


 化粧水を顔にパパッと叩きましょう


 モコモコの毛布に身体を挟みましょう


 甘い香りのキャンドルをfu,


 おやすみなさい___。




 『優しい闇』は、そんな独り暮らしの日常がイメージされる。

 moumoonを聴いていると、いつもこういった言葉にならない特殊な感覚が自然と励起される。論理の世界から感覚の世界に入ってしまう。まだ言葉も獲得していなかった、こどもの頃に戻してくれる。この感じはYUKAが好きだという「おーなり由子著『きれいな色とことば』」を読んだ時に似ている。


 あの日の私に出会うからせつなくなるのです。おーなり由子著『きれいな色とことば』感想






◆歌は離れ離れの‶こころ″を繋ぐ

 あの日、夕暮れの横断歩道で幼い姉妹の呼びかけに答えた女性を観た直後、私はリトルグリーモンスターが歌う『Jupiter』を偶々耳にした。この歌は神が人間に呼びかける視点である。「あなたは孤独ではない、わたしの名を呼んだらどこへでもゆこう」という。この歌は元々は平原綾香が憑代となって歌ったもので、昨年亡くなった34歳の女性が好きだと言っていたのを、ふと思い出した。彼女には夫と幼い娘と息子がいた。

 私淑していたその女性のことを思い出すと私は俄かに不思議な感覚に捕らわれた。リトルグリーモンスターの歌がその女性の‶こころ″であるかのように聴こえてきたのだ。彼女がこの歌で、私の母の気持ちを伝えようとしている、という異常な考えが私のなかで起こったのだ。


 「私がこどもたちにそうであったように、あなたの母もあなたを想っている」


 と。私にはそう言われている感覚が生々しくあり、俄かに涙が止まらなくなった。


 本稿を書く間、私はふたつの言葉を偶然、知った。ひとつは『Ne m’oubliez pas』。これはフランスでの桜の花言葉である。日本語にすると

 「私を忘れないで」。


 もうひとつは「甲子とわよとみ」。


 これは日本書紀の斉明天皇條(655-661)にある意味不明な歌、


 摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝
 美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
 甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝

 まひらくつのくれつれ をのへたをらふくのりかりが
 みわたとのりかみ をらふくのりかりが
 かうしとわよとみ をのへたをらふくのりかりが


 の一節で、孫崎紀子がその著書「かぐや姫誕生の謎」(2016年、現代書館)で書いているが、パフラヴィー語(中世ペルシア語)で読み下すと意味はこうだという。


 コーシュト ボ ヨダミ

 ❛私の記憶が貴方と共にありますように❜

  I will be there for you anytime.


 http://michi01.com/magosaki/233kgy26660801.html


 この歌はゾロアスター教徒がつくったものであり、ササン朝ペルシャ(トカラ国、吐火羅・都貨邏)の最後の王ヤズデギルド三世(632-651)の娘プリンセス・バヌーパルスが歌ったのではないかという。日本に逃れてきたバヌーパルスにはペルシャ人の夫ダラがいたが、彼はペルシャ王朝再興のために戦い続ける妻の異母兄弟ペーローズを援けるため、妻を日本に人質に置いたまま出征したという。バヌーパルスにはダラとの間に娘がいたが、孫崎紀子は、この娘こそが‶かぐや姫”のモデルだと主張する。

 ちなみに娘は15歳になった時、ペルシャ人が多く住む宮廷の外の村に強制移住させられたため、それ以降バヌーパルスは娘には会えなかったという。その数年後、バヌーパルスは病気のため夫にも会えぬまま生涯を閉じた。娘は20歳の時、天皇に会うことになっていた前日に毒を飲んで死亡。嘆き悲しむ翁と媼は怒った迎えの者に切り殺された。


 YUKAは2018年4月21日付けのブログ「うたについて。」でこう言っている。(行間はそのまま)


