2019年06月14日

「見える障害」と「見えない障害」 排他性によって守られる人々がいることについて

 電動車いすを使う医師の熊谷晋一郎(くまがや しんいちろう1977年昭和52年生まれ。専門は小児科学、当事者研究。東京大学先端科学技術研究センター准教授)は障害には「見える障害」と「見えない障害」があるという。(『ブレイクスルーへの思考』東京大学出版 2016年刊 p122-123)


 
大学で、医学部を選んだ理由は何だったのですか?

 (中略)

 人間を知りたいと思ったのですが、とくに私のように、体の違いが一目でわかる「見える障害」だけではなく、聴覚障害や発達障害のように、外見ではわからない「見えない障害」もあり、障害でもバリエーションがあることを知り、そこに関心をもつようになりました。
 大学一、二年のとき、耳の聞こえない人と一緒に活動していたんです。彼らと話していると、ときおり、言うことが私と正反対になるときがあるんですね。たとえば私が、「インクリュージョンといって、社会の中で、障害のある人もない人も対等に、一緒に過ごすのが大事なんだ」と言うと、聞こえない人は逆に、「いや、無理やり同じ社会で生かされることの苦しさをわかっていない」と言うんです。
 なぜこうした違いが生じるのかと疑問に思い、いろいろ話をしているうちに、外から見える障害と、見えない障害では、世間から逆向きの圧力が働くことに気付きました。見えやすい障害には排除の圧力が働き、外から見えない障害は違いを過小評価され、同調のほうに圧力が働く、その反作用として、主張も逆になることがあるのです。
 「違うのだ。一緒にしてくれるな」という主張と、「一緒にしなさい」という主張ですね。どちらも等身大の違いを認めろという点で同じですが、是正を求める反作用としては主張が正反対になる。こういうことが世の中にはあるんだということを知り、目からうろこが落ちました。衝撃を受けたと言ってもいいくらいです。
 私のような障害をもっていると、車いすの人だけで暮らす社会など想定不可能なんです。車いすの人だけでは生命を維持することができませんから、少なくとも介助者という、車いすでない人が必要です。ですから、私のように可視化されていて、なおかつ重たい障害の場合は、同じ身体的な特徴や同じ経験をもつ人だけで社会をつくるなんてことはありえない。最初からそういった排他的なコミュニケーションは構想されていないんです。
 ところが、私が一緒に活動していた耳の聞こえない人たちの世界観は、「私たちは、手話という、健聴者の音声言語とは異なる言語をもった、独自のコミュニティの住人なのだ」というもので、その排他性が私にとってはすごく新鮮でした。過剰な同調圧力に対しては、ある程度の排他性は必要不可欠だということを学びました。 
 世の中にはたくさんのそういう例があるんだろうな、同調圧力にさらされている人たちがいるだろうな、そうした人のレパートリーみたいなものを知ってみたいというのが、医学部を志した最初のモチベーションです。

posted by 駿喆咲道 at 23:38| 読書ノート | 更新情報をチェックする






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駿喆咲道@suntetusakudou

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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