著者:駿附逑ケ | 1978年,東京生まれ。



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2016年12月09日

解釈と想像と性のパースペクティブ 宇多田ヒカル『Fantôme』感想

Fant・me






■道

 2016/10/11/火に配信された「サントリー天然水 presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー」を機にラジコにタイムフリーという機能が実装された。これは過去一週間以内に放送された番組を後から聴くことができるものである。この機能の実現は宇多田ヒカルが2014年まで配信していたラジオ「KUMA PAWER」の中での発言がきっかけだったともいう。

 宇多田ヒカルは「ファントーム・アワー」の終盤に藤圭子の『MY WAY』をかけたが、その歌声は人生の酢いも甘いも噛み分けた人ならではの心に染みるものだった。





『道』において、ひょっとしたら藤圭子の「MY WAY」を意識したのだろうか。『道』は『MY WAY』の歌詞「すべては心の決めたままに」という、その心はどんな心なのかについて語ったような歌である。


 人によって人生観は違う。運命決定論、全ては脳が見せる幻覚だという唯脳論、全ては自分の意識と努力次第だという自己責任論、全ては気まぐれで懲罰的な神の采配、、、どんな価値観を持とうがその人の自由である。

 宇多田ヒカルは『道』において人生を「どこへ続くかまだわからぬ道」、「人生の岐路に立つ標識はありゃせぬ」と、ごく自然な認識で表現している。

 実際、私は未来を知らないので人生は「どこへ続くかまだわからぬ道」、「人生の岐路に立つ標識はありゃせぬ」だと知っている。過去を振り返ってみても、出会いは偶然で、別れは突然ということはしばしばだった。「あの時ああしてればよかったのに」と後悔の連続でもある。『Fantôme』のセトリはそうした人生の真実を仄めかすかのように前後の曲に連続性がない。一曲一曲がブツリ、ブツリと始まっては終わる。

 システムを再起動しガソリン満タンでアクセルを踏み入れた『道』→すれ違う男と女の『俺の彼女』→亡き人を追悼する『花束を君に』→日常からエスケープする束の間の『二時間だけのバカンス』→夢なのか現実なのかわからない美しい『人魚』→LGBTの苦悩を彷彿とさせる『ともだち』→親しい人を亡くした悲しみから前に進もうとモガく『真夏の通り雨』→寄る辺なき孤独な二人の『荒野の狼』→何もかも忘れてしまいたい『忘却』→どんどんきみに恋する『人生最高の日』→もう二度と会えない『桜流し』・・・。

 人生は実は連続しているようでしていない。出会い、別れ、裏切り、天災、事件、事故、病気、、、無論、幸運もいつも偶然で突然だ。昨日の続きのようで今日は今日なのだ。

 そんな毎日に迷わずに生きていくのは難しい。でも宇多田ヒカルは‘あなた’の声が聞こえるという。


 自分が歩む道の先がどこへ続くかわからなくても、きっとそこにあなたがいるし、わたしの中にもあなたがいる。いつ如何なる時も。わたしはあなたから生まれたのだ。この顔も声もあなたによく似ている。わたしにはあなたが残してくれたものがたくさんある。この才能も思い出も痛みも消えない星のようだ。だからわたしは孤独(alone)ではない。一人(lonely)で歩まねばならぬ道でも私はあなたに会うために「転んでも起き上がる、迷ったら立ち止まる、そして問う、あなたならこんな時どうする?」と。

 人生の岐路に立つ誰かさんのお節介な標識など私には必要ない。


 『道』を聴いていると、そう迷いを振り払うかのような決意が宇多田ヒカルを再始動させたのではないかと想像する。

 公式サイトの企画「ヒカルパイセンに聞け!」の中で、自身の音楽活動を「稼業を継いだ」と答えているが、音楽の道を開いてくれたのは、無論、父母だろう。だから「一人で歩いたつもりの道でも始まりはあなただった」。その‘あなた’である一人、母・藤圭子(宇多田純子)がもういないのだという現実は宇多田ヒカルに身を切られるような痛みを感じさせているだろうことは想像に難くない。しかし、宇多田ヒカルは再び歌うことを選んだ。それが自身の『道』であり、母の『MY WAY』への返歌。

 私は『道』を聴いてそう想像した。




■解釈と想像の自由
 
 『道』を聴く者達にとっての’あなた’とは誰であろう。それは各人各様である。信仰者にとっては神であろうし、親や伴侶を亡くしている人にとってはその人であろう。ないしは自身の尊敬する人であろう。
 