うたは、


古来より、

天と地を震わせ、心を繋ぐ物だったという。。。



(和歌の時代へさかのぼるんだけど。。。)




生者の世界から
死者の世界へも、うたに乗せれば
愛する人への想いも届くと考えられていたからなんだって。





そしてね、


うたって、歌人だけが思いついたり読めるようでいて、


ほんとうは、
うたは皆んなのこころのなかにあって、だから人が歌うと、それが人々の心に響くんだって。。。



ただ、その歌のこころ、気持ち


やりきれない感情や、どうやって言葉にしていいかわからない心持ちを、



だれかが歌にするから、


はっとして、みんなで共鳴できるのだと。







うたを作ることは、その作業で終わりなのではなく、


人の心に届いて、共鳴したとき


初めて完成すると。







いいよね。






そしてこころが解き放たれる


カタルシスー😚




#MOUMOON



引用元 https://ameblo.jp/moumoonblog/entry-12370796697.html



 2か月後に話題沸騰となるバンドを予言!笑


 否、それはさておき、


 孫崎紀子 著「かぐや姫誕生の謎」(2016年、現代書館)は仮説の域を出ないのだが、これを読んで私は、❛私の記憶が貴方と共にありますように❜という‶こころ”が私のなかにずっと前からあったことに気が付いた。

 私にしかわからない私の中にずっと前からあるこの‶こころ”は❛私を忘れないで❜ではニュアンスが違う。❛私の記憶が貴方と共にありますように❜と表記されるほうが近い。

 何故なら❛私を忘れないで❜だと、「あなたはきっと私を忘れてしまう」ことを知っている気がする。自分が淋しくて辛いから忘れないでほしいという期待、縋りを感じる。

 ❛私の記憶が貴方と共にありますように❜は、「私は魂になっても永遠に貴方を守る」という誓いだろう。この言葉に込められたのは無私の誓いであったからこそ、遠い昔に滅亡した国の姫の‶こころ”は今も生き続けている。今を生きる私の‶こころ”に共鳴する。ひとりの女性の哀しみが、性別の違う私に生々しく感じられる。夫、娘、きょうだい、一族の安否を気遣い、月を観てはさめざめと泣いていた、女の頬を伝う涙が、私の心に零れ落ちてくる。

 『夕轟』と『声』を聴いた時も「かぐや姫誕生の謎」の物語を読んだ時と似た感覚を覚えた。母なる者が、子供と夫に永遠の思いを伝えようとしている、と。その声は、私の自分の胸のなかにある、自分だけの花咲く場所、遠くで光っている温かい記憶を照らし出した。思い出は決して私をLonelyにはしないのだ、と慰めてくれた。

 否、それだけではない。『声』には残された家族から母へ、妻へ呼びかける声でもあるのがわかるだろうか?‶こころ”を研ぎ澄ませてこの歌の‶こころ”、❛私の記憶が貴方と共にありますように❜という永遠の誓いを感じ取ってほしい。『声』の英文だけを引用する。


 
Whenever you want
 Wherever you go
 I will be there for you anytime
 Whenever you cry
 Wherever you wish
 I will be there for you anytime


 中略


 Forever together, forever with you
 Forever together, I wish that you're here with me
 I won'd doubt it anymore







◆歌は‶こころ″に指向性を与える

 私はこのところずっと『過去とは何か、記憶とは何か、本物の歌とは何か』を考えていたことは先に述べた。これまでブログに書いた事を読み返し、ヒントになりそうな本を読んだ。それでひとつの仮説ができた。

 まず、私はこれまで断りもなく意味を光と言い換えてきたが、それは両者の相似に相当な理由があるからである。

 ⑴ 光は自然状態では無指向性である。つまり光は遮るものがないのなら、全方位に丸い球のように放射拡散する性質を持っている。

 ⑵ 宇宙において光は太陽だけが発しているのではない。月の出ない夜にも、厚い雲に覆われた夜にも、星となって全方位で瞬いている。その星の光は現在のものではなく遠い過去から届いているものである。

