著者:駿附逑ケ | 1978年,東京生まれ。



2017年06月13日

感性、ファッション、人格、生き方は読書でつくれる!人生の糧になる本の選び方

■生涯学習という概念との出会い

普段、ひとと腹を割って話すことはあっても、胸のうちには鍵をかけているもんで、音楽、芸術、物語、芝居は、その胸のうちを開くもんだと思う。
 
 そう思うのは、ガードを解かれ自分を明け渡して降参させられてしまう音楽や映画に実際に出会えたからだ。

 そうした出会いは読書においても幾度となく私に訪れる。

 21歳くらいから週に一冊は本を読むことが習慣になっている。高校卒業後一年バイトしてカネを貯め美大に行ったが授業が偉くつまらなかった。凄く高度な知識や技術を教えてくれるのかと思ったら、まるで中学生レベルでこれが大学教育なのかバカか!と失望してしまった。こんなことで時間を無駄にするくらいならフリーターしてるほうがマシだと思って一年で辞めてしまった。そんな夢も何もない折り、図書館で『「自分大学」に入ろう』という本がたまたま目に飛び込んできた。


「自分大学」に入ろう―週末が愉しみになる!実りある生涯学習システムの提案





 この本を読んで「人生一生涯勉強!大学に行ってるつもりで図書館を活用して自分の興味のあることを好き勝手に学ぼう!」と閃いた私は、とりあえず興味の赴くままに本を読む習慣をつくろうと思い立った。結局学校というのは他人から与えられた課題をこなすだけだからつまらないのだ。課題もやり方も全部自分で決めるのは私の性分に合っている。だから今日まで週に一冊は本を読む習慣を続けているのである。病気で床に伏せってでもいない限りは。




■表現力の正体

 表現とは感性と技術と哲学の三位一体だ。技術はひとから教わって身に付けることができるが、たいがいの人は哲学が徹底的に欠けてる。糧になる本、ようは哲学、古典、歴史、ノンフィクションを読書しないから。

 語学や料理本などの実用書はもちろん為になるが、他人の妄想でしかない小説や漫画は娯楽。ビジネス書はある一定の状況下におけるマニュアル。自己啓発本はセミナー入会案内。これらの本を読んでも自分の哲学をつくることにならないし、人生の糧にならない。

 感性は誰にも教えてもらえないが、一流に触れることは役に立つ。観て聴いて盗むしかないが。しかし、知識、経験、技術、哲学が何もないとそれもできない。何をどうやってるのかの想像もつかないからだ。

 だから感性と技術と哲学は同時に磨く必要がある。それには糧になる本を読むという方法がある。それを私が知ったのは読書習慣によってである。




■感性とは何か

 それを理解するために、女性のオシャレを例にとろう。女性はそのへんの男にオシャレだと言われて喜んでいるようじゃ正直、甘ちゃんだ。

 だいたいそれって御機嫌とりのリップサービスにすぎないし、とりあえず褒めとかないと面倒くさいし。まぁダメ出しを食らわない限りは「みっともないくはないから大丈夫」くらいの意味だと思っておいたほうが身のためだ。笑


 本当のオシャレはファッション誌には載ってない。商業モデルの物真似をすることをオシャレとは言わない。ビジュアルのよさを言うのでもない。

 本物のファッションとは似合ってるかどうか(体型+年齢)を越えて、その者の哲学、すなわち生き方に裏打ちされるものだ。

 軍人は軍服、土方はニッカボッカを着るが、職業によって服装が規定されるように、歌舞伎の衣装がキャラターを的確に表しているように、ファッションはその人がどのように生きている何者なのかを表現できて、初めてオシャレなのだ。

 誰でもない私、誰とも違う私、誰にも真似できない私を表現できて初めてオシャレだと言えるのである。感性ある者はそういうオシャレを本当に実現させている。それは物真似できるレベルではないのだ。一般人が「かわいい!イケテル!」の自己演出として楽しむオシャレはただの自己満足なのである。




