愛とは何か、人生の価値を実現した小林麻央さんの勇気と業績を讃えて(約4万4千字)

2017年07月21日

愛とは何か、人生の価値を実現した小林麻央さんの勇気と業績を讃えて(約4万4千字)

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■美しい人

 6月23日昼過ぎ、小林麻央さんの訃報を知った。

 私の父は小林麻耶さん、麻央さんのファンでよくテレビを見ていた。私もそうだ。血は争えないというかなんというか、テレビで見かけると心がパッと明るくなるのでよくチャンネルを合わせていた。しかし麻央さんは第一子妊娠出産によって、麻耶さんは昨年5月からテレビで見かけなくなり寂しく思っていた。だから麻央さんがブログを始めた時は嬉しく思ったが、しかしそれはがんという病気との闘いの記録であった。
 

 麻央さんは2016年9月1日の最初の日記『なりたい自分になる』でこう決意を表明している。



‘私は
力強く人生を歩んだ女性でありたいから
子供たちにとって強い母でありたいから

ブログという手段で
(がんの)陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました。


(中略)


子供に、

「いつも一緒にいられなくてごめんね。
何にもしてあげられなくてごめんね。」

と胸を痛めてるママがいたら、

あなただけでなく、私も同じです
と伝えたいです。’

(引用 http://ameblo.jp/maokobayashi0721/entry-12195698756.html


 この時、乳がんであると確定してから既に二年近く経過していた。麗禾ちゃんは3歳、勸玄くんは1歳だった。こどもたちのためにも、がんを必ず克服してやるんだという強い決意と同時に、同じ病気の人たちの支えになりたいという、その強さに私は感じいった。

 
 ロゴセラピー(実存分析)の提唱者で強制収容所での体験記『夜と霧』を綴ったV.E.フランクル(Viktor Emil Frankl、1905.3.26 - 1997.9.2)は「未来に私を待っている誰かがいること、未来に果たすべき責務があることを知っている人は苦悩に耐えることができる」と言う。だから私は信じた。麻央さんには回復を待っている人がたくさんいる。きっと奇跡を起こす!元気になって、本を書いて、公演をして、たくさんの人を勇気づける存在になる!と。麻耶さんも元気になる!と。


 その闘病と正直な気持ちを綴ったブログからは、夫の歌舞伎役者・市川海老蔵(十一代目)、こどもたち、姉の麻耶さん、、、幸せそうな家族の姿も伝わってくる。未婚こども無しの私とは住む世界が違うが憧憬を感じる。私の無意識のなかにも幸せな家族像があるのだろう。思えば麻央さんは『男はつらいよ』のマドンナ、坪内冬子(光本幸子 午前様の娘)のような、いいところのお嬢さんようだ。末っ子の愛らしさは満男の恋人・及川泉(後藤久美子)のようでもある。人の妻にこんなことをいうのも何だが、可憐で聡明で品があって気立てがよい癒してくれる女性はいつの時代も男の理想だろう。



 私は自宅で父を介護した経験がある。一ヶ月半ほどのことだが24時間つきっきりだった。在宅看護は受けていたが、週3回1回1時間程度のことである。ワンオペと言って良かった。だから摩耶さんが介護の心労から体調を崩したことは想像できる。また知人から伝え聞いたこと、本で読んだ知識がある。その経験と知識を持って私は、麻央さんと家族に共感し想像を膨らませた。もしも自分が海老蔵さんの立ち場だったらどうなのか、麻央さんが自分の妻だったらどうなのかと、日々ブログを読んだ。回復を祈り続けた。時にコメントをしていた。


 つまり私は一読者に過ぎなかったが、哀悼の意を込めて、ここに麻央さんの勇気と業績を讃えたいと思う。


 読者としては、ひとりのタレントの死として素通りすることはとてもできないのだ。否、これは私の自分勝手な想像の手記である。


私の体験をどんな形でも、活用してくれる方がいたら(9月6日『今後』)」というその言葉に甘えて、実存哲学の勉強に活用させてもらうことをどうか許してほしい。




■生き様を見せることこそ最高のプレゼント

 まず先に言っておきたい。麻央さんの闘病は美談ではない。国立がん研究センターの統計によれば、2014年にがんで亡くなった人は36万8,103人(男性21万8,397人、女性14万9,706人)いたという。またがんというのは罹る部位によって、発見時のステージ、年齢、体力、進行のスピードによって闘病のあり方は個々様々である。つまり麻央さんを、がん患者の標準としてみてはいけない。

 そもそも病気において標準モデルとなる患者などいないが、ドラマや映画はイメージを強く刷り込む。そんなことは、がん患者自身、そしてその家族や友人にはわかりきったことであろう。しかし、麻央さんの勇気あるブログが、がんに罹るということがどういうことなのかを私たちに教えてくれたのは紛れもない事実である。


 麻央さんは時に危篤状態になったこともあったという。手術、放射線、抗がん剤、献血、入退院の繰り返し・・・闘病生活はずっと綱渡りで本当に本当に苦しかったと思う。やせ衰えてままにならない傷のある体を観ては何度も諦めかけ涙を流したんだと思う。鎮痛剤が効かない時はその激痛にいっそ今すぐ死んでしまいたいと何度も自暴自棄になったんだと思う。2017年1月9日、日本テレビ「市川海老蔵に、ござりまする。」のインタビューで麻央さんが言っていた「誰かと共有し切れない苦しみ、どうしようもない思い」を家族にぶつけてしまったこともあったろう。しかし麻央さんはその言語に絶する苦痛に耐え抜いた。無理やりにでも気力を振り絞って飯を食べた。回復してもう一度、夫を支え、こどもたちを育て、いつまでも家族と一緒にいたかったから。

 その愛と意志の力にはただただ敬服し平伏するしかない。それは人間が到達できるもっとも高き頂きだったろうと思う。

 インタビュー部分 https://youtu.be/JFKwxCFtiXg

 「市川海老蔵に、ござりまする。」の中で海老蔵さんは長女の麗禾ちゃんの気持ちを「清算できない悲しさ」と表現していた。こどもなりに麻央さんの状況を感じていたのだろう。まだこどもだからうまく表現できないけど、雨の日に自分だけお母さんが迎えに来てくれないような寂しさをふと感じてしまうというのがなんとなくわかった。

 救いがあるとすればそれは、その寂しさはもしかしたら麻央さんが、がんによって経験している「誰かと共有し切れない苦しみ、どうしようない思い」と同じかもしれないということだ。

 5歳のこどもに「誰かと共有し切れない苦しみ、どうしようもない思い」を味合わせてしまうことは親として辛く忍びないだろう。しかしこの経験は麗禾ちゃんにとって決して意味のないことではない。この気持ちは大好きなママの気持ちと同じなのだ。恋愛に悩む年頃にもなれば、当時のママを思い出した時にきっと気づくだろう。それでもママは生き抜いたということに。そうならば、挫折や虚しさに襲われても、こどもたちは麻央さんを想う時、背筋がしゃんとする。ママの子としてその気持ちに応えるならば、勇気をもって、ちゃんと生きていける。愛には愛で報いる思いやりのある優しい人になる。


 V.E.フランクルは
『過去の中では何ものも決定的に失われず、すべては失われることなく守られている』
という。それはどういう意味か。


 米林宏昌監督のジブリ『思い出のマーニー』を観たことがあるだろうか。以下は私が書いた感想である。


 

思い出のマーニー [DVD]




 
 夫婦の愛、家族の愛は主観も客観も超えるものである。愛は自分たちにしかわからない紛れもない真実である。故人を想って泣くということはその人への最大の賛辞である。こどもの前で泣くことはその愛の絆の深さをこどもたちの心にしかと刻む。愛別離苦はそう簡単には癒えるものではない。エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross、1926.7.8 - 2004.8.24)の5段階モデル(死の受容モデル)は自分自身の死だけでなく、家族の死においても同様である。

・本当はまだ生きている、たまたま遠くにいて今は会えないだけだという死んだという事実の否認
・なぜ自分を遺して逝ってしまったのかという怒り
・もっとこうすればよかった、ああすればよかった、死んだのは自分のせいだという後悔
・あの人がいないのに生きていても意味がないという虚しさ
・わたしは幸せになる資格がない。自分の罪を苦痛によって贖わなければならないという自分を罰する取引
・忘れてしまうことの恐怖

 こういった気持ちを何度も逡巡した果てに受容できるようになるのが親しい人の死というものだ。心の痛みが癒えるのには共に生きた時間よりも長くかかる。

 確かに身体としてのその人は消滅してしまった。もう会話することはできない。触れることができない。思い出もいつかは忘れていく。しかし、その愛、真心、思い出、勇気は何も失われない。



 『思い出のマーニー』 2回目観た。一回目観た時は、前半で、えっ!?百合の話?妄想の友達?と思ったが後半、マーニーの正体が分かって涙した。ようは、杏奈の不思議な体験は物心もつかない幼い頃にマーニーグランマが話してくれたことであり、時空を超えた再会だったのだ。杏奈の視点は同時に祖父である和彦の記憶でもあったろう。マーニーは、ああやって、屋敷を抜けだしては、和彦とボートに乗り、小屋でデートしていたのだ。

 頼子に引き取られたことも偶然じゃない。杏奈の無意識がマーニーの記憶を留める湿地屋敷へと引き寄せるためだったのだ。養母の頼子は湿地屋敷のすぐ近くに住む大岩清正・セツ夫妻の血縁者だったわけだから。

 久子に出会ったのもそう。久子はマーニーの友達だった。マーニーの人生を知っていた。

 彩香に出会ったのもそう。彩香の一家が引っ越してきたのも偶然じゃない。家が人を選んだ。マーニーの記憶をもつ家が彩香を選んだ。好奇心旺盛な彩香なら日記をみつけられる→捨てない→日記は杏奈に渡される。そのために彩香の一家は招かれた。湿地屋敷に住むように。



 無意識が人を引き寄せる、家が人を引き寄せるというのは、別の言い方をすれば、


 あなたが忘れてしまっても思い出はあなたを忘れない


 あなたが忘れてしまっても死者はあなたを忘れない


 ということ。

                                       
 私とは誰か。私とは自分に繋がる命の歴史でもある。全てを覚えている命が親から子へと伝わり続けて私をしている。命は伝わり続ける限り決して死なない。

 過去とは移ろいやすさから守られたもっとも確かな時間であり変えることができない。私が過去を裁き、命を慈しまないとしても、過去は今の私を裁かず、命が私をすることを妨げない。無意識というのはいわば(先祖の記憶と自分の記憶+命)のこと。なぜ私は親に似ているのか。身体だけでなく性格や才能まで。命は記憶や性格や才能までも子に伝承している。身体は単なる生命ではなくて、自分に繋がる先祖の記憶を持つもの。もちろん全ての先祖の記憶を意識化することなどできない。なので(先祖の記憶と自分の記憶+命)をまとめて、ここでは身体的無意識と名付ける。身体的無意識は過去を忘れず、私を諦めない。最後の瞬間まで生きることを諦めない。種の保存のため、個の保存のため。

 だから人生に絶望する時、生きることを諦めてしまう時、身体的無意識は、私を救うために何度でも立ち現れる。杏奈が湿地屋敷まで導かれ、そこに記憶として存在していたマーニーに出会えたように。そしてマーニーこそが束の間暮らした祖母であったと思い出すことができたように。

 杏奈にとって幸運だったのは湿地屋敷も丘の上のサイロも残っていたことだ。身体的無意識の中のマーニーが過ごした場所だからこそ、湿地屋敷の記憶であるマーニーはリアリティを持って再現された。家などの空間が持つ記憶は時間的。マーニーは杏奈と同じ13歳の姿で現れたのは13歳当時、実際にそこで暮らしていたからだ。加えて精神的無意識となって杏奈を守っているマーニーの愛が、わたしはあなたの秘密の友達、つまり身体的無意識であり永遠の友達だと知ってほしかったから。杏奈と同じように悩み苦しみ生きた少女だったと知って欲しかったから。だから同い歳で現れなくてならなった。

 精神的無意識とは何かというと『あなたにあなたの果たすべき責任は何かを問い、あなたを絶対的に愛しているもの』。精神的無意識は、あなたがLife(自分の人生、命、生活、自分に関係のある人たち)から問いかけられている責務を果たそうとする時、誰かを責任を持って愛そうとする時に、意識化される。つまり意味への意志、愛への意志が無意識化されたもの。平たくいうと【良心】。杏奈はまだ13歳なので自らの意味への意志、愛への意志を無意識化させたのではなく、杏奈を愛するマーニー、両親、頼子によって与えられたもの。フロイトのいう抑圧によって生まれた衝動性のことでなく、精神性、責任性、良き心としての無意識。衝動としての無意識は時に意識されようとも自分すらも破壊するが、良心(精神性、責任性として無意識)は、自分がなすべきこと(愛、使命、創造)の「問いかけ」として意識で【気づくもの】。