 ⑶ 光は無指向性であるが、指向性を与えることもできる。つまりレーザービームのように一つの方向に飛ばすことができる。


 私は最近、『意味が遠い過去から届いた』経験をした。それについては「Chère Lumière et Vérité,」で書いた。この個人的な経験および、これまでの経験、そしてmoumoonや宇多田ヒカルを聴くことで得られる特殊な感覚、「100年残る歌」で展開した考察、それらすべてが私に気づかせたのは『本物の歌は意味に指向性を与える力がある』ということだった。つまりはこういうことだ。


  意味は光の如く指向性を持つと、時空も性別も年齢も生死も超えて伝わる。遠い未来の人間の‶こころ”にも共鳴する。遠い過去の人間の‶こころ”を教えてくれる。生者と死者の‶こころ”さえも繋ぐ。自分が忘れてしまった記憶や愛を思い出させてくれる。

  歌は、星の光がそうであるように、遠い過去の意味を、今ここに届けるのである。今ここで輝く星の光、意味を遠い未来へと、いつか届けるのだ。

  我々は日常、故人のことを忘れている。それはきっと我々の記憶が故人と共にあるからだ。忘れることで汝の記憶は故人へと届けられた。彼らを守るために。彼らを孤独にさせないために。

  人は故人を忘れることを厭う。だが、忘れているということは汝の記憶を故人に届けるための指向性なのだ。記憶は分け合えないのだ。故人とは。

  だが、悲しまないでほしい。汝に故人の記憶が必要な時は、それは帰ってくるのだから。歌に乗って。汝が歌えば、誰かが歌えば。

  あなたの忘却:過去、故人を守るための指向性
  あなたの歌唱:過去、故人が汝や誰かを守るための指向性、未来の誰かを守る指向性


  歌が‶こころ”(意味、記憶)に帰り道を教えるのだ。歌が故人の‶こころ”(意味、記憶)に指向性を与えて、汝へと届けるのだ。歌は、この世とあの世、過去と今、今と未来、汝と故人を繋ぐ渡し舟なのである。


 私は趣味でクラシックギターを好き勝手に弾くが、ギターを構えると指が勝手に動いてフレーズが降りてくることがある。このメロディはいったいどこからやってくるのかといつも不思議に思うが、自分の精神世界からやってくる感じは全くない。私にとってギターとは、指向性をもって宇宙を飛び交う誰かの‶こころ″(意味、記憶)の受信機なのだと解する方がしっくりくる。


 つまり歌の正体を私は以下のように想像している。


  Melody(曲)とはSound(音の連なり)となって現れた‶こころ”である。インストゥルメンタルのままでは‶こころ”は無指向性である。インストゥルメンタルを好む者は、その曲に自ら指向性を与えられる能力がある。

  Melody(曲)=Sound(音の連なり)となって現れた‶こころ”にLyrics(歌詞)=Words(ことば)で指向性を与えてVoice(声)で表現するのがSong(歌)である。

  その指向性を持った‶こころ”に年齢、性別、肩書、価値観、人種、時代、あらゆる区別がない時、時間の壁、生死の壁も超えて、より多くの人に伝わるものとなる。

  その指向性を持った‶こころ”が聴く者にとって、よく知っていることであった時、彼はそれに気づく。

  その指向性を持った‶こころ”が聴く者にとって、忘れていた記憶であった時、彼はそれに気づく。

  その指向性を持った‶こころ”が聴く者にとって、自分の中の未完了の‶こころ”であった時、彼はそれに気づく。完成させてしまうことがある。



 以上を目的に、我々は遠い昔から歌を歌ってきたのである。



 さて、歌の正体をまたひとつ暴くことに成功したと思うのだが如何に?(寸)
posted by 駿喆咲道 at 00:06| 音楽 | 更新情報をチェックする






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駿喆咲道@suntetusakudou

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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