■週に一冊でも読書を習慣にすれば10000人分の人生を生きられる
 
 人間性とは知識×経験×(感性(技術+哲学))+性格だ。


 性格は7歳までに決まってしまい、無茶な催眠術でもしない限り代え難いという。だが知識、経験(感性(技術+哲学))は意識的に培える。つまり人間性は自分で養える。

 しかしこの世の全ての知識、経験を獲得するのは時間的に難しい。だから読書が大事になる。ノンフィクションを読めば自分が知らない人生、職業、公害、事件、裁判、舞台裏、、、を仮想体験できる。歴史書を読めば過去へも行ける。哲学書を読めば独力では到達できない抽象度の高い思考とは何かを知ることができる。




■本物とバッタもん

 そうして得た誰かの人生(想像)の蓄積は当然、感性の発露としてファッションにも反映される。奇抜でエキセントリックなだけのサブカルとは違って、自己流であっても本物となる。

 歌や踊りに限ってはその人の声質、歌声、身体パフォーマンスに規定される分が大きい。肉体はその人独自のものだ。

 歌や踊りは確かに物真似はできるだろう。だが所詮はバッタもんだ。いくら姿形を似せることができようと材料も味も違う。物真似歌手は本人の技、知識、経験、哲学に裏打ちされた感性までは真似できない。いくらプリマ・バレリーナと同じ振り付けを覚えても、その人の技、知識、経験、哲学に裏打ちされた感性までは真似できない。つまり物真似は、


●似て非なるもの(The two are alike only appearance.)
本物の表現 ≒ 物真似の表現


●等しくない(The two are not alike.)
本物の人間性=知識×経験×(感性(技術+哲学))+性格 ≠ 物真似の人間性=知識×経験×(感性(技術+哲学))+性格


●等しくない(The two are not alike.)
本物の身体 ≠ 物真似の身体


 抜きん出てる人というのは物真似はされても誰にも似ていない、誰とも違う、替えのきかない人。持って生まれた身体条件もあるが、何かに秀でたいならこれを理解しなければならない。




■自分をわかってもらう努力、他者をわかろうとする努力は惜しみなく

 ただし個性は他者に理解してもらう努力をすることとワンセットだ。そうでないと個性的になればなるだけ誰にも理解されなくなって孤独になるだけだ。だからアウトプットした時に公正にフィードバックしてくれる人を大事にしよう。感性を磨くためには、もっと良いものをつくるためには客観的な情報が必要だ。鏡で自分を見る視点、鳥の目で世界を俯瞰する視点、想像もできない角度からの視点が必要だ。

 そして自分も同じように誰かに公正にフィードバックしよう。読書感想文(その情報によって展開した自分の思考も含む)を書こう。人間関係はお互い様、お陰様だ。音楽や芸術は言葉でのフィードバックが難しいが、糧になる読書習慣はそれすらも可能にしていくものだ。本は言葉で書かれているのである。本を読めば自分の感情や感覚を表すための語彙力が身につくに決まってる。その力がつけば自分をわかってもらうこと、他者をわかること、が前よりもずっとできるようになる。そうすればもう、コミュ障、自称人見知りキャラでいなくてよくなるだろう。




■糧になる本の選考基準

1.その職業、現場、事件の当事者によるノンフィクション。

2.著者は文筆家ではなく本業で十分な収入があるのにも関わらずわざわざその職業、関わる現場、事件に関する本を書いている。ないしは本業とは直接関係のない内容の本を人に請われて書いている人の本。


 以上の条件にあてはまる本をいくつかあげる。


  

初期文芸名作選 ハンセン病に咲いた花 戦前編 (ハンセン病叢書)





 らい療院で己の存在証明を文学に注いだ者たちの短編集「ハンセン病に咲いた花」。元患者である盾木氾によって昭和11年から21年までに発表された短編小説の中から優秀な作品をまとめている。一話読むごとにぐったりと疲れ果て、読み進めるのがほんとうに辛かった。

 ハンセン病は当時、不治の病である。失明の恐怖と、からだが膿み腐って自由が利かなくなっていく中で彼らはどのような思いを抱いて筆を走らせたのだろう。明日とも知れぬ限られた命の中で燃やしたその情熱はあまりに透き通っている。

 川端康成に見出された北条民雄の「いのちの初夜」がこの本の巻頭を飾っている。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000997/files/398_42319.html

 私小説とはすなわちノンフィクションである。これは自殺を試みたことがなければ書けない小説だ。個人的には山岡響の「梨」もグサっときた。らい病に侵された弟を兄が汽車で療養院まで送っていくラストシーンで、おれの頭の中にはなぜかマイケル・ナイマンの「The departure」が流れてきた。