 フランクルは良心を内在的なものではなく、【精神】という名の通り、人間の外に存在する自意識では捉えられない神【超越者】の声だとしている。私はここでは親から愛されることで成形される心、かつ自らの意味への意志、愛への意志によって発達するものと定義している。なお愛と感情は別次元のものである。愛は精神であり責任であり意志、感情は記憶に紐づく出来事への身体反応である。
 


 私が命を生きている、コギトエルゴスム、私が主体で世界があるという認識では、うまく生きられないと私は私を責めるばかりである。原因も責任も全てが自分に帰結するから。

 否、保護者の愛によって与えられた精神的無意識(良心)に導かれ、身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)が私を生きているのなら、生きることの主体は精神的無意識(良心)と身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)にある。私がこの私である原因も責任も精神的無意識(良心)と身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)にある。ならば社会の中でうまく生きられないとしてもそれは私のせいではない。

 だが親、精神的無意識(良心)、身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)が悪いわけではない。先祖の記憶体は過去の事例に似た状況には対応可能だろう。しかし時代は変わる。止めどなく変わる。昔うまくいったやり方が今もうまくいくとは限らない。それに親を選んで生まれることはできない。親にちゃんと愛されないと精神的無意識(良心、誰かを愛することができる心)は発達しない。災害、病気、老化、死別は普遍的自然現象であり、無論、精神的無意識(良心)、身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)によって支配されない。ましてや社会は権力者の都合で回っている。精神的無意識(良心)を持たない彼らは経済合理主義によって、人間を奴隷化するという浅ましい真似を強い、時には戦争まで始めるのだ。つまり、良心も先祖の記憶体も全てのことに対応できない。自意識(思考力、決断する意識)だってそうだろう。生きるということは全ては結局初めての経験なのである。対応できないことに原因、責任を求められるのはあんまりだ。


 私が主体的に観る自分や世界がどんなに虚無でも、このように視点を180度逆転すると保護者に愛さるということが精神的無意識(良心)となり、身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)が私をしているということが以下のように視覚化される。

 すなわち精神的無意識(良心)とはマーニーの両親と和彦がマーニーに抱いた愛であり、マーニーと和彦が絵美里に抱いた愛であり、マーニーと絵美里と父が杏奈に抱いた愛であるというふうに。

 身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)とは、杏奈が自分に抱いた感情、頼子に抱いた感情は、マーニーがマーニー自身に抱いた感情であり、母親に抱いた感情であり、絵美里が絵美里自身に抱いた感情であり、母マーニーに抱いた感情でもあるというふうに。

 このように人は意味への意志と愛の意志である精神的無意識と先祖の記憶を含む身体的無意識たちと同時に今ここで重層的に私を生きている。ならば私という存在は既に、ゆうに、主観を越えている。超意味(意味を越えるほどの意味)を持っている。そして世界は、その私たちを包摂している。ならば世界も超意味(意味を超えるほどの意味)を持っている。

 超意味を持つ世界で超意味を持つ精神的無意識(良心)と身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)が私をしている。そして精神的無意識(良心)、身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)は「あなたが好き(I love you)」だと私にいつも語りかけている。ならば私も世界も虚無であるはずがない。

 と同時に、身体的無意識は私が救わなければならないものである。私だけが救えるものである。13歳の杏奈が13のマーニー救われたように、13歳のマーニーも、13歳の杏奈に出会うことで救われた。杏奈は身体的無意識と久子によってマーニーの身の上を知り、同情し慰め抱きしめた。自分の生まれてきた理由、両親の交通事故死、マーニーが病気で亡くなった理由を知った。私は捨てられた子のではなかったのだ。誰のせいでもなかったのだ。それどころかマーニーは死してなお、自分を愛してくれていたのである。精神的無意識(良心、誰かを愛することができる心)となって。

 死者の愛は移ろいやすさから守られたもっとも確かな時間である、永遠である過去である。だから死者の愛は私に向けて届き続ける。私が生きている限り。杏奈はその主観を越える真実を生々しく湿地屋敷で知ることができた。だから杏奈はマーニーに許しを与えた。母・絵美里ができなかった許しを。絵美里に代わって許すことで。そのことを持って、早逝してしまった絵美里と父をも許すことで。

 その許しは身体的無意識のマーニーも和彦も絵美里も父も救ったのである。たとえ記憶にすぎないとしても、意識化され許しを与えるならば、その記憶は癒やされるのである。私を癒やしてくれるものになるのである。許すということは無論、愛である。

 自らが誰かを許すこと、愛することは精神的無意識(良心、誰かを愛することができる心)を自ら養うことである。精神的無意識(良心、誰かを愛することができる心)はただ与えられたものではなく、あなたが応えるべきものである。己れの主体的な愛の意識と意志によって。そうすることで、己れの主体的な愛の意識と意志は精神的無意識(良心、誰かを愛することができる心)を発達させ更新し続ける。


 なぜ生きるのか?人は人生の意味、生きる理由を求める。なぜならばそれを失うことは文字どおり私を虚無感で満たすからだ。愛されること、愛することは生きる意味、理由の最たるものであるのは、愛されるということは私という存在に無条件に意味と価値をもたらすからであり、愛するということはその人の存在に無条件に意味と価値を見出すことだからである。杏奈が実存的空虚の暗闇から脱することができたのは、まさに自分が愛されている存在であることを生々しく知ったからである。精神的無意識(良心)に導かれ、身体的無意識のマーニーと出会うことによって。そして杏奈は、精神的無意識からの「あなたのなすべき使命は何か?」という問いに、自分をこのように自覚した。「私はマーニーの愛に生きることで応えなければならない【責任存在】である」と。久子に頼子を「母です」と言えたのも、頼子の愛に、愛を返し、生きることで応えなければならない【責任存在】であると自らを自覚したからである。


 この物語を作者の妄想として楽しむだけで終わらせるのは勝手である。しかし、何か教訓を得ようと思うならば、もしもあなたが自分を愛される存在として認知できないのならば、誰か愛せばよい。あなたに保護者から与えられた精神的無意識がいくら幼稚でも、あなたが誰かを愛することを生きる理由とするならば、あなたの身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)はあなたの味方となる。あなたは、その愛する人の精神的無意識となる。その人に自身の存在の意味と価値を自覚させる。あなた自身も、愛することの徳によって、愛する者であるあなたの存在にも意味と価値があることが自覚される。

 畢竟、愛するとは任務である。こどもの命、教育への責任を果たすことが親の務めであるのは愛が任務だからだ。子への愛は親に課せられた果たすべき任務なのである。あなたの死後もあなたが子の精神的無意識(精神、責任、良心、誰かを愛する心)として永遠存在となるには、あなたが今ここで、この世で、子への愛を任務として実現する時だけである。マーニーが杏奈にしたように。

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 以前、宮崎駿は「この世界には生きる意味も価値もあると伝えたい」と言っていたが、ロゴセラピーに傾倒する私は『思い出のマーニー』をこのように受け取った。『思い出のマーニー』の監督は米林宏昌で、宮崎駿と高畑勲は口を出さなかったらしい。いくら天才でも後進の育成に失敗することはよくあるものだが、ジブリの意思(魂)は次世代へ受け継がれていくだろう。血の繋がりがなくても、思想や技術といった形で意思(魂)は伝えていくことができる。


 すなわち私とは、精神的無意識(精神、責任、良心、誰かを愛する心)+身体無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)、そして意思(魂、思想、知識、技術)の一時的な乗り物である。愛と記憶と意思を次代に伝えていくための。しかし乗り物にすぎないのではない。人間は快楽原理、無意識の衝動、エス、劣等感に操られているだけの人形なんかじゃない。私とは精神性、可能性、責任性としての自由意志を持った未来への創造者である。Life(人生、命、生活、関わる家族、友達・・・)から課せられた使命と愛という任務の遂行者である。過去たちの救済者である。

 身体無意識は私の恐怖の監督者などではないのだ。私の人生というこの唯一で一回性の、しばしコントロール不能な、この苦悩多きものに、私が「主体的にあろうとする時の強力な味方」なのだ。難しい仕事をする時の、音楽や芸術を創造する時の、誰かに対し善き伴侶、善き友であろうとする時の、誇り高くあろうとする時の。生きることを諦めてしまいたくなる時に立ち現れる。

 私たちは誰だって無数の先祖と、無数の先達とともに生きているのである。


 
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 以下は、私が、おーなり由子の『きれいな色とことば』の書評で書いたことである。


 
無意識は意識で思い出せないことも忘れていないし、似ているものは同じものという認識の仕方をする。理由もわからず懐かしくなったりせつなくなったり孤独を感じたりすることがあるけど、それは、目の前の状況が意識できない記憶と似ているというサインなんだと思う。

 たとえば、赤ちゃんにきゅんとするのは、自分が赤ちゃんの時に、おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん、おにちゃん、おねぇちゃんが、自分のことを「ああなんて可愛い!」と思って見つめていたから。自分では忘れてしまっているけれど、無意識は覚えているから、そうやって教えてくれるんだと思う。

 幼稚園の子だって、赤ちゃんかわいい!見せて!触らせて!っていうんだから、それは母性本能じゃないのだ。記憶なんだ。3、4歳までの全く記憶にない期間の自分に向けられた、妹、弟に向けられた、母、父、祖母、祖父の感情、眼差しを、今、私は赤ちゃん、ちいさい子に対して追体験している。彼らの眼差しが「赤ちゃんは可愛く愛しいもの」だったから、無意識の記憶が、今のわたしにも同じ気持ちを起こさせてる。

 そういうかたちで母、父、祖母、祖父の心は今の私とともに生きている。こども時代をどんどん忘れていくわけだけど、忘れてしまうのはまた出会うため、喜びを減らさないため、何度でもその心を感じたいがため。失くしたものを覚えているのは悲しくなるし、その悲しさえ感じなくさせてしまうから。

 香りを嗅ぐまではキンモクセイのこと忘れていたのだって、今年もやっぱり癒されるためだ。また、季節に、こども時代に、親しい人たちに出会うためには、また心を動かされるためには、傷を癒すためには、意識では忘れてなきゃいけない。

 だから忘れることを嫌わなくていいし、自分に許していいんだよ。

 これからも、夕焼けで、街角で、本の中で、あの日の自分にまた出会えるんだから。現在の自分や、今を一緒に生きている人や、これから出会う人を通して、いつもどこかで、あの日のあの子、あの人に出会えるんだから。何も失われてはいないんだ。

 自分の知情意を何の齟齬もなくそのまま他者に伝えることができて、人の体験が自分の体験と全く同じで、自分が経験してきたことをそのまま人に経験させることができる。もしこの世界がそうだったなら言葉も芸術も音楽も舞踏も芝居もVRも誕生しなかった。恋だって愛だってなかった。

 ひとが、わたしの気持ちはこうなんだと何らかの表現をする、芸術、音楽、舞踏、芝居を尋ねることでわたしの気持ちを表現するものを見つけようとするのは、そうしなければ解消されない孤独があるから。




 麻央さんをマーニーに重ねるなら、人は思い出を通して何度でも故人と出会うのならば、麻央さんはその闘病生活によって最高のプレゼントをこどもたちに遺したと言えるのではないか。わずか一月ほどでも最後は自宅で一緒に過ごせたのだから。こどもたちもその死を看取ったのだから。さよならをいうための日々をブログとしてI leave my love to you, I leave my existence to you,残こしたのだから。こどもたちにはママを振り返ることのできる思い出と記録があるのだ。

 ならば、麻央さんなら、こんな時どうするだろうか、なんと言うだろうかと、これからも対話することができる。もちろん、血を受け継いでいるこどもたちのなかに麻央さんをみつけることができる。