 私は初耳で、なぜか女性の気持ちになって、離れたところにいる愛する男性(夫)をイメージした。相手を思う気持ちの強さから、止むに止まれぬ事情で遠く離ればなれの彼に会える日を信じて、強く生き抜いて行こうという女性をイメージしたのだ。そしてそういう女性が私を想ってくれていることの心強さを感じたのである。

 製作者に意図があるとしても良い歌にはこうした解釈と想像の自由があるものだと思う。なぜならば良い歌というのは端的に言って普遍的な人間の心、有様を歌っているからである。『二時間だけのバカンス』もそうだ。『二時間だけのバカンス』を聴くと、宇多田ヒカルは一見、自分語りをしているようで、実は普遍的な人間の心、有様を歌っているということがよくわかる。

 『二時間だけのバカンス』は椎名林檎との豪華なデュエットである。この曲には百合を彷彿とさせる二人が出演するMVがある。宇宙コロニーや無人の星で密会する二人は、車を飛ばし、お揃いのパッツン前髪オカッパのヘアスタイルで、抱き合い、手を繋ぐ。二人の声とドキドキ感のあるメロディーが、美味いラーメンの如く麺とスープのように絡み合っている。

 歌詞に目を向けると「渚の手前でランデブー」、「スリルが私を求める」、「家族のために頑張る君を盗んでドライブ」、「すべては僕のせいです」、「砂の上で頭の奥が痺れるようなキスをして」と多分に刺激的で、百合よりも不倫を想像してドキっとするが、どうやら特定の二人ではなく、様々なシュチュエーションで日常をエスケープする人達を歌っているようだ。「今日は授業さぼって二人きりで公園歩こう」は確実に学生であるし、「忙しいからこそ たまに息抜きしましょうよ いっそ派手に」は子育てや仕事に追われている女同士を彷彿させる。

 『俺の彼女』は恋人ではあるけれど心理的に距離のある関係だが、『二時間だけのバカンス』は恋人ではない二人のプラトニックな関係が見て取れる。恋人や夫がいながら、プラトニックな関係、フィジカルな関係、息抜き、を別の男性や女友達に求めなければならないというのは矛盾だが、その理由を真面目に考えだすと怖い。どうせ世のお父さん達には悲報でしかなさそうだし。笑

 宇多田ヒカルと椎名林檎の絡み合いにはどうしても想像が逞しくなるが、その先を想像するのはやめておこう。笑


 『Fantôme』は日本の音楽ランキングはもちろん、ビルボード、世界各国のiTunesでトップとなった。いわゆる特典商法はやっていなかったし、日本以外では特段、プロモーションもしていなかったと思うが、世界は宇多田ヒカルをずっと前から知っていたし、再び会える日を待っていたのだ。

 『Fantôme』はほぼ日本語歌詞だが、今は日本語を学ぶ者も多いし、グーグル翻訳だってある。インターネットは日本人が洋楽を聴くのと同じ感覚で海外の人達が日本語の歌を聴く時代にしたのであろう。いや、想像と解釈の自由、普遍性、創造性を持つ宇多田ヒカルの音楽だからこそ、世界中の人々に認知されたのである。




■ぬ

 日本テレビ系「NEWS ZERO」(10月5日)での村尾信尚キャスターとの対談で「真夏の通り雨」について、日本語の美しさにこだわったと言っていたが、日本語に対するこだわりはアルバム全編を通しているのではないか。


 道:魂、彩る、いつ如何なる

 俺の彼女:そこそこ、愛想、蒸し返し、狐と狸の化かし合い

 花束を君に:眩い

 二時間だけのバカンス:渚

 人魚:水面、黄昏

 ともだち:夜更け、胸のうち、馬鹿正直

 荒野の狼:惚れた腫れた、今宵、ご免

 真夏の通り雨:思いを馳せる、身を焦がした、見送りびと

 人生最高の日:苦尽甘来(くじんかんらん)、一寸先が闇、虚心坦懐(きょしんたんかい)

