気づきがあるだけの世界で生きている自覚について

2017年04月20日

気づきがあるだけの世界で生きている自覚について

 今、母が4月1日から入院していて毎晩見舞いに行っている。内科の診断では膵臓がんのステージ3で転移はしていないということで、明日は、朝から手術だ。手術は8時間かかるということだが、手術中は病院で待機してほしいと言われているので明日は一日病院にいることになる。

 母は黄疸と流動食しか食べられない以外は健康そのものなので、おれも母もあまり癌という実感もないまま今日まで過ごした。見舞い中は退院後に意識を向けてもらおうと旅行の話などをしたが、母は考えられないようで、昔話をよくしていた。

 母はおれの幼い頃のこともよく覚えている。おれは断片的にしか覚えていないが、仕事をしながらの育児の大変さは当時は全然わからなかった。こどものころは母に対して寂しさや怒りがものすごくあったが、今思うと、母も泣きたいこと、嫌になることがたくさんあったんだろうなと思う。たまたまこのような人生になったけれど、ifはなかったんだろうなと思う。


 母が入院している病院は数年前に亡き父が入院した病院と同じということもあり、当時のことも思い出す。おれはいつも面会時刻の過ぎた夜8時から夜9時までいたが、看護婦は何も言わなかった。筋力が落ちないように、病院内を歩くのに付き添ったことが昨日のことのようだ。

 おれは今、病気になるのはたまたまという気がしてならない。自分が病気をした経験もそうだし、親が病気になることでもそうだが、理由なんて本当には何もないんじゃないかと思ってる。医学も唯脳論も唯心論も世界と人間をわかった気になっているが、実際のところ、人間は「自分のことも世界のことも何もわからない」というのが現時点の正しい認識ではないか。

 たまたま放りだされたわけのわからない世界だからこそわかり易い答えを欲するのかもしれない。弱さ、愚かさ、罪の自覚のない人間は。


 本当はただ気づきがあるだけの世界がおれには見える。この世界には病気というものがあり、いつも誰かの人生に問いかけている。こんな不条理で不可思議な世界に放り出しておきながら「さぁおまえはどう生きるんだ」と問いかけている。おれの人生にいつもなんらかの心的態度をとることを迫ってる。

 病気は愚かな自分も教えてくれる。根拠もなく80代まで生きられると思ってる自分がいることを教えてくれる。これだけ人は病気になるんだ、明日は誰にわからないんだという現実を目の当たりにしているのにもかかわらず。

 その性懲りのなさに自分を愚かしく感じる。

 
 幼いおれはただ母にわかって欲しかっただけだということにも気づいた。

 
 正しさばかり求め、期待ばかりしていたことにも気がついた。

 
 おれもまた母を理解しようとしてこなかったことにも気がついた。

 
 おれが母に求めていることは仲たがいじゃない。わかりあうこと、認め合うことだ。


 いまさら気がつくなんて、煩悩具足の凡夫とはおれのことをいうのだろう。(寸)



posted by 駿喆咲道 at 00:23| 生き方と哲学 | 更新情報をチェックする








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駿喆咲道@suntetusakudu

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

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I produced this template on August 29,2017.


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