 それはつまり、麻央さんの愛、苦悩に耐える勇気、ユーモア、ブログ、その姿のすべてが、これからもこどもたちを育てていくということなのである。


 兎角、同じ屋根の下で共に暮らしていると、近すぎることでうっとうしくなったり、心が離れてしまったりすることがある。しかし、入院したり出張したり、物理的に離れる、会う時間が制約されることで、相手を思う気持ち、一緒に過ごす時間は自然と濃厚になるものだ。海老蔵さんは地方公演に行くと一ヶ月近く家を開けるという。子供たちは幼稚園に通っているから、その時は麻央さんは自宅にいただろう。普段からそういう日常だったことは寂しかっただろうが、元々あったその距離感だって家族の互いに思いやる気持ちを濃く優しく育んでいたに違いない。

 その気持ちと時間がそのまま相手へのプレゼントになるように家族と繋がれることはとても有意義なことだ。その思い出はこれから果実のように実っていくのだろう。一面に広がる秋の稲穂のように実り風に揺れるのだろう。愛してくれる存在として、愛する存在として、永遠に。
 
 
 もちろん、こどもたちを育てていくのは生きている家族の仕事だろう。海老蔵さんが担えない分は、麻耶さんが、もうひとりの母としてこどもたちを見守っていくんだろう。この世で麻央さんに一番似ているのは他でもない麻耶さんである。麻耶さんの中にも、こどもたちは麻央さんをみつけるだろう。

 友達もママ友も贔屓の人達だって陰に日向に見守ってくれるに違いない。250万人の読者達も。
 




■病気の陰に隠れない

 麻央さんの闘病生活が予期せずマスコミに暴かれたのは2016年6月のことだった。病気を世間に公表し、ブログを書き綴っていくことはとても勇気と気力がいったと思う。

 思えば麻央さんの職業はフリーキャスターだった。

 キャスターの仕事は公益性のある情報や事実を一般の人にわかりやすく伝えることであろうが、麻央さんがブログを通してやっていたことはまさにそれではないか。がんについて、闘病生活について、家族について、発信していくその姿はまさにキャスターではなかったか。


 ブログを始めた麻央さんに私は勝手に期待していた。病気を憎まないことを。病気は人を世間と義務と忙しさから解放し、不要な価値観、不要な人間関係、不要な欲望と執着に気づかせ、多くの気づきとやり直す機会と休む機会を与え、ペルソナを剥ぎ取り、人間性を気高くするのだから。もし病気から逃げず、病気が引き換えに与えてくれるものを受けとるならば。それこそが人生が私たちに要請していることでもあるのだから。

 もちろん、麻央さんには私の期待など最初から最後まで杞憂に過ぎなかったが。

 病気や介護と無縁な人はいない。しかし、病気や障害や老いを恥ずかしいこと、忌むものとして、自宅や施設などに押し込められ隠される風潮が残念ながら日本にはある。それは家族などによる本人への配慮としての一面はある。病気の人は疲れやすい。人に気を使えるほどの元気がない。なら疲れないように気遣うのが優しさというものだ。しかし一方で、労働だ納税だ投票だと何もしないことを許さない「他人の眼差し」、偏見や憐れみという「他人の眼差し」を気にしてのことでもあろう。

 麻央さんも元々はそうした「他人の眼差し」を気にして隠れるように闘病生活を送っていたという。2016年11月に、英国放送協会 (BBC) の今年の100人の女性に選ばれた際に同協会ウェブサイトに寄せた手記でこう語っている。



‘2年前、32歳の時に、私は乳癌であることを宣告されました。娘は3歳、息子はまだ1歳でした。

「治療をして癌が治れば、元の自分に戻れるのだから、大丈夫!」と思っていました。

けれど、そんなに簡単ではありませんでした。

今も、私の身体は、がんと共にあります。

私は、テレビに出る仕事をしていました。

病のイメージをもたれることや弱い姿を見せることには「怖れ」がありました。

なので、当時、私は病気を隠すことを選びました。

隠れるように病院へ通い、周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。’

(引用 http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955


 そんな麻央さんに文字通り実存的転換をもたらしたのは緩和ケアの医師に言われた「がんの陰に隠れないで!」という言葉だったという。麻央さんは気づいたのだ。がんの陰に隠れることで失っているものがあることを。



‘1年8か月、そんな毎日を続けていたある日、

緩和ケアの先生の言葉が、私の心を変えてくれました。

「がんの陰に隠れないで!」

私は気がつきました。

元の自分に戻りたいと思っていながら、

私は、陰の方に陰の方に、望んでいる自分とは

かけ離れた自分になってしまっていたことに。

何かの罰で病気になったわけでもないのに、

私は自分自身を責め、それまでと同じように

生活できないことに、「失格」の烙印を押し、

苦しみの陰に隠れ続けていたのです。’

(引用 http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955


 さらに麻央さんは心の苦の原因が仏教のいう執着(こだわり)であることにも気づく。執着とは欲望への耽溺(依存)、嫉妬や憎しみに憑依される如く人間の心を無くしてしまうこと、無くしたものへの強烈な思慕(事実否認)だけをいうのではない。「これ(犠牲)がないと、これ(欲しいもの)が得られない、これ(犠牲)をすれば、これ(死)を避けられる」という幻想の信念(取引、因果関係の誤謬)もそうである。9月4日の公式ブログ『解放』にはこうある。



‘私は痛み止めを飲むのが嫌で、


でも、癌の痛みで
限界を感じて、ようやくようやく
薬を飲んだとき、

身体の痛みが和らいで、
なんだかわからないけれど、

「許されていく 」感覚がしたのです。

そのときの
痛みから 解放されていく
「 和らぎ 」が今でも忘れられません。


思ったのです。


何で頑なに
こんなに自分を苦しめる必要が
あったのだろう。

私、悪いことしたから病気になった
わけでもないのに、
なんで勝手に罰みたいに
苦しんでいたのだろう。


不思議なもので、
あんなに苦しんだ痛みは
少しずつ忘れたけれど、

あのときの、
痛みから解放されていく感覚は
きっと一生忘れません。


それほどの意味もないのに、
それほどの理由もないのに、
自分を許さないなんて
あまりに自分に対して可哀想だったと
思います。

(引用 http://ameblo.jp/maokobayashi0721/entry-12196624428.html
 

 悪いことをしたから罰として病気になったのではないか?ならば罰として癌の痛みを受け入れよう。そうすれば神様は許してくれる。癌を治してくれる。

 自分や身近な人が重い病気などで死を意識せざるを得なくなると、人間は心のどこかにこのような「罪悪感」と「賭ける気持ち」が生じる。もちろん悪いことをしたから罰として病気になるという思考は幻想であるから、自分を責めても意味はない。痛みに耐えても奇跡は起こらない。

 こうした思考は、いわばスピリチュアルやカルトのいう因果応報と同じである。原因(神に対して罪に当たる言動、神が定めた法を犯す言動)が、病気や不幸といった結果をもたらすというフレームである。原因(神へ許しを請うための謝罪、償い)によって奇跡という結果を得ようとするフレームである。


 恐怖や激痛や死といった俄には受容できない事態は日頃どんなに健全な精神の人であっても正常な判断を失なわせるものである。

 幽霊が出るという噂の真夜中の廃病院に独りで取り残されて平然としていられるだろうか?念仏を唱えてしまうのではないか?

 目の前で交通事故を目撃してスルーできるだろうか?被害者の回復を祈るのではないか?

 知らない土地で大地震で大惨事が起きている報せがあったら?地元の人達の無事を祈るのではないか?

 通り魔事件があったら?犯人に天罰が下るように呪うのではないか?

 
 事件、事故、災害、病気、死、恐怖、恨み、、、ひとりでは受容できない事態は、因果応報という原始的な思考を発動させてしまう。信賞必罰な神を信じさせてしまう。人間というのは昔からそうしてきたのだ。そうすることで‘一時的’に心の安定を保つために。
 



■愛はあるがままの依存関係

 麻央さんは完璧な母であることにおいても執着があった。「完璧な母でなければ、こどもたちを幸せにできない」というやはり事実とは異なる信念があったからである。



‘私は、全て自分が手をかけないと

気が済まなくて、

全て全てやるのが母親だと

強くこだわっていました。

それが私の理想の母親像でした。

けれど、

病気になって、

全て全てどころか、

全くできなくなり、

終いには、入院生活で、

子供たちと完全に離れてしまいました。

自分の心身を苦しめたまでの

こだわりは

失ってみると、

それほどの犠牲をはたく意味のある

こだわり(理想)ではなかったことに

気づきました。’

(引用 http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955


 重い病気で入院ということになれば誰だって、善き配偶者であること、善き親であること、仕事を手放すことになる。それにより麻央さんは自分の妻としての、母としての、存在意義を失うのが怖かったのだろう。しかし妻であること、母であることは『役割』にすぎない。人の基本価値は期待される『役割』を上手にこなすことで生じるものではない。こなさないことで無に帰するものではない。人の命の価値は何をしなくてもある。人は皆‘ただ生きている’だけで無条件に価値があるのである。どんな悪人であれその命には価値があるのである。無論、悪は裁かれるが。

 それが命というものであり、それ以上の理由はない。

 そして愛もまた、その人は存在しているだけで価値があるという存在のまるごとの無条件さの中にある。

 小学生の頃(1980年代)、私は重度の小児脳性麻痺の人に会ったことがある。うららかな日、障害児支援施設の近くの公園でストレッチャー型の車椅子に乗ったその人の傍らには、母親が寄り添っていた。その頃、社会の授業で水俣病について学んでいた私は、無邪気にも母親に聞いた。この人は水俣病なのかと。すると母親は小児麻痺という病気について説明し、こう言った。「話せなくても、こちらから話しかけることはわかる」と。

 だから私は「こんにちわ」と話しかけた。別段、反応はなかった。全く動けない人だった。あー、とも、うー、とも言えない人だった。この身体には魂が宿っているんだろうか?正直わからなかった。でも握ったその手には確かに血の通った温もりがあった。彼は間違いなく生きていた。

「話せなくても、こちらから話しかけることはわかる」。それはきっと親子だからわかる感覚であり、真実、すなわち主観を越える主観、客観的事実を超える意味(己れの心でしか味わえないもの)なのだと思う。そして彼は母親にとって、生きる理由である。愛すべき人である。母親にとって彼は‘ただ生きている’だけで疑いなく無条件に価値があるからだ。母親は、彼の障害が彼の命の価値を無にすることは決してできないことを知っている。


 愛とは、あなたは私の大事な人、特別な人、必要な人という感情を越えた意味をもつ価値である。それはなぜかといえば、一緒にいたい人、一緒にいないと寂しい人だから。

 期待に応えてくれるから、期待に応えたいからではない。

 元気をくれるから、元気にしたいからでもない。

 愛とは、その人が何をしてくれるわけでもなく、その人に何をしてあげるわけでもなく人としてその存在をあるがままに認めること。

 つまり、赤ちゃんへのそれと同じだ。赤ちゃんに役割を求めるか?家事をしてもらいたいか?肩揉んでもらいたいか?夜泣きしない、なんでもモノを口に入れない、ごはんをこぼさず喜んで残さず食べてくれる、まったく手のかからない子であったほうがいいか?

 どんなにいやいやされも、夜泣きで毎日睡眠不足でも、延々おっぱいに吸い付いて離れなくても、いたずらをして部屋を汚されても、どんなにいらいらしたって、結局は可愛くてしょうがないのが赤ちゃんだろう?