 桜流し:産声、遣る瀬無きかな


 日本語ならではの言い回し、オノマトメ、慣用句、四字熟語が見て取れる。


 また『Fantôme』には「ぬ」が頻回に使われている。


 道:人生の岐路に立つ標識はありゃせぬ、一人で歩まねばならぬ道でも、どこへ続くかまだ分からぬ道

 花束を君に:始まりと終わりの狭間で忘れぬ約束した、毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く

 人魚:まだ帰れぬ

 ともだち:見果てぬ夢

 荒野の狼:満たされぬ心

 真夏の通り雨:勝てぬ戦に息切らし、降り止まぬ真夏の通り雨


 「ぬ」は無論、否定を意味する日本語である。口語ではなく文語である。つまり文章においてしか使われない。歌においては、その発音の特性と聞き取りにくさから「ぬ」は敬遠されがちである。ゆえに最近は「ない」で言い換えられるのが通例である。しかし、宇多田ヒカルは「ぬ」を意図して使ったのではないか。
「ぬ」の持つニュアンス、クオリア、湿り気、にはただならぬ怪しさがある。

 アルバムタイトルの『Fantôme』とは雰囲気や気配を意味するフランス語だが、英語のPhantom(ファントム)は亡霊・幽霊を意味する。ジャケット写真の宇多田ヒカルは手ぶれしたようにボヤけている。なにか「ぬ」の持つ印象に似ていないだろうか。




■アウトサイダー

 『俺の彼女』といえば部屋中にアニメの美少女のポスターを張りたぐり、抱き枕を抱いて寝ているおまえらを彷彿とさせるが、無論、そんな歌じゃない。笑

 これは若干治安の悪いダウンタウンにいそうな男と、真面目に働いている女のミュージカルを見てるようだ。宇多田ヒカルは落語のようにひとりで男性と女性を演じている。男声では藤圭子を彷彿とさせる低い声でコブシを回し、女声ではイジらしい女になりきっている。男には夢も金もなく望みは現状維持。そこそこ美人で愛想のいい女に満足しているが、いつしか飽きられるだろうと思ってる。そんな男の都合のいい女は、愛されたい本音を「体よりもっと奥に招きたい、触りたい」という衝撃的なセリフによって吐露する。このセリフによって、この女が、自分に深入りさせない、深入りしてこない男をどれほど愛しているかが鮮明になる。サビは男と女がタンゴの激しいダンスを踊っているような畳み掛けで、全身の鳥肌がゾワー!と来る。

 最後に冒頭の男のセリフ「俺の彼女はそこそこ美人〜」が繰り返えされるのは、そんなに純粋に愛されてもなお変われない男の愚かさを皮肉っているようで身が縮む思いだ。夢も金もなく望みは現状維持、、、この男がまるっきり自分自身のような気さえしてくる。

 男のひとりとして言い訳をさせてもらえるなら、女がピュアであればあるほど、深入りしたくないものだ。甲斐性のない綺麗に生きて来なかった俺なんかより、もっと、おまえを幸せにしてくれる、いい男がいるだろうに、なんでおまえは俺から離れないんだ。俺はおまえを束縛してないんだから、いつでも自由になっていいんだぜ。

 野良猫の如く、野良犬の如く、荒野の狼の如く生きる男達にはそういう気持ちがある。

 『荒野の狼』は宇多田ヒカルが好きだというヘルマン・ヘッセの小説『荒野のおおかみ』から着想したという。宇多田ヒカル版『荒野の狼』は小説の主人公ハリー・ハラーの如く昨今の不寛容でありながら承認欲求に満ち溢れた世界やインターネットを嫌悪し皮肉るような歌である。

 日本に限定しても、ヘイトだ、反日だ、シールズだ、渋谷のハロウィンだ、有名人の不貞だ、薬物だと、誰も彼もが、偽物の安心のために、そうだ、そうだ、とお互いを肯定し合い、悪い者探しをしているが、
そんなのは私には関係ないというのが宇多田ヒカル版『荒野の狼』である。

 私はこの記事を書くに際してヘルマン・ヘッセの小説『荒野のおおかみ』を読んでみたが前半でやめた。まるでニーチェのようなハリーの独白に付き合うのは如何とも耐えられなかった。汗

 ハリーは精神的に潔癖で、日々の生活にアクセクするだけの大衆を厭い、健康を軽んじるが、真理と美を愛している。カネ、仕事、家族、愛、仲間、社会、政治、如何なる関係も自分を拘束する首輪と看做して遠ざけ、帰る場所もない。だが孤独と引換えでも自由を選ぶ男(アウトサイダー)である。

