2019年03月30日

愛するということ

 『愛するということ』(紀伊國屋書店刊 鈴木昌 訳)でエーリッヒ・フロムが『「愛するということ」とは何か』を端的に述べている箇所(p42~52)を以下に抜粋する。※無論、通読すべきなのは言うまでない。


 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。
与えるとはどういうことか。

 中略

 与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かちあうのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。とくに愛に限っていえば、こういうことになる-----
愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
 マルクスはこのことを次のようにみごとに表現している。「人間を人間とみなし、世界にたいする人間の関係を人間的な関係とみなせば、愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけしか交換できない。その他も同様である。芸術を楽しみたければ、芸術の修行を積んだ人間でなければならない。人びとに影響をおよぼしたいと思うなら、実際に他の人びとをほんとうに刺激し、影響をあたえられるような人物でなければならない。人間や自然にたいする君の関わり方はすべて、自分の意志の対象にふさわしいような、君の現実の、個人としての生の明確な表出でなければならない。もし人を愛してもその人の心に愛が生まれなかったとしたら、つまり、自分の愛が愛を生まないようなものだったら、また、愛する者としての生の表出によっても、愛される人間になれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である」。
 しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない。
 あらためて強調するまでもないが、与えるという意味で人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。
 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。

 中略
 
 愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。

 中略

 愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。

 中略

 尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。したがって尊敬には、人を利用するという意味はまったくない。私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。つまり、松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊敬することはできない。

 中略

 人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知識によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。いっぽう知識も、気づかいが動機でなければ、むなしい。他人に関する知識にはたくさんの層がある。愛の一側面としての知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。そうすれば、たとえば、相手が怒りを外にあらわにしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。だが、もっと深くその人を知れば、その人が不安にかられているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということがわかる。そうすれば、彼の怒りがもっと深いところにある何かのあらわれだということがわかり、彼のことを、怒っている人としてではなく、不安にかられ、狼狽し、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。
posted by 駿喆咲道 at 00:00| 読書ノート | 更新情報をチェックする






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駿喆咲道@suntetusakudou

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

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I produced this template on August 29,2017.


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