 「ああなんて可愛い!」という気持ちは、ただあるがままにあるだけの赤ちゃんに向けられているはずだ。ただすやすやと寝ているだけでも可愛いではないか。

 人は‘ただ生きている’だけで無条件に価値がある。いかなる役割をこなさなくても‘ただ生きている’その人を愛することができる。意志疎通がままならなくても。それが究極の本物の愛ではないか。

 愛は相手への期待のこもった、自分に有用な、自分のエゴに都合のいい、そういう存在になることを強いるものではない。逆もしかり、自分への期待のこもった、相手にとって有用な、相手のエゴに都合のいい、そういう存在になることを選ぶことではない。


 愛の関係は互いに有用な役割を与え合いこなしあうことではなくて、相手をあるがままに受容しながらも、相手に合わせることはなく、自分もあるがままでいられることが愛である。わたしはわたしのあるがまま、あなたはあなたのあるがままでいられることが愛である。食べ物、性格、価値観、趣味、、、相手に合わせて同化することではないのだ。それは存在の自殺である。あなたがあなたである理由、意味、価値は、あなたがあるがままのあなたであることだけである。如何なる不一致も病気も障害も出自も痛みも欠点も謎も不可思議も何もかもひっくるめて、その人をあるがままに受け入れられる、受け入れてもらえるのが愛である。

 
 愛の関係は相互依存である。愛は彼なくば我もなく、我なくば彼もなく、我と彼とかが、お互いの存在(existence)にあまりあるほどの意味を自覚し合うものである。

愛はアイドルとファンのような期待(expedient)に応え合う関係とは違う。相手の期待に応える存在となることは、依存と失意をもたらす。なぜならば、期待は応えられないこと、応えてもらえないことがあるからだ。期待に基づく関係がうまくいくのは期待に応えられている時だけである。give&take,trade of,は一方が得をして一方が損している。自分の損失は相手の期待に応えたせいであり、相手が私に与えた損失は相手が補償しなければならない。期待に応えてもらうほうは得をするが、期待に応えるほうは必ず何か犠牲にしている。金、時間、体力、プライド・・・奪うと奪われるは、奪われるほうの資源が尽きたら終わる。アイドルとファン、キャバ嬢と客、ホストと客、愛人……利益で結ばれた関係は、みんな金の切れ目は縁の切れ目である。命の終わりが縁の切れ目である。最近は、配偶者が亡くなると相手の実家と縁を切るという死後離婚というのがあるそうだが、離婚は役割、期待を押し付け合う関係だったのである。友との絶縁も役割、期待の関係が裏切られた時に起こる。復讐心とは愛が憎しみに変わったものではない。憎しみは自分の勝手な期待が裏切られたことにより生じるものである。


 ●期待に基づく関係
  お互いの損得は等価でなければならない。私はあなたの商品・サービスを1万円で買ったのだから、
  あなたも私の商品・サービスを一万円で買わなければフェアではない。
  フェアトレードが成り立たないのならその関係は解消すべきである。


 
 このように人間関係を販売者であり消費者でもある者同士による相互関係と定義するような思考は経済優先社会ではむしろ当たり前なんだろうか。独りでやる介護の辛さ、育児の辛さは確かにワンオペブラック労働と言っていいほど過酷である。しかし赤ちゃんに、病人に、高齢者に相応の見返りを求めるか?

 赤ちゃん、病人、高齢者は損得等価の期待関係から解放されていい者、否、断じて巻き込んではいけない者である。引きこもりやニートは損得等価の期待関係に挫折し、自分に社会不適応者の烙印を押した社会を嫌悪し、逃避している者である。

 
 断じていうが、私は道具ではない、あなたも道具ではない。私はドラえもんではない、あなたもドラえもんではない。


 損得等価の期待関係で今まで一度も挫折を経験していない者は健康で経済的合理的人間だけだろう。無論、私は何度も挫折している。
 

 愛とはその人の役割や能力に向けられたものではないのである。否、役割や能力に向けることができないものである。愛は、自分になんらかの利益を与えてくれる存在かどうか、健康状態に関わらず、生存すら問わず、我に生きる理由を付与する献身したい存在へと向けられるものである。だから愛する心を持つ者は辛かろうが、子育てができる。介護ができる。


 麻央さんの家族もそのように麻央さんへ愛を注いでいたのではないか。家族は、完璧な妻としての麻央さん、完璧な母としての麻央さんを愛してきたのではなく、他の誰でもない素の麻央さん、あるがままの麻央さんを愛してきたのだ。こどもたちにとっても麻央さんは「まおちゃん」だったではないか。

 麻央さんだって、家族を『役割』で愛してきたわけではないはずだ。海老蔵さんのあるがままを、麗禾ちゃんのあるがままを、勸玄くんのあるがままを、麻耶さんのあるがままを、両家の父のあるがままを、両家の母のあるがままを愛してきたはずだ。

 病気であることは、妻であること、母であることと同様に、人の価値を決めることはない。だから病気は家族の関係を何も変えなかった。愛は、役割も仕事も地位も名誉も財産も心配も反省も意味づけも正しさも責任も恨みも明日のゆくえも全部手放しても去っていかないものである。何があろうと夫には妻は妻であり、子には母は母である。愛は、いつも誰かから差し伸べられている救いの手、許しのことである。家族とは、助けを求めていいもの、心配をかけていいもの、抱きしめてくれるもののことだ。




‘家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、

私を妻として、母として、以前と同じく、

認め、信じ、愛してくれていました。

私は、そんな家族のために、

誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。

私は、闘病をBlogで公表し、

自ら、日向に出る決心をしました。

すると、たくさんの方が共感し、

私のために祈ってくれました。

そして、苦しみに向き合い、乗り越えたそれぞれの人生の経験を、

(コメント欄を通して)

教えてくれました。

私が怖れていた世界は、優しさと愛に

溢れていました。

今、100万人以上の読者の方と繋がっています。’

(引用 http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955) 




■愛するとはあなたに課せられた任務である。献身によって実現される責任の遂行である。

 すなわち、愛はその人の期待【エゴ】に添う(meet a person's expectations)ではなく、その人の現実存在【あるがまま】に添う(meet a person's existence)ことである。私もあるがままで(I meet my existence)。


 meet:添う、出会う、知り合いになる、応じる、満たす、達成する、経験する、直視する


 existence:現実存在(他人との関係を前提とせず今ここに現に肉体を持って存在しているこの生々しい私)。精神的無意識(精神、責任、良心、誰かの愛する心、意識されている時は意味への意志、愛への意志)+身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命、意識されている時は思い出、感情、知識、技術)も当然含まれるが、通常、すべては渾然一体としていて止めどなく流動した分解できない一つの人格である。



 ただし、愛にはただひとつだけ揺るぎない期待がある。それは「生きていてほしい」という願いだ。否、期待というよりは要請(request)だ。これだけは願うことが許されるものである。これだけは応えなければならないものである。なぜならば愛とは生きて全うしなければならない責任を伴うものだからだ。


 愛は役割や能力に向けることができないというのは、愛すること、愛されることは、己れの役割や能力にも、相手の役割や能力にも、全く依存しないからである。愛することは、いかなる役割や能力を持たなくても実現できるものである。つまり自己超越だ。自己の能力、身体条件、年齢、性別、性格、経歴、好き嫌いに依拠しない。それらに全く縛れることのない精神である。精神は己れに意識されない時は無意識のままである。ゆえにこれを精神的無意識と名づける。精神的無意識とは愛されることによって育まれた良心、誰かを愛することができる心、誰かを愛することによって発達する愛への意志である。フラクルとは違う解釈だが、これにより私は、重度の小児脳性麻痺の彼にも疑いなく精神的無意識(精神、責任、良心、誰かを愛する心)を認めることができる。私は彼に対した時、こどもながらとても敬虔な気持ちになった。それは彼がまさに母に愛されている存在であり、そのことによって彼の精神的無意識は聖人の如きだったからではないか。

 彼にとって生きる理由はなんであるか。それは自分を愛し、献身してくれる母だろう。彼もまた生かされることで母に献身しているのではないか。口も聞けず寝ているしかないとしても、それが彼の母への献身なのではないか。認知症の人も同様に想像できないか。介護してくれる家族のことすら忘れてしまうことが、そのまま、配偶者、こどもら、孫らへの献身なのだ、と。


 献身とはentrust(信じて託す、預ける、任せる)である。

 
 親としてのあなたの愛は、こどもらの命を預かるという献身として課せられる。

 介護者としてのあなたの愛は、被介護者の命を預かるという献身として課せられる。

 こどもらからのあなたへの愛は、あなたに命を任せるという献身として課せられる。

 被介護者の愛は、あなたに命を任せるという献身として課せられる。



 すなわち愛とは、execute a mission,誰かからあなたに向け課せられた責任(mission)であり、その遂行(execute)なのである。その責任を果たせるかどうかは状況によるだろう。戦争が始まったり、大災害があれば離れ離れで所在さえわからなくなることもある。しかし、その責任をたとえ果たせなくても、愛において結果にだけ焦点を合わせてはいけない。課せられた責任を全うしようという‘意志’こそ愛なのだ。愛とは意志なのである。献身とは、自己を超越し、自らを誰かに向けて明け渡そうとする意志のことなのである。
 
 こどもはなぜ子犬や子猫を拾ってきてしまうのか?世話をする能力もないのに。それは同情ではない。同情というのは、自分と同じ、苦悩を抱えた者にするものだ。だから同情というのは必ずしも悪いことではない。忌むべきなのは偏見で人の境涯を勝手に不幸だなんだと決めつける「蔑み」である。

 こどもが子犬や子猫を拾ってきてしまうのはひとえに愛を知っているからである。己れの精神的無意識(良心)が、愛への意志が、応答するからである。命を任せるべき献身できる親のない子犬や子猫から、命を預かる献身という責務を授かるからである。どうせなら大人に拾われたほうがいいに決まっているが、それは損得勘定の肥大した人間の分別というものだ。生存本能の発達した動物は、その人間が大人かこどもかなどと問わない。愛を知る者であれば、人間のこどもでも自らを任せるべきものとして見るのである。

 ならば愛に応答できるこどもを叱ってはいない。頭ごなしに捨ててこいなどと言ってはいけないのは言うまでもない。親が病気になった時もそうである。こどもを愛するなら、あなたは自らの存在をそのこどもに預けなければならない。病気の自分を見せること、死にゆく様を見せること、それが病床できるあなたの責任の果たし方である。こどもを混乱させたくない、悲しませたくないという気持ちももちろん愛だ。しかし、それは麻央さんがいうように病気の陰に隠れることだ。死の陰に隠れることだ。こどもを嘘に隠してしまうことだ。一緒にいたいという純粋な気持ちを殺してしまうことだ。こどもからのあなたへの愛の拒絶だ。隠れることはなんら責任の遂行にならないのである。


 愛はその人の期待【エゴ】に添う(meet a person's expectations)ではなく、その人の現実存在【あるがまま】に添う(meet a person's existence)ことである。私もあるがままで(I meet my existence)。


 愛は生きていてほしいという要請(request)に応えること。

 
 愛は私を、その人に、信じて託す(entrust)こと。


 愛はその人を、私が責任を持って預かる(entrust)こと。

 
 
 
 それは病める時も、健やかなる時も、死にゆく時にさえも。愛は自己に献身する能力があろうがなかろうが、相手の現実存在に添い、責任を持って預かること、相手に自分の現実存在を信託することをあなたに課している。ゆえに愛があなたに要請している「生きていてほしい」という願いに、あなたは命をかけて応答しなければならないのである。


 麻央さんは実際にそれをやってのけた。家族の愛に答えたのだ。苦悩に耐えることによって。がんの陰に隠れず、ブログを通して自らの体験を誰かのために明け渡すことによって。すなわち自己(の能力、病状、寿命)を超越することによって。

 それは麻央さん自身の強さではない。麻央さんが特別な人だったからではない。愛とは、事件、事故、災害、病気、死、恐怖、恨み、、、ひとりでは受容できない事態、それが死であっても、と向き合う勇気、生き抜く気力をもたらすものである。家族の愛が、家族を愛することが、麻央さんに家族に命を信託するという献身を遂行させたのである。余命宣告をゆうに越えて生きさせたのである。病気は確かに健康を奪う。しかし愛までは奪えない。いやむしろ、苦悩に耐える時、使命を遂行する時、愛とは何か、愛自身がその実在を証明するのである。
 




■対他存在から対自存在へ
 
 ヘーゲル現象学には対自存在(Fürsichsein:being-for-itself)、対他存在(Sein für ein Anderes:being-for-others)という一対の概念がある。対自存在とは『主体性をもって世界や他者に関係する存在。名付けて対自分存在、略して対自存在』のことである。平たく言えば、自らの在り方と人生を他人の意思意志に左右されずに自らの意思意志で選択する者のことである。

 対他存在というのはその逆で、『他人の主観によって他人の中につくられる自己のイメージ、他人から~のように見られている私』を私とすることである。

 つまり対他存在としての私は他人の頭の中に存在しているが、「彼の眼差し」に見つめられた時には、私によって発見されるものである。

 たとえばあなたがホテルの部屋でひとりで裸でヘッドホンをしながら歌って踊り狂っていたとしよう。その姿を偶然、見も知らぬ他人である掃除のおばちゃんが気づかずに部屋に入って来て見てしまい、目が合う。するとそのおばちゃんはあなたをキチガイだと判断した。あなたはそのまなざしを感じて自分を恥じた。

 こういう出来事があった時、ではなぜ、裸でヘッドホンをしながら歌って踊り狂っているのを他人に見られるのを恥ずかしいと思うのか?

 その理由は、あなたが、その時、その他人にとっては今、自分が「キチガイ」として存在していることを認めたからだ。このように他人に関係されることで自分が主体性を失い、他人の眼差しによってのみ存在する在り様を対他人存在、略して対他存在というわけである。

 ではこの時、もし他人の眼差しを恥じなかったとしたら?