 刺青だらけのラッパーKOHHとコラボした『忘却』は普段は無意識にしまわれているが、ふと現れる辛い記憶。心を慰めるために酒を煽るが、翌朝、酷い吐き気と頭痛に余計に鬱になる。そんな状況が浮かんでくる歌だが、これはハリーの内面のようにも感じる。希死念慮に取り憑かれながらも精神力によって踏みとどまっているハリーの内面のようにも感じる。




■俺の彼女は演歌

 『俺の彼女』、『荒野の狼』、『忘却』、この三曲はもしかしかたらヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」でつながっているのかもしれない。ハリーは50代だが、若い『俺の彼女』の俺も「荒野のおおかみ」のひとりならば、この彼女は苦労するだろう。笑 

 まず女は男から自由放任にされるなんて優しさとは思わないのだろう。素性を明かさず、つかず離れず、内面に踏み込まず、踏み込ませず、気の向いた時だけ逢う間柄なんて、ともすれば自分を都合よく利用してると思うかもしれない。しかし全面的に女の愛を受け入れてしまったら、彼女は自分の中で神になってしまう。男は神の前では正直でいることしかできない。ならば痛みも弱さもみんな知られてしまう。それはあるいは刃となって深手を負わせてしまうかもしれない。それでも神は許すだろう。いや全てを吐き出すまで許さないだろう。愛という屈服せざるを得ないものは、そうやって何もかも明け渡させてしまう。

 しかし俺たちには実はそれに耐えられるほどの心の強さがない。家族、前の恋人、友達、仕事、、、これまでの人間関係で傷ついてきたし、傷つけてきたし、結局一人でいる方が楽なのを知っている。でも孤独は寂しい。真冬の夜の降りしきる雪に、凍てつく風に、耐えられない。だから心が冷えきってしまった時はおまえに会いたくなる。赤々と燃える暖炉のようなおまえに、、、


 そんな独りよがりな男だからこそ、愛してしまう、愛されたいと願うのに本音をぶつけられない女のイジラシサはまさに演歌だ。いや演歌を超えている。『荒野の狼』でいうところの永遠の始まりに背を向けるこの男と女は世界のどこにでも、ずっと前からいるのだから。

 


■人魚という女性の中のアニマ

 『二時間だけのバカンス』にシンデラレを彷彿とさせるような「クローゼットの奥で眠るドレス、履かれる日を待つハイール」、「お伽話の続きなんて誰も聞きたくない」という歌詞が出てくるが、人魚といえばアンデルセンの童話「人魚姫」を思い出す。童話では心の優しい人魚が瀕死の船乗りを助ける。人魚は船乗りに恋をし、魔法で人間になるのと引きかえに声を失った。人魚にとって美しい歌声を失うというのは死活問題だが、わずか15歳の人魚にとっては恋に勝る価値はない。しかしライバルの女に船乗りを横取りされ泡となって呆気なく消えてしまった。

 アンデルセンの「人魚姫」はこのような酬われない悲恋であったが、宇多田ヒカルの歌う『人魚』はどうだろう。私には女性の人魚に恋をした女性の歌のように感じられる。男性の人魚もいるそうだが、西洋の神話、民話では一般的に人魚には美しい女性のイメージがあるのでそう思うだけのなのだが、この歌の主人公の女性は髪が長く、赤いシルク生地のノースリーブのブラウスを着ていて、ひとりで夜の渚を歩いている。季節は夏。誰もいない入り江の砂浜。寄せては返す穏やかな波の戯れに裸足なって、遠くで咲いている打ち上げ花火を見ている。その視線の先、岩場に人魚は現れる。花火に驚いたのか、愛しい人に会いに来たのか、その美しさに、はっとする。透き通る白い肌をして淡いピンクの鱗が虹のようにチラチラと輝いている。人魚は得も言われぬ美しい声で歌い出す。まるでシャルル・グノーの『Ave Maria』のハープのように。人魚はわたしに気づくと沖へと消えて行く。


 そんな夢のような幻想が沸き起こる美しい曲だ。『人生最高の日』は海外ドラマにありがちなミュージカルシーンの如く説明不要な恋のドキドキワクワクで楽しいが、『人魚』はそれとは対照的なしっとり、うっとりとした耽美的な世界、『二時間だけのバカンス』での渚の手前でランデブー。


 『人魚』を聞いて思い出したことがある。時たま、女性達から、美しい女性モデルや女優や女性アイドルのブログやSNSの更新を日々チェックしているという話を耳にするのだが、理由を聞くと「自分撮りが可愛くて癒される」、「綺麗でうっとりする」という。これはどういう心理だろう。