 気になって、この曲を調べてみたら映画『Gattaca』のサウンドトラックだった。私はこの曲をなにかで知っていたけれど映画のことは全然知らなかった。集合無意識が私にメッセージを送ってきたみたいだ。

ガタカ [DVD]





 いわゆる職業小説家の小説なんて所詮はみんな与太話、ホラ話だ。人気作家のベストセラーなんてこの本の前に何の価値も持たない。らい文学は事実に基づいている。脚色はあるにせよ、これは現実に起こったことなのだ。

 私は後世に生きる人がハンセン病のことを知り、彼らが著した小説を読むことで彼らの命に永遠の意味を与えると信じる。ハンセン病患者の命は生まれて来ないほうが良かったとか、意味のない人生だったとか、知りもせずにそう決め付けることこそ彼らを抹殺することだ。たとえハンセン病患者自身がそう思って死んでいったとしても後生の人が彼らの存在を知ることで、彼らの命はゆるぎない価値を得て今でも生き続けているのだから。

 これはひろく読まれるべき、読み継がれるべき本である。私自身も「死にたい」と思うときは何度でも読み返そうと思う。

初期文芸名作選 ハンセン病に咲いた花 戦後編 (ハンセン病叢書)




 

 看護師の宮子あずさが書いた本は全部良いが、


訪問看護師が見つめた人間が老いて死ぬということ





看護婦が見つめた人間が病むということ (講談社文庫)





看護婦が見つめた人間が死ぬということ (講談社文庫)





続 看護婦が見つめた人間が死ぬということ―すべての人が生きる意味を教えてくれた





 これらはあくまで看護師の視点で結論や正解を求めず淡々と体験した事実を書いているのがいい。いずれも最後まで家族とうまくいかなかったり、キューブラー・ロスによる死の受容モデル(@否認と孤立、A怒り、B取り引き、C抑うつ、D受容)において受容に到らなかった患者達の話が中心なので読んでいて暗澹たる気持ちになる。だがこれも人の一生なのだ。生き方が死に方を決めるわけでもないし、死に方によって生き方が裁かれるのでもない。そうした病の現場、死の現場は各家庭や施設に押し込められ日常から隠されすぎている。生老病死というありふれたものを本で知るしかないというのもおかしな話だが、人生をナメくさった青少年の読書感想文に打ってつけだろう。



 もうひとりあげるとスーパー職人・岡野雅行。このおやじは物理学者が不可能だと言い切ったことをやってのけた男だ。いつくか違う出版社から本が出てるがほとんど一回のインタビューの焼き回しなので、一冊読めばいい。一番うまくまとまっていると思うのは


人生は勉強より「世渡り力」だ! (青春新書インテリジェンス)




 語り口が小気味良く、人生で本当に必要な知恵を教えてくれる。読みやすさは理解しやすさである。難解さとは著者による理解される努力の放棄である。一般向けにその知識と経験を本にする目的は何か。「読者との共有」でないのならその情報にどんなに価値があろうとも出版する意味はない。


 以上を基準に選んでいけば外さないだろう。




 小説は薦めてないが永井荷風『つゆのあとさき』は別だ。

つゆのあとさき (岩波文庫 緑 41-4)





 文章が非常に流麗で澱みがなく美しい。内容的にも平成時代の人間と齟齬がなく、これが1931年(昭和6年)に書かれたということに驚く。美しい文章を書けるようになるためには美しい文章とは何かを知らなければならないのは言わずもがなだ。




■謙虚さという美徳を失わないために

 男には、会社組織の中核を担うようになったり、業界で一目置かれたりし出すと、運や他者の助力を忘れ、まるで王様にでもなったかのようにふんぞり返るのが多い。私は自分のいる世界の常識だけでもって世の中を、他人を、バカだなんだと批判するおじさんにはなりたくない。世界は広い。自分の常識だけで、自分の知識だけで、世界を決めつけてはいけない。私は自分の知らない世界、生き方をもっと知りたい。ゴーギャンの問い『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を知りたい。

 これからも読書しつづけるつもりだ。(寸)
タグ:読書
posted by 駿附逑ケ at 23:28 | 日帖 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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