 むしろあえてちょうどいいところに人が来たから、「ヘイ、ブラザー、トゥゲザーしよぜ!」と誘うくらいだったら、あなたは対他存在にはなっていない。なぜなら主体性が自分の側にあって相手に積極的に関わろうという意志を保ったままだからだ。この時、あなたは他人のキチガイという眼差しを感知せず、自分勝手におばちゃんを一緒に踊りを楽しむ相手として見たのであり、あなたは世界や他者に「関係している存在」として存在している。つまり世界や他者に対する自分存在、略して対自存在である。


 ●世界や他者から関係される存在としての私=対他存在。矢印は世界から私に向かっている。

 ●世界や他者に関係している存在としての私=対自存在。矢印は私から世界へ向かっている。


 実存哲学者のサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905.6.21 - 1980.4.15)はこの概念を、鍵穴から女を覗く男が他者から目撃される状況で説明している。男が鍵穴から女を覗いている時、男は女に秘密裏に関係している存在としてのみ、つまり対自存在として存在しているが、その姿を他者から見られた途端、変態へと転落する。欲望のままに覗きをしているその時に他人から目撃される、つまりこの変態野郎!という眼差しで関係されることで、我に帰って自らを恥じた私は、変態男という対他存在になるというわけだ。

 他人の眼差しは自己を貶めることばかりに働くわけではないので、もうひとつ例を出そう。一軒家の火事があって、こどもがベランダに取り残されている。消防隊はまだ来ない。そこに居合わせた助平さんが頭から水をかぶり濡れたタオルでほっかむりをして果敢にも火の中に突進した。そして怖がるこどもを抱えてベランダから地面へと飛び降りた!

 このようなことがあったら、助平さんはギャラリーによってヒーローという対他存在になるのは自明だろう。もし助平さんが本当はどうしようもないバカで目立ちたがりな奴だったとしても、その時、現場にいた人に見られているのは火事からこどもを助けたという状況のみである。仮に現在、助平さんから迷惑を被っている人がこの出来事を見ていたとしたら、助平さんの人間性を見直すかもしれないが、生まれきってのバカ、目立ちたがりというレッテルを撤回することはないだろう。つまり見ている人によって、その時、その時で、人は対他存在となるのである。


 ではあなた自身は対自存在だろうか?対他存在だろうか?他人の眼差しに見つめられ対他存在にならないでいられているだろうか?

 男の眼差し、とりわけ助平さんからの性的対象としてしか見てこない、若さと美しさにしか価値がないという、女はバカで可愛いいだけでいいという、セックスのできる家政婦として隷属して欲しいという、諸々の人権を無視した眼差しに、FUCK YOUの眼差しをちゃんと返せているだろうか?

 否、むしろ、他人の中に、対他存在として『可愛い私』として存在することを自ら欲していないか?

 モテテク、女子力、自分磨き、オシャレ、自分撮り、インスタグラム・・・


 あなたは一体誰なのか?

 
 誰になろうとしているか?



 ここ10年ほどで日本でも多様性社会ということが言われ出したが、それはLGBTであるなら古くはドイツ出身の女優で歌手のマレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich、1901.12.17-1992.5.6)という対自存在、最近ならレディー・ガガを筆頭に海外セレブの当事者たちが自ら表に出て声を挙げたからである。日本でも乙武洋匡という当事者が、ともすればマイノリティの存在を末梢しようとする社会の中で「私はこのようにして生まれた!私はここにいる!」と声を挙げたからである。その結果、勇気ある彼らの後を追う者、彼らの存在を偏見なく認める者が増えたからである。

 これは対他存在、『他人の主観によって他人の中につくられる自己のイメージ、他人から~のように見られている私』を私としないことだ。偏見で他人に関係されることで自分が主体性を失い、他人の眼差しによってのみ存在することへの拒否だ。

 自ら対自存在であることを選んだのは、麻央さんもそうではないか。『まだ34歳の若さで、可哀想に』、『小さな子供を残して、可哀想に』という、がんになるのは不幸でしかないという他人が投げかける眼差しの中で、麻央さんはこう言ったのである。



‘人の死は、病気であるかにかかわらず、

いつ訪れるか分かりません。

例えば、私が今死んだら、

人はどう思うでしょうか。

「まだ34歳の若さで、可哀想に」

「小さな子供を残して、可哀想に」

でしょうか??

私は、そんなふうには思われたくありません。

なぜなら、病気になったことが

私の人生を代表する出来事ではないからです。

私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、

愛する人に出会い、

2人の宝物を授かり、家族に愛され、

愛した、色どり豊かな人生だからです。

だから、

与えられた時間を、病気の色だけに

支配されることは、やめました。

なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。

だって、人生は一度きりだから。’



 私の人生という唯一の一回性のものに対して、しばしコントロール不能な、この苦悩多きものに対して、それでも生きることにイエスと言い続けた麻央さんの誇り高き日々がオフィシャルブログ「KOKORO.」には綴られている。

 ブログは人からインタビューされるのと違って、自分で自分を取材し、構成校正しないといけないので大変だったろう。ましてや病身だったのである。だが書くことは自身の人生すら越えた色どり豊かな意味をも生み出していたと思う。まさに生き抜いた証であるし、多くの人を励まし勇気づけたではないか。いや、私たちにこれからもずっと励ましと勇気を与え続けていくではないか。

 読者の数とその慈愛に満ちた日々のコメントの数々がそれを証明している。もちろん、それは麻央さんの人柄と、これまでの仕事の業績があるからだ。誰も知らない一般人では、このような形で社会と繋がって無数の見ず知らずの人たちから愛を贈られるということはなかったであろう。

 その一方で、日本のインタネーットは炎上!炎上!とかまびすしい。有名人が不倫や不祥事を起こすと謝罪しろ!辞職しろ!の大合唱になるのは、有名人というのは嫌がおうでも耳目を集めるからだが、加えて一般の人は有名人に対して、社会に対して規範となるべき責務があると信ずる証左でもあろう。麻央さんが250万人の読者に恵まれたのもだからこそだろう。

 有名人に社会に対して規範となるべき責務があるかないかは、その人の自由意志であろうが、私は求めたい。社会に対して模範となること。正確にはお行儀の良い人としてではなく、対自存在(他人との関わり方としての自分)=現実存在(他人との関係を前提とせず今ここに現に肉体を持って存在している生々しいこの私】として、模範となることを求めたい。LGBTを告白した海外セレブ達のように。ヒトラーの招待を拒み、ナチスを非難して「国家の敵」として烙印を押されても意志を曲げなかったマレーネ・ディートリヒのように。


 大衆に対して単に好感度の高い対他存在になることで人気の者は、バケの皮が剥がれた時に失墜するのみである。大好きな彼に対して彼好みの対他存在を演じる者は、バケ皮が剥がれた時・・・・・・

 そもそもお互いに現実存在【あるがまま】でいられない関係など長続きするものではない。子が親を煙たがるのは、親が子の現実存在【あるがまま】に添うことせず、自分勝手な期待【エゴ】でもって子を対他存在としてしかその存在を認めようとしないからである。親の眼差しとしての、世間の眼差しとしての、対他存在から逃れ対自存在であろうとすることはteenの特権などではない。現実存在【あるがまま】は自分が高齢者であっても、病気であっても、親が相手でも、彼氏が相手でも、政府が相手でも、軍隊が相手でも戦って守るべきものである。


 しかし戦って守ろうにもにっちもさっちも行かない現実がある。一般の人の声は国会の前を埋め尽くすデモとなっても政治には届かないということを2011年から嫌というほどずっと見てきた。それは今に始まったことではないが、やはり政治というものには失望せざるを得ない。

 しかし有名な人には、ともすれば権力者とつながる人脈がある。政治とは関係なく社会を変えるネットワークを築ける経済力と能力がある。私は日本テレビの24時間テレビを否定しない。感動ポルノだろうとなんだろうと知るきっかけになるものならなんでも構わない。流行をつくるのは政治ではない。人の心を動かすのは政治ではない。どちらもセレブ、役者、歌手といった時代のアイコンとなるインフルエンサーだ。有名になることでプライバシーを失うという犠牲を払っていることは百も承知だが、病気、差別、貧困、戦争のないよりよい平和な世界のために、有名人には、ぜひ勇気の声を上げてほしいと思う。

 対自存在(他人との関わり方としての自分)=現実存在(他人との関係を前提とせず今ここに現に肉体を持って存在している生々しい私)として、当事者として声をあげることは、有名人にとっても自身が他人の眼差しから自分の現実存在【あるがまま】を取り返すことでもあるのだから。有名人ほど他人の眼差しに曝されている人はいないのだから。


 そして麻央さんがそうだったように、現実存在【あるがまま】から声を上げることは「誰かと共有し切れない苦しみ、どうしようもない思い」を分かち合うことでもあるのだから。あるいは麻央さんはブログの読者たちと「誰かと共有し切れない苦しみ、どうしようもない思い」を共有できたのではないか。病気というのは同じ病気だからこそ分かり合えることも多い。家族、友達だけではケアしきれないものである。同じ病気の人、似た状況の人、克服した人が全国津々浦々からコメントを通して寄り添ってくれたこと(meet a person's existence)は、麻央さんの魂をも鼓舞し癒していただろう。現実存在【あるがまま】(I meet my existence)であろうと務めることはたくさんの人と縁を結び(meet new people)、存在を癒し合うことでもあるのである。

 
 


■対自存在から、さらに自己超越へ

 麻央さんがブログ始めたことは本当に実存的転換だったと思う。V.E.フランクルは著書『意味による癒し』でこう言っている。


 ‘まず最初に指摘されねばならないのは、人間とは「~にすぎないものである」(nothing-butness)とする考え方のもつ危険性です。この理論によれば、人間とは生物的、心理的および社会学的条件の結果にすぎない、とか遺伝と環境の産物にすぎないとされます。このような人間観は、人間を人間でなくしてしまい、ロボットに仕立てあげてしまうものです。このような神経症的宿命論は、人間が自由であることを否定する精神療法家によって育てられ強められています。

 確かに、人間は有限な存在であり、従って自由も制限されています。人間の自由は、さまざまな条件からの自由ではなく、それらの条件に対して何らかの態度を取る自由なのです。例えば、私の髪の色が灰色であるという事実に対しては、確かに私には責任がありません。けれども、おそらく多くの婦人たちがしているように、美容院に行って髪を染めてもらわなかったという事実に対しては私に責任があります。このように、たとえ髪の色の選択というようなことにすぎないとしても、どんな人間にもある程度の自由が残されているのです。

 これまで精神分析は、いわゆる汎性欲論として批判されてきました。けれども、私個人は、この非難がはたして妥当なものであるか、疑問に思っています。それよりもむしろ、精神分析にはもっと大きな誤りと危険性をもった仮説が含まれているように私には思われます。それは、私が「汎決定論」と呼んでいるものです。この言葉で私が意味しようとしているのは次のような人間観、すなわち、人間は、たとえそれがどのような条件であろうとも、その条件に対して何らかの態度を取ることができる能力を有しているということを無視する人間観です。人間は完全に条件づけられたり決定されたりすることはなく、むしろ、条件に身を任せるか、それともそれに立ち向かうかを自分で決定するのです。言い換えれば、人間とは究極的には自己決定的存在なのです。人間はただ単に存在しているのではなく、自分の存在が何であるか、次の瞬間に自分が何になるかを常に決断しているのです。
 その証拠に、人間はだれでも、つねに変化する自由をもっています。ですから、われわれは、集団全体の統計調査といった大雑把な枠内においてしか人間の未来を予測できません。個々の人格は本質的に予測不可能なままです。ある予測の根拠として生物学的、心理学的、社会学的な条件が引き合いに出されることでしょう。けれども、人間存在の主な特徴のひとつは、そのような条件を乗り越え、それらを超越する能力にあります。こうして人間は結局、自分自身を超越するのです。つまり人間とは自己超越的存在なのです。’


(春秋社 「意味による癒し ロゴセラピー入門」 p52~54 より引用)


 余命宣告をゆうに越えて生き抜いた麻央さんは紛れもなく自己超越者である。

 そもそもなぜ医者は余命だとか生存率などど宣告してくるのか知っているだろうか。彼らの本音はこうである。

患者様の死はわたしの治療の(ミスの)結果ではなく、本人の寿命ですので、3ヶ月以降に亡くなっても訴えないでくださいね

 すなわち免罪符だ。手術の同意書と一緒である。医者が自分で自分の治療の責任回避を取りつけているのである。しかも予測よりも短く告げている。4ヶ月は間違いなく大丈夫だろうと予測するなら3ヶ月と言うのである。確実に自分を守るために。