 女性は社会的に、自分の容姿を客観視し、他人と比べる能力に長けていると思われる。ある意味、見た目で序列化されてしまうゆえに、化粧、ファッション、体型維持へのこだわりは男性よりも遥に強い。ゆえに美しい女性モデルや女優や女性アイドルは非常に気になる存在だろう。彼女達は男性から崇拝されているということもあるが、それよりも自分の目指すべき方向性、ロールモデルそのものである。

 あるいは人魚姫もそのひとりではないか。物語ではなく見た目の話である。いや、シンデレラ、白雪姫、親指姫、、、御伽噺の主人公たちも皆そうではないか。彼女達はアニメ同様、非実在だが、誰の頭の中でも美しいはずである。

 心理学者のユングは、男性の無意識の中に在る女性性のことをアニマ、女性の無意識の中に在る男性性のことをアニムスと名付けたという。では男性の無意識の中には男性性はいないのだろうか?女性の無意識の中に女性性はいないのだろうか?

 ひょっとしたら女性は実在の女性やアニメや御伽噺といった想像にアニマを見ているのかもしれないと、私は思うのだが、『人魚』はその根拠のない思考について私に思いを巡らせるのである。

 


■ともだち
 
 本人の言によればLGBTの人の恋愛感情について歌った歌ということのようだ。ヘテロの男性である私には想像し難いが、こどもの頃から今日までの間、ホモセクシャルの男性には少なくとも5人遭遇したことがある。一番最初に会ったのは幼稚園だ。

 LGBTは性的少数者だとされているが、実際のところはどうなのだろう。研究者によれば性は多様性に満ちているものだという。歴史を振り返ってみても明治以前の日本の性事情は現代からすればはちゃめちゃだった。公家や武士の少年性愛、男色は有名な話だが、常陸国風土記、万葉集、続日本記には歌垣、カガイという乱交についての記録があるし、『絵姿女房』にはグウの音でない。紫式部の源氏物語は古典文学として称賛されているが、どう読んでも女が書いた女のエロ本だ。

 翻って現代にはボーイズラブ(BL)などというノンケの男性同士の恋愛を描いた小説や漫画があり、好き者の女性に消費されている。また日本では色白細身の男性臭さのない男がイケメンだとされている。ショタコンの延長なのか何なのか知らないが、これは海外とは真逆である。

 う〜ん、確かに性は多様性に満ちていよう。しかしながら、同性愛はユダヤ・キリスト・イスラムではタブーである。無宗教の現代日本でもほぼ同様だろう。すなわち、性は多様性に満ちていることは事実でありながら、ヘテロ以外はタブーであるというのが現状なのだ。

 そうした現状であっても海外の歌手にはカミングアウトしている者もいる。フレデリック・マーキュリー、エルトン・ジョン、リッキー・マーティン、コール・ポーター、レディーガガ、、、KOHHとも共演したフランク・オーシャン、椎名林檎が尊敬するジャニス・イアン、、、

 日本だと中村中(なかむらあたる)くらいしか思い浮かばない。意図せずアウティングされてしまっている男性歌手もいるが、本人がノーコメントなので、LGBTというフレームで聴いていいんだか悪いんだかよくわからない。

 そこに来て宇多田ヒカルは『ともだち』という歌を歌った。ハモっているのは平成生まれの小袋成彬(おぶくろ なりあき)だという。初めて聞く名前だが、自身でも音楽活動をしている音楽プロデューサーのようだ。ボーカルを担当するN.O.R.Kをチェックしたが、綺麗なファルセットである。宇多田ヒカルは「綺麗なファルセットを出せる人がいる」と知人に紹介されたそうだがここまでファルセットで歌える者はそうそういないだろう。『ともだち』ではあくまでハモなりので、出しゃばっていないが、宇多田ヒカルの声と重なることで楽曲に岩に染み入る蝉の声のような響きをもたらしている。

 『ともだち』はLGBTでない者には片思いの歌でしかないかもしれないが、LGBTの歌として聴こうとするなら、救いようのない痛みが横たわっている。主人公が思いを寄せる相手はノンケなのだ。いつか成就する日はやって来ない。現実はBLとは違うのである。ノンケならば恋の相手が、現状、異性の友達であっても、状況によっては一線を越える方向に行くかもしれないが、その可能性はないのだ。そんな可能性ゼロの恋なんてしたくもないが、それがLGBTの苦悩のひとつだということを、『ともだち』は私に想像させる。