 なら知りたくない人は聞かなくていい。そもそも医者は神ではない。死の間際まで余命など知りえない。

 まぁ医者を悪く言ってもしょうがない。医者だって多大なリスクを張って仕事をしているのだから保証を求めるのも無理はない。訴えられてばかりいたら救える命も救えなくなってしまう。命の恩人なのだから感謝しかないのである。


 がんの陰に隠れない人生を選ぶ気づきをくれた緩和ケアの医師も麻央さんにとって恩人のひとりだろう。だが私が思うにブログ開始の決意を後押ししたのは緩和ケアの医師ではなく、他ならぬ夫の海老蔵さんに負うところが大きいのではなかったか。だって、

 私は『他人の主観によって他人の中につくられる自己のイメージ、他人から~のように見られている私』を私としない。私は『主体性をもって世界や他者に関係する対自存在』である。

 これはそのままこれまでメディアが伝えていた海老蔵さんのことではないか。

  
 僻み根性の者は世間という立ち場から常識を盾にあれこれいうが、芸事の世界は建前抜きに、若さゆえの失敗も恋愛も全ては芸の肥やしである。演技は想像だけでできるような代物ではない。若いうちにハメを外すくらいの生き方遊び方をして、場末で生きている人などに接しておかないと、義理人情、業、惚れた腫れた、欲に負け金にがめつく嘘もつくが同時に誠意もあるという人の矛盾、機微がわからないし、そもそも演技の元になる経験(資源)がつくれない。アニメの美少女を演じているのではないのだ。歌舞伎役者とはそもそも常識にも権力にも与せず、命も惜しまない信義を重んじる生き方をした男たち「傾奇者(outlaw)」を演じる者のことだろう。五右衛門も駄右衛門も弁慶も大石内蔵助も歌舞伎のヒーローはアウトローではないか。法を破っても自らの命と引き換えても恩人に筋を通す対自存在だ。なにより役者である当人に男としての魅力、対自存在としての魅力がないのでは花形役者は勤まるまい。


 海老蔵さんは「麻央が私を変えてくれた」というが、海老蔵さんだって麻央さんを変えたのだ。対自存在として生きる海老蔵さんと一緒になったからこそ、愛し合えたからこそ麻央さんも変われたのだ。がんの陰に隠れない対自存在に。さらには自己超越者に。


「あなたがわたしを変えた」


 男がそういう時は、本当に相手に惚れた時だ。本当に女に惚れた時は、自己超越(相手が幸せであるように身を捨ててでも尽くそうとする)のが男である。それは麻央さんが、がんになったからではなくて、麻央さんと家庭を持ちこどもたちを育てる堅気の生活のなかで育くんだ愛が、海老蔵さんの価値観、人生観を実際に変えたのだと思う。2013年に父親を亡くして家督を継ぎ、一門をひっぱっていく立場になったこともあると思うが、家族を守る責任は自分のみのものである。

 畢竟、人は愛によって、使命によって、自己超越するのである。子犬、子猫を拾ってくるこどもでさえも。





■運命の出会いとは何か

 
 V.E.フランクルのロゴセラピーに即して言えば、運命の出会いとは、

「私を待っている誰か、私によって実現されるのを待っている何かとの出会い」である。


 私によって実現されるのを待っている何かとは、平たく言えば使命、天職のことだろう。あなたが自分の仕事に誇りをもって命をかけているならそれはきっと使命だろう。2017年7月18日に105歳で逝去した医師・日野原重明のように、定年など感知せず、死ぬまで手放させないことがあるならそれはきっと使命だろう。キャスターの麻央さんが自身の闘病をブログで発信したのも、麻央さんの天職がキャスターであったからだと思う。あるいは海老蔵さんのように伝統芸能を継ぐのもそうだ。その仕事や情報や芸には世界や後世に伝えていく価値があり、その役目が自分を指名しその実現を要請されている時、それは自分がやらねばならないことなのであって、自己実現のためではない。使命、天職を遂行することは、すなわち価値を実現することは、その結果、幸福や自己実現という副産物を得ることは当然あるが、価値実現【使命、天職】は最初から幸福や自己実現を目的としたものではない。

 価値実現=My Life(人生、命、生活、関わる家族、友達・・・)から私に課せられた責務として、精神的無意識から問われ、愛、使命、天職、創造を発見し引き受け自己超越して遂行すること。selfless,self-transcendental.


 自己実現=自分の利己的な欲望で幸福を目的とし、Myself&My Life(人生、命、生活、関わる家族、友達・・・)をつくること。selfishness.


 現代の日本が人情を失くし、恩には恩で報いることもしなくなり、日本すごい一億総活躍自己啓発病ブラック社会と化し、結婚もしなくなったのは、いつの頃からか、自由=責任放棄と履き違えたこと、価値実現(生きる意味の追求)を捨て、自己実現(利己的欲望の追求)に堕しことにあると思うが、それについては後ほど述べる。




 では私を待っている誰かとは誰なのか。


 
身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)は過去を忘れず、私を諦めない。最後の瞬間まで生きることを諦めない。



 未来が決まっているかどうか、運命が決まっているかどうか、身体的無意識(先祖の記憶と自分の記憶+命)が知っているかどうかまではわからないが、その無数の先祖の記憶から、仏教が説く人間が避けることができない八つの苦しみの訪れは、あるいは、ある時点であらかじめ予期できるのではないか。ビックデータの予測のように。


・生苦:将来への不安、生きる意味を喪失した実存的空虚
・老苦:老いへの恐れ、老いによって生じる諸々の心身の苦しみ痛み
・病苦:病への恐れ、病気によって生じる諸々の心身の苦しみ痛み
・死苦:死への恐れ、自分の人生への後悔、先立って愛する者と離別しなければならない心の苦しみ痛み
・愛別離苦(あいべつりく): 愛する者に離別されることで生じる深い孤独、怒り、痛み、虚しさ
・怨憎会苦(おんぞうえく): 人生で、どうしても許せず怨み憎む者に必ずひとりは出会うこと
・求不得苦(ぐふとくく): 欲望、理想、夢、どんなに努力しても得られないものがあるということ
・五蘊盛苦(ごうんじょうく): 畢竟、五蘊(人間の肉体と精神)は思うがままにならないと知ること



 自分の苦しみは自分で背負わなければならないものであるが、事件、事故、災害、病気、死、恐怖、恨み、、、ひとりでは受容できない事態は、やはり「困難に立ち向かうのに必要な人」が傍にいてくれると心強いものである。

 麻央さんにとって海老蔵さんはその「困難に立ち向かうのに必要な人」であったろう。麻央さんがこの運命に立ち向かうには夫は海老蔵さんでなければな‎らなかったことは疑いようがないと思う。他の人では絶対に駄目だった。


 2017年1月19日。麻央さんが病室でインタビューを受けた日本テレビ「市川海老蔵に、ござりまする。」

 インタビュー部分 https://youtu.be/JFKwxCFtiXg


 の冒頭の麗禾ちゃんと勸玄くんのキューピーちゃんダンス?が謎でかわいかったが、麻央さんと海老蔵さんはとてもいい夫婦だと思った。お互い尊敬し合っているのが画面から伝わった。比翼連理という言葉があるが、ものの見方が違うけれど、それが却ってお互いの存在を相補い合わせてる夫婦なのではないか。

 ふたりは初体面の折にお互いに「この人だ!」と運命を感じたという。

 しかしどんなに直感がよくても、人間、4,5年付き合ったくらいじゃわからない。恋人関係、新婚時、こどもが生まれ成長していく、、、年月とともに、夫婦の関係性というのは少しづつ変化していく。これは香水に似ているかもしれない。トップノートで10年、ミドルノートで20年、30年連れ添ってようやくラストノートがわかる。

 麻央さんは同インタビューで「病気をしたことで夫の孤独がわかるようになった」と語っていたが、それはトップノートが半分くらいわかるようになってきたということかもしれない。夫婦関係は、今だけで、過去だけで判断するのはもったないことだと私はいつも思う。

 もし私が海老蔵さんの立場だったら、きっと仕事なんて辞めてずっと傍に張り付いているだろうが(笑)、海老蔵さんが歌舞伎も手を抜かず精進しているのは深い絆、信頼ゆえなんだと思う。「あなたには自分の使命がある」という麻央さんの気持ちに応える、という。もちろん、それを可能にしたのは家族の付きっきりの看護があったからだが、ふたりは、これからもっとよいパートナーになれる。しがみついてでも離さないほうがいい。番組を観て私はふたりはそういう夫婦なのだと直感した。


 6月23日14時半から、海老蔵さんが公演の合間を縫って開いた記者会見でも、私は同じように直感した。麻央さんの最後の言葉は「愛してる」だったのである。夫婦は本当に愛し合っていたのだ。それは麻央さんの逝去後も更新され続ける海老蔵さんのブログからもわかることだ。幼いこどもたちを遺していく運命を背負ってしまったけれど、ともに「困難に立ち向かうのに必要な人」に出会えたこと、来世も再来世も一緒にいたいという相手と出会えたことは本当に幸せなことだ。


 もちろん、家族はみな運命の出会いである。ともに「困難に立ち向かうのに必要な人」達だったのだから。運命の人とはすなわち「困難に立ち向かうのに必要な人」のことである。あなたを対自存在にしてくれる人、自己超越者にしてくれる人のことである。

 愛は、相手とみつめあうことではなく、同じ方向をみつめることである。それは相手の価値観、思想、感性、経験、技術、、、を吸収したりされたりせずに、あたかも専門が別々の二人の職人が、お互いの力を持ち寄って、ある目的を、まだ見ぬ何かを、共同制作する如くである(ゆえに我々はあるがままなでなければならないのである)。つまり愛とは創造でもある。私ではない誰かとの営みなのである。赤ちゃんはどこからやってくるのか。愛が創造であることは、子づくり、子育てにたとえるまでもなく自明だろう。

 困難はそれを乗り超える力が自分にあろうとなかろうと立ち向かわずにはいられないものだが、自分にその力がないのなら、ある者の協力が不可欠だ。つまり運命の人とはその困難に立ち向かうのに必要な能力を持っている人のことでもある。

 だから医師や看護師たちとの出会いも運命である。つまり運命の人はたったひとりではないし、異性とも恋愛とも限らない。兄弟姉妹、親戚、同性の友人、うんと年上の人であったりもする。あるいはずっと昔に書かれた本ということもある。

 がんに罹かってからも麻央さんにはきっとたくさんの運命の出会いがあっただろう。250万人の読者たちもそうだろう。

 しかしブログにコメントすることが何の助けになるのか?

 という批判にはこう答えよう。

 実利も結果も問題じゃない。愛は自己超越である。エゴの超克である。その人の現実存在【あるがまま】に添う(meet a person's existence)ことである。自分に利害があろうがなかろうが、自分に助けるが能力があろうがなかろうが、その人を支えようと献身することである。麻耶さんが倒れたのはどうしてか?直接の知り合いでなくても、身内のように思って、どうか痛みに苦しまないように、笑顔で過ごせるようにと、回復を願う250万人の気持ちが麻央さんに届いていなかったなんてことがあると思うか?

 愛は精神である。精神は時空に制約されない。過去からも届く。未来へも届けられる。どんな瞬間も縁を生じさせつづける。困難に立ち向かうとするのならば。対自存在として、現実存在として、自己超越者として、世界に心を開いていさえすれば。




■麻央さんのブログからSNSの意義と祈りを問い直す

 ネットを見ていると、人権侵害や猟奇的な発言に対してならいざしらず、どうしてそんなに怒ってんの?なんでこれをそんな風に解釈してしまうの?という炎上がある。そうした炎上を起こす人たちは必ずしも性格が著しく歪んでいる、知性や道徳が低い、というわけではないと思う。というよりは、彼らは現実で我慢していることが多い人たちなのではないか。己れの現実に、社会に、悲嘆している人。彼らは自己超越できる愛、使命、創造を知らない。財産、幸福、成功、地位、権力、他者からの承認、すなわち自己実現(利己的欲望の追求)を追いかけているができないことによる、している者への嫉妬、憲法が保証しているはずの健康で文化的な生活がでできないでいること、への不満がある。すなわち生きる意味の喪失、実存的空虚がある。
 
『人は生きる意味を喪失した時、フロイトのいう快楽、アドラーのいう権力としての感情だけを即物的に麻薬として消費する生き物になりさがる』。

 人生における意味はいつでも感情を含有している。人生の意味充足は同時に感情の充足でもある。価値ある感情を含んだ意味が充足されないと、自分のLife(人生、命、生活、関わる家族、友達・・・)そのものもにも価値を見出せなくなるのである。

 しかし、真に意味のある感情は人生の意味充足の結果、得られるものである。快楽や成功としての感情だけを目的として追いかても追いかければ追いかけるほどそれは逃げていく。手にしたと思った時にはその感情は虚しさに変わってる。つまり人生の意味を充足しない感情は幻であり麻薬なのである。虚しいと知りながらも追いかけることをやめられなくなる代物なのだ。
 
 感情とは何か。俗に琴線に触れると言う。琴線とはつまり弦。たとえばラ(440Hz)の音叉を鳴らすとラの弦ないしはその倍音が共振共鳴する。ギターの近くで咳払いしたりすると触ってないのに音が鳴ることがあるが、それはそのせいだ。

 感情を弦にたとえるなら、自分の記憶や想像、および外部から与えられた情報(出来事、他人とのコミュニケーションないしは、映画、ドラマ、小説、アニメ、音楽、ゲーム、アイドル・・・などの創作物)に共振共鳴するのが感情というイメージ。

 感情は複数の弦の集まり、つまり琴とかギターとかピアノのようなものだとイメージするなら、自己の記憶や想像による感情の誘発は自分で自分を弾くこと。外部からの情報による感情の誘発は、対象に弾かれてしまうこと。

 感情を感じることは人間が人間である醍醐味のひとつであることは自明だが、役者でもない限り自分の意思で自由自在に幸せを感じたり泣いたりはできない。なので普通は映画、ドラマ、小説、アニメ、音楽、ゲーム、アイドル・・・などの創作物を消費することで感情を誘発しようとする。それも薄味な感情ではなく、濃厚な感情を。

 スピリチュアルや自己啓発が、人生は学びだ!魂の成長だ!夢を持て!と煽るのも同じで、自己を研鑽し苦難を乗り越えて夢を掴むという本当はすごい!私である英雄譚の主人公に自らが成りきることで感情を揺さぶりたいという欲求がそこにはある。何の努力もなく、すんなり手に入れたものというのは、価値や喜びを感じにくいのが人間だ。

 「退屈は人を殺す」という。退屈というのは心、感情が動いていないということだ。

 映画、ドラマ、小説、アニメ、音楽、ゲーム、アイドル・・・が途切れずに次々に生まれて溢れているのも、戦争をしたがる奴が出てくるのも、退屈の忌避、すなわち濃厚な感情を感じたいという飽くなき欲求、生きている意味、実感、充実感を求める欲求にその理由がある。
 
 すなわち「退屈=人生の意味の喪失」により、意味への意志が消化不良を起こしているのが現代だろう。twitterの炎上、ヘイト、デマ、デマゴーグ、他者からの承認欲求(猥褻、粘着、意識高い系、自分語り、自撮り、バカッター、嘘松さんetc)もそのことを忘れていられる麻薬のひとつである。ナラズ者ならば違法薬物、スピード違反、エクストリーム、ケンカ、強盗、殺人に向うが、小市民は、冒険できても酒、ギャンブル、不倫くらいのことである。普通は映画、ドラマ、小説、アニメ、音楽、ゲーム、アイドル・・・仮想現実という安全でエキサイティングな代替物を消費することで誤魔化している。


 もちろん炎上にも真っ当なものがある。問題を明らかにし、弱きを助け不正を糾すものを炎上とは言わない。それは民主主義においては市民の義務である。
 
 もし政治家が、ネットを見ても、真っ当な抗議の声を聴いても、市井の人たちの気球のように膨らんだ生活困窮、生きる意味の喪失の悲嘆があることに気づかないとしたらそれこそ本当に鈍いし、政治家をやる資格がないと断言したい。そうならば彼らはそもそも使命として政治をしていない。その目的は自己の権力欲、金銭欲を満たすことだろう。自分の欲望だけを見つめている我利我利亡者には、助けを呼ぶ者の声は決して聞こえないのである。

 市民の抗議と悲嘆の声に気づかない者は、なぜか有名人にも多い。あるいはCMであったりもする。彼らはなぜそんなに不用意なのかといえば、ネット、特にSNSは『与えると受け取るの連鎖反応の世界』という認識が欠けていることも理由である。たとえ、その書き込みが『与える』という意味を持っていなくても不特定多数の人が見ているのである。おまけに幼稚な正義で「おまえは間違っている!」と信じて疑わないからである。自分の業界の常識(正義)だけで物事を判断するからである。

 もちろん、ここまで述べたように市民にも問題がある。ネットを駄目にしたのは他ならぬ市民である。現実と同じように階層化し、一部はスラム化し、多勢は仲良しクラブ化してそれぞれが小競り合い、揚げ足を取り合ってるのだから付き合いきれないのである。

 ともかく政治家やメディアに露出していて目立つ存在である者の発言は追いかけていなくても勝手に耳目に入ってくるものであるし、炎上の裏には市井の人たちの生きる意味喪失の悲嘆があるのだ。ストレスフリーでいたければ、利己的欲望に取り憑かれた者、自称正義の味方、ルサンチマンや悲嘆でもって誰かをリンチするような者、、、どれにも関わらないにこしたことはない。だから私は、宇多田ヒカルの『荒野の狼』にあるように『偽者の安心に悪い者探し、(そんなのは)私たちには関係ない』を貫こうと思う。

 twitterは好きだが、私はこんなバカげた喧騒からは遠く離れていたい。そこに付き合っていればつけこまれないように無難な建前しか言えなくなるのがオチである。私は落ち着ける、安心できる、癒される、庭園の中の東屋、庵のような人だけをフォローし、RSSしたい。



 こうした負の面が目立つネットの中で、麻央さんのブログは異彩を放っている。なぜなら読者によるコメントをみると自分や家族や友人らの闘病を語り合う悲嘆装置(苦悩を分け合う場)としても機能しているからだ。

 
 唐突だが、お地蔵さんを見たことがあるだろう。川沿いや街道に多いが、そこはかつて洪水の決壊、行き倒れがあったということを教えてくれる。説話によれば地蔵菩薩というのは地獄に降りてきてくれる慈悲深い唯一の菩薩である。つまり苦しんで亡くなった人々、名も知らない人々を救ってあげてほしいという市井の人々の祈りが路傍のお地蔵さんには込められているのである。

 また凄惨な事件や悲しい事件が起きた時にもお地蔵さんは建てられる。二度とそんなことが起きないようにと願い、悲嘆にくれる遺族や故人を想って、一緒に涙する、手を合わせる人たちが過日、そこにはいたということだ。生きるために隣近所と助け合のが当たり前だった昔の社会では、このような形でも地域が機能していたのだ。

 すなわちお地蔵さんは地域の悲嘆装置(苦悩を分け合う場)だったのである。自分の現世利益を願う対象ではないのだ。あの子に、あの人に、お水を飲ませてあげて、おまんじゅう食べさせてあげて、、、今でも、水や食べ物やお花をお供えをしている人がいるだろう。お線香は本来、死者は「香を食べる」という説から焚くのである。

 やってるほうは100%確信を持ってやってるわけではないかもしれない。しかし確かなのは『宗教は確信はないけど祈らずにはいられない苦悩を受け止めるもの』であるということだ。(その宗教の持つ社会的な機能を利用し、欲望と幻想で人を騙るのがスピリチュアルでありカルトだ!)

 宗教が浸透した昔の社会は、今の日本すごい一億総活躍自己啓発病ブラック社会とは真逆の昼間から悲嘆してよい優しい世界だったのである。では宗教が廃れた日本で今、悲嘆装置(苦悩を分け合う場)を担うのは何か。

 それは端的に言ってネットだ、と私は思う。私は麻央さんのブログと読者にその感触を得た。それはまるで悲嘆の闇夜に回復への祈りが無数のスカイランタン(空飛ぶ灯篭)となって照らしているようではないか。

 もし、ブログやSNSが便所の落書きでしかなく、市井の人々の悲嘆装置(苦悩を分け合う場)足り合えないのなら、悲嘆はどこへゆくのか。悲嘆は一人では担えないのである。悲嘆のトンネルはくぐり抜けないと生きる勇気は沸いて来ない。誰の人生の道にも真っ暗なトンネルがあって、大きなトンネルを抜けても小さなトンネルは何度も待っている。この道は通らないということができない。

 事件、事故、災害、病気、死、恐怖、恨み、、、俄かには受容し難い現実に直面した時、人は悲嘆(グリーフ)する。『なぜ自分がこのような目に遭わなければいけないのか』と。無論、全ては縁起により起こるものであるから、「これ」と差し示めせる単一の原因、理由というのはない。だから麻央さんがブログに綴っていたように、思い出、虚しさ、怒り、喪失感、後悔、恨み、諦めといった気持ちを何度も逡巡することになる

 そうしながらも現実受容に向かっていくわけだが時間がかかる。通常、悲嘆状態にある人に、頑張れ!元気だせ!やる気だせ!というと憤慨されるか心を閉ざされる。悲嘆は十分に悲嘆された時にだけ癒されるものだ。だから心ゆくまで悲嘆できるようにこちら側が場をつくってあげる。話を聴いてあげることが肝心だ。



 結論から言って、悲嘆から立ち直るには、自己実現(利己的欲望の追求)から価値実現(私の人生の私だけの意味の追求)に転換することが急務である。それには以下のことを理解し実践することである。


①感情の完全燃焼
虚しさ、怒り、喪失感、後悔、恨み、諦め、、、否定した感情は余計に燃え盛る。ネガティヴな感情から逃げず、しかし戦わずに、その感情をあるがままに感じて燃やし尽くす。

②現実の直視と内省除去
変えられないものは宿命である。誰かや何かを、自分を責めても始まらない。災害、事件、事故、病気に原因も理由を求めない。縁起を知ろうとしたところで自意識には観察できない。どんなに辛い体験もそれがあなたの人生のすべてではない。あの状況はコントロールできなかった、この状況はコントロールできないと認めて、内省しすぎない。

③態度価値と逆説思考による自己距離化
変えられない宿命にも何らかの心的態度をとる自由がある。失敗や挫折や苦労にもかかわらず自虐として自分を笑うことができるのも人間だ。他人も自分も許すことができるのも人間だ。他人と距離をとるように自己と状況にも客観的に距離を取る。

④マズヒズムをやめてヒロイズムを選ぶ
解消することのできる苦痛に耐えるのはマゾヒズムである。可能性があるのなら休み休みでもいいから手を尽くし尽くすまで諦めない。しかし、右往左往するのはダサイ!たとえナチスにガス室に送られることになったとしても、堂々と胸を張って歩むヒロインたれ!

⑤あなたの人生の価値を実現(私の人生の私だけの意味の追求)をする
人生は無条件に最後の瞬間まで主観も客観も越えた真実(意味と価値)で一瞬、一瞬、満たされている!人生は生きるに値するものであると信じ抜くこと。嬉しい時も、悲しい時も、孤独な時も、先立たれる時も、自分が死にゆく時も、あなたは唯一無二の自分の人生の意味と価値をいつでも体験している。あなたの人生の意味はア・プリオリ(経験に先立つもの)なものでも、自分で創造するものでもない。自分の人生を生きることで気づくもの、発見するものだ。なぜならば意味は「今ここ」で生まれては滅することを繰り返す、その都度、その都度の、あなただけの唯一の一回性のものだから。だから意味は過去の事であっても「今だから気づく」、「気づける」ものである。体験の渦中には気づけないことも、それが過去になることで、気づきは未来において変化、深化する。その意味の個別の一回性、現在性こそが私が他の誰でもない私であることの理由である。明日を生きる理由である。つまりあなたの人生の意味はあなたにしかみつけられないものであり、あなたの人生の価値はあなたにしか生きられないものである。あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない!生きるとは自分の人生から問いかけられていることにあなたが責任をもって答えることである。すなわち己れに要請されている使命を果たすこと、人を愛し尽くすこと、芸術や音楽など何か創造すること、こどもに生き様、死に様を見せること、誇り高くあること(人間性)といった『人生の価値の実現』をせよ!