 まぁ、ヘテロ同士でも成立しない恋は山程ある。ならばLGBTだからと言って、恋愛の苦悩を殊更に言う必要もないだろう。ヘテロでもLGBTでも恋愛感情というのは差して変わらないはずだ。




■『桜流し』,『花束を君に』,『真夏の通り雨』

 この三曲については、以前に、

 宇多田ヒカルというNATURE #桜流し #花束を君に #真夏の通り雨 感想

で述べたのでここでは割愛するが、宇多田ヒカルは「ヒカルパイセンに聞け」でファンからの「道を聞きました。lonely とalone の違いって???教えてほしいです。」という質問にこう答えている。

Lonelyは孤独な、寂しい。Aloneは一人きり、だぜ。
おおまかに言うと『真夏の通り雨』では「一人じゃないけど孤独」、『道』では「孤独だけど一人じゃない」っていう歌詞なんだな。ファンに言われて目から鱗だったぜ。



 また、日本テレビ系「NEWS ZERO」(10月5日)での村尾信尚キャスターとの対談で「真夏の通り雨」について、「40代、50代の女性をイメージした。彼女は親しい人を亡くした悲しみから前に進んで行こうとしている」と述べていた。


 

■芸術とは何か 

 ここまで宇多田ヒカル『Fantôme』 について感じたことを述べてきたが、まだ言いたいことは山程ある。けれど、その全てをうまく言葉にできない。もし一言で済ませることが許されるのなら「もうこの人、抱きしめてあげたい」という気持ちだが、それは自分自身の心、寂しさ、痛みを投影させられてしまってるからだと思う。『人魚』、『人生最高の日』がなかったら戻れない感じがする。


 宇多田ヒカルは『ヒカルパイセンに聞け!』でこのように言っていた。
 

 Q.ヒカルパイセンにとって、芸術とは?何だと思いますか?

 A.経験は人それぞれで、どんなにそっくりな体験をしたとしても二人の人間が同じ経験をすることはあり得ない。けど俺が感じるどんな感情も、人類初めての感情なわけがない。それが疎外感や孤独だったとしても、沢山の先人が同じ気持ちを味わったはず。今だって意外に身近なところで誰かが同じことを感じてるかもしれない。きっと誰かがもう、その気持ちを詩にしてる。小説にしてる。踊りにしてる。絵にしてる。歌にしてる。それが俺にとっての芸術。



 ひとが、わたしの気持ちはこうなんだと何らかの表現するのも、芸術、音楽、舞踏、芝居を尋ねることでわたしの気持ちを表現するものを見つけようとするのも、そうしなけれが解消されない孤独があるからだろう。

 なぜならば自分の知情意を何の齟齬もなくそのまま他者に伝えることができないからである。人の体験が自分の体験と全く同じで、自分が経験してきたことをそのまま誰かに経験させることができないからである。自分が想像したことをそのまま誰かに想像させることができないからである。もしそれが可能だったなら言葉も芸術も音楽も舞踏も芝居もVRも誕生しなかったであろう。

 私にも自分の知情意を表現したいという欲がある。少しでも誰かに伝わればいいし、誰かの知情意を知りたいと思う。だからブログなどを書いているわけだが、私は欲張ってはいない。伝わらないものは伝わらない、わからないものはわからないでいいと思う。

 しかし宇多田ヒカルは貪欲かもしれない。でなければ音楽はやってないだろう。こんなクリエイティブなアルバムはつくっていないだろう。




■『Fantôme』の続き

 ヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」では、理性の塊のようなハリーが相反する生き様の少女ヘルミーネに出会い生きる希望を取り戻す。その結末としてハリーは理性と本能の統合へと向かおうとするのだが、そうした出口は『Fantôme』には示されていない。『Fantôme』は、もう二度と会えない『桜流し』で終わるのである。これは主題が『Fantôme』であるからだろうが、歌謡曲は小説でも交響曲でもないから、一曲に起承転結の全てを詰め込むことはできない。歌謡曲は一曲、一話。4分−6分の中で描けるのはドラマの一話分だけだろう。『俺の彼女』、『荒野の狼』、『人魚』、『人生最高の日』、、、御伽噺の続きなんて誰も聴きたくないが、『Fantôme』の続きはみんなが聴きたいと思ってるのは言うまでもない。(寸)



Fant・me


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