⑥以上を受け入れ、サポートをしてくれる人に心を開く。


 ことが必要なのである。実際、麻央さんのブログはそのための場だったと思う。それは麻央さん自身が自らの悲嘆と、とことん向き合っていたからに違いない。誰もが人生から要請されている『人と共に生きること』を実現するため、がんの陰に隠れず、病身でも自らがなりえるものになろうとしたからに違いない。愛に要請されている『生きていてほしい』に応えるため、愛する家族のために命を燃やして、少しでも長く一緒にいれるように、思い出をつくれるようにと頑張ったからに違いない。

 そのように懸命に生きる人を見たら、自身ないしは身内や友人らが少しでも同じ状況にある、あったのなら、心を動かされないはずがない。麻央さんの生き様は宵の峠の一軒家の明かりの如く、道に迷える人々を引き寄せた。

 しかし「場」はひとりではつくれない。呼びかけ人の意識だけがつくるのではない。みんなでつくるものである。宴会は大勢でやるから楽しくなるのだ。赤信号を渡るのも、デモをやるのもみんなでやるから怖くないのだ。


「場」とは場所、つまり特定の機能をもった空間のことである。トイレは排泄をするためだけに特化された空間であるように。駐車場は車を停めておくのに最適な空間であるように。ライブハウスはライブをやるのためだけにつくられた空間であるように。

「場」において人は、通常、その「場」に相応しい行動を取る。確かにトイレの個室で弁当を食う大学生がいるし、駐車場でスケボーをして遊ぶこどもがいるし、ライブハウスだってラジコンもミスコンもすることができる。しかしどれも「その場に適していない」。適していない行動をとる者はどうなるか?

 排除される。

「場」に適さない行動は「場」に相応しい行動を取る大勢の者には邪魔で不快をもたらすからだ。「場」は感情を記憶し増幅装置としても機能するからだ。つまり場とは「機能+感情」である。そして情報は「場」の上位である。だから情報は「場」を制御する。

 それはこういうことだ。もしも、ただの公園でプロの歌手が歌い出したらそこはたちまちライブ会場になるだろう。プロが歌(情報)を歌うということの【意味】が、公園がもともと持っている「憩いの場」としての機能を一時的に変えてしまうのである。

 すなわち情報は「場」を作り出せるのである。情報とは「意味+感情」である。意味あるところには価値がある。価値とは有用な知識や技術であるということ、ないしは金銭とは交換不可能な心でしか知ることのできない特別な感覚を心にもたらしているということである。

 歌や芝居や小説は当然情報である。その内容(感情+意味)によって価値(感動、興奮、気づき、勇気、元気、、、)が共有されるものである。天気予報、災害情報、不審者情報といった命にかかわる情報(事態=意味+感情「心配」)は安全という価値を利益する。レシピ、修理などのマニュアルも情報(手順=意味+感情「美味しいそう、できる!」)も利益として価値を提供している。どんな情報であれ受け手が価値として共有した情報は発信者への高評価、親密性を生み出す。
 
 歌や芝居や小説は見返す度に自分が受けとる意味が変わることがある。天気予報、災害情報、不審者情報は刻々と変わる。レシピ、修理などのマニュアルは私の必要性によって意味が無くなることがある。しかし価値のほうは、どんなに意味が変わろうと変質しない。すなわち意味は今ここで生まれては消える私だけの唯一の一回性なものであるのに対して、価値は誰かと共有できるもののことである。感想(意味)が違っても感動(うれしい、たのしい、すばらしい、おいしい、すごい、かわいい、ふざけんなetc)は共有できる。(ゆえに愛も価値である)。
 

 では受け手がその情報に価値を見出さなかったら。

 それは単にスルーされる。スポーツという情報(勝負=意味+感情「勝ってほしい!負けてほしくない!」)に価値(感動、興奮、ドラマ)を見出さない者は単にスルーするだけである。

 では受け手がその情報を有害だと判断したらどうか。汚職や残虐非道な犯罪、バカッター(事態=意味+感情「頭悪い!気持ち悪い!ずるい!」)に価値を見出す人はほぼいないだろう。怒り、恐怖、憎しみを覚えるだけだろう。

 実は「場(機能+感情)」に刻まれた感情は強ければ強いほど、一度できるとそう簡単には消えない。炎上を繰り返している者を見よ。

 つまり「場(機能+感情)」は人間の好悪という感情を喚起し記憶する。受け手の状況、精神状態、必要、興味関心、人間性によって価値づけされる。ゆえに発信者にはそれはコントロールできない。

 インターネットとはつまり情報空間である。物理空間とは違って、あなたが発信する情報がそのまま機能として他者に機能する「場(機能+感情)」である。

 J-WAVEラジオでいうと、あなたが発信する情報はSTEP ONE(番組)で、インターネットはその番組をラジオ受信機に送るための周波数81.3MHz(転送波)である。

 ならあなたはどんな情報(感情+意味)を発信したいか?

 あなたは誰とどんな情報(感情+意味)と価値を分け合いたいのか?

 何の増幅装置として機能したいのか?

 嫉妬か?憎しみか?嘘か?中傷か?自己否定か?

 安全か?健康か?子育てか?やりくりか?笑いか?



 がんに関する自らの体験で、生きることの意味と価値、悲嘆、痛み、喜び、勇気、思いやり、愛、、、人生を分け合う場となった麻央さんのブログと読者に、私は人間の希望を見た。祈りとは何かを教えてもらった。


 神はいるのか、いないのか。


 そんなことはどうでもいい。


 誰かの助けを求める声に、人間は応答するのだから。誰かの心身の痛み、悲しみを分け合い、手を差し伸べ、寄り添い、祈ることによって。



 仮に神がいるとして、神が沈黙している理由は何か?


 誰かの助けを求める声に、人間こそが応答すべきだからではないか。誰かの心身の痛み、悲しみを分け合い、手を差し伸べ、寄り添い、祈ることによって。

 
 人間とは、自分のLife(人生、命、生活、関わる家族、友達・・・)から課せられた責任を果たそうとする者のことである。愛によって命を任せ預け合う存在である。果たすべき愛も使命も創造も救済もその遂行を要請されているのはあなた自身である。幸福も運命の出会いもその要請の遂行の副産物だ。神が自分勝手に決めているのではない。偶然でもない。縁起の大海の中で生きているとしても、如何なる条件も自己(能力、性格、経歴、身体条件、好き嫌い、やりたいやりたくない)も越えることができる存在である。


 ならばそもそも神の出る幕などないではないか。神ではなく人を見よ。祈りは神社や教会で神にするのではなく、自ら引き受けることで遂行せよ。せめて、私はあなたの健康と幸福を祈っている、ともに苦悩を分け合う者なのだということを本人に伝えよ。祈りも許しも応援も感想も本人にcallingして初めて意味を持つ、価値がある。「生きていてほしい」という必要とされている愛されている存在だと知ることは、本人にcalling willpower to live,calling forth to live, 生きる気力と勇気を奮い起こさせることができるのだから。

 

 ずばり言う。SNSの最大の活用法は、

・【Release&Sharing】

 Release:手放す、放免する
 Sharing:分かち合う、参加する



という無理のない態度の選択である。喜びも悲しみも手放なされたものは誰かと分け合える。ひとりで背負うには辛いこと、ひとりで味あうには忍びないことは、手放して誰かに分け合ってもらう。手放すは与えなくてもいい。感謝することと感謝を受けとることは後回しにしてはいけないが、分け合うは全てを受け取らなくていい。必要な分だけ、背負える分だけでいい。スルーもOK。より具体的に言えば、

・問いかける&応答する【Question&response】
・要請する&請け負う【Request&resonsible】
・告白する&応援する【confession&Support】
・降ろす&許す【take down&forgive】
・遊ぶ&祈る【Play&Pray】

 ●手放す(Release)=存在の告白(confession for existence)=要請する(request)=問いかける(question)=重荷を降ろす&自分を許す【take down&forgive】

 ●分け合う(Sharing)=存在に寄り添う(Support for existence)=請け負う(responsible)=応答する(response)=重荷を降ろさせる&彼を許す【take down&forgive】




 以上に同意できるのならSNSは

1,meet new people,make contact, 縁を繋ぐ場
2,Play space,遊び場
3,Pray space,祈りの場

となる。


 あなたのブログは、twitterは、そういう優しい場をつくっていけるか?


 自己実現(利己的欲望の追求)に堕すことで生きる意味を失ったのなら、価値実現(私の人生の私だけの意味の追求)によって取り戻そう。そして自分のSNSを縁を繋ぐ場所、遊び場、祈りの場としてあなた自身が再構築しよう。そうすることが、人間性を放棄した無法地帯(猥褻、ヘイト、炎上、ガキのケンカ、密告、殺害予告、便所の落書き)としてのSNSから脱出するひとつの答えである。


 あなたの不満が憲法が保証しているはずの誰もが健康で文化的な生活を維持できないことにあるのなら、自助ネットワークをつくるんだ。政府などなんら当てにする必要もない生きるためのネットワークをつくるんだ。それがあなたのLifeから、未来の人々から、あなたに、我々に、課せられた責務なのでは?


 でも、どうやって?


 SNSを使えばいい。


 


■謝意

 22日18時半過ぎ、空を見上げると今日は美しい夕焼けが見られるという予感があった。時間もあったので私は自転車で河川敷を爆走した。その夕焼けは時間にして30分ほど、19時前頃から始まった。太陽が赤赤と燃えて落ちて、薄桃色に空をどこまでも染め、ゆっくりと濃桃色になりながら、西の彼方の藤色の雲に溶けて行った。それはどんな音楽も無力な穏やかな時間だった。否、壮大な音楽だった。どんな境涯でも、人生には最後の瞬間まで意味があり、この世は生きる価値のある世界なのだと奏でる。


 麻央さんはちょうどその頃、亡くなったという。


 あの日の美しい夕焼けが目に浮かぶ。麻央さんの人生のような美しい夕焼けが。着物姿の美しい麻央さんとともに。


 「市川海老蔵、一門、家族をどうかよろしくお願いします」と頭を垂れている姿が目に浮かぶ。


 

 桜は風に散りたくて咲くんだよと子にいう妻と夕轟き(さくらはか/ぜにちりたくて/さくんだよ/とこにいうつま/とゆうとどろき)



  
 散ってもなお桜のように美しい人を、夕焼けを、私は永遠に忘れないだろう。


 麻央さんにはどんな労いの言葉も賞賛の言葉も陳腐だと思う。代わりに、この場を借りて私はありったけの感謝をしたい。


 ニーチェのいう『生きる理由を持っている人は、ほとんどどんな事態にも耐えることができる』が、どういうことなのか教えてくれてありがとう。

 
 生きる理由(Why:愛、使命、創造)>事態(How:情報「意味+感情」>場「感情+機能」)


 生きる理由(Why:愛すべき人、なすべき使命、なすべき創造)があるということが、人を対他存在(他人の眼差しとして存在する私)から対自存在(好き嫌い損得能力やりたいやりたくない、身体条件)にすること、さらには自己(好き嫌い損得能力やりたいやりたくない、身体条件)を超越できることを教えてくれてありがとう。


 すなわち病気でも毎日をよりよく生きることができること、自らがなりえるものになれることを教えてくれてありがとう。身体と心が傷ついても、魂(精神的無意識)までは傷つかないことを教えてくれてありがとう。愛とは何か、結婚の意義とは何かを教えてくれてありがとう。実存哲学の理解が深まりました。


 生まれ変わっても、来世も再来世も皆様が会えるように願っています。そして一日も早くこの治療法が全世界で安価で提供される日が来ますように。


 ●近赤外線でがん細胞が1日で消滅、転移したがんも治す ――米国立がん研究所(NCI)の日本人研究者が開発した驚きの治療とは 


 そして麻央さんが成した、人生の価値の実現の記録を一人でも多くの人に知ってもらえますように。「私の体験をどんな形でも、活用してくれる方がいたら(9月6日『今後』)」というその願いが成就しますように。

 ●なりたい自分になる 小林麻央オフィシャルブログ「KOKORO.」 



 最後に、麻央さんが病床からでも社会と繋がれる機会をつくってくれた、IT端末と、インターネットと、そのインフラの全ての開発者と整備者に感謝申し上げます。



 2017年7月21日 



 麻央さんの誕生日にカモミールの花束にかえて



 煩悩具足の現実存在 駿喆咲道 拝





posted by 駿喆咲道 at 07:21| 生き方と哲学 | 更新情報をチェックする








■恋愛にも新規顧客開拓にも使える出遭いの教科書
■著者
駿喆咲道@suntetusakudu

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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