著者:駿附逑ケ | 1978年,東京生まれ。



『招かれざるグリヨン』補 〜一寸先は未知 ‐宇宙に衝撃を与えよう‐ Stay hungry,Stay foolish!!〜

2011年11月08日

『招かれざるグリヨン』補 〜一寸先は未知 ‐宇宙に衝撃を与えよう‐ Stay hungry,Stay foolish!!〜

『招かれざるグリヨン』破 〜鬱から抜け出す方法〜 後編

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「10月5日に亡くなったApple Computer共同創業者スティーブ・ジョブス氏に哀悼をこめて」


 一寸先や闇ではない。未知だ。未知には一切の可能性が包摂されている。だから未知には危険もあるけれど希望だってある。なのに過去や現状で自分を評価し未来を想定してしまうと、その一切の可能性を包摂している未来に対して、たった一つの可能性しか見えなくなってしまう。それでは未来に希望を抱けないのは当然だ。そのたったひとつの可能性が希望のあるものならよいが、そうであることは極めて稀なのだから。

 私は、過去や現状で自分を評価し未来を想定するのはもうやめようと思う。それは私から希望を奪い「できない思考」に陥らせるだけだから。これからは未知なものに対してまずは心を開いてみることにしよう。希望は過去ではなく未来にしかないのだから。
(*犯罪や詐欺の臭いがするものや、思慮深さに欠けるものに心を開くつもりはこれまで同様、毛頭ないのは言うまでもない。)

 これは一大決心ではない。誰かにとっては反証できることかもしれないが、他人の意見なんかどうでもいい。私は自分の推論に納得できたし、直感もイエスと言っているから、この結論に従わない理由はない。それにもう鬱はイヤだ!!

 ここ何日か私は「過去や現状で自分を評価し未来を想定しない」、「未来や未知なものには危険だけでなく希望も含まれている」ということに思いを廻らせている。それが功を奏したのか、今は鬱から抜け出せたような気がしている。まだ疑心暗鬼ではあるが。

 未知に心を開くことは、たとえどんな職業や生活であってもできるだろう。なぜかというと、自分の裁量が及ぶ範囲で未知を探ってみればいいだけのことだからだ。iPhone4Sを買うのでもいいし、行き先を決めずに電車に飛び込む、否、飛び乗るのでもいい(失敬)。サラリーマンなら顧客や上司をギャフンと言わすにはどうすればいいか、そう問うだけで未知の領域は出現する。あるいは家事のような単純作業であっても、もっと楽するために効率の高いやり方を思いつく限り試行してみればいい。まだ実現していないことは何であれ未知なんだ。
 誰も考えてもいなかったことを可能にしたなら、株も給与も男っぷりも女っぷりも、なんだって上がるっていうもんだろう。

 もう少し卑近な例をひとつあげておこう。私の知る限り私の父親は鬱になったことがない。父は金属加工の職人で、引退した今でも絵を描いたり、日曜大工をしたりしてものづくりに余念がない。現役の時は『誰にもマネできないものをつくる』というのが信条で、自分の腕に異様なほどの自信を持っており「こんなすごいものは俺にしかつくれない」と言っては、どんなに自分がすごい技術者であるかを語って聞かせるのが常だった。実際、腕は確かなようで、どこの会社でも技術的に無理だと断られた品物をやっつけてしまうので、業界では頼みの綱だったようである。だけれど不思議なことに後継者を一人も育てることができなかった。私がなぜ後身の指導ができないのかと質問すると父は『自分の腕は一代限り』だからだという。品物は毎度違うし、ミリ単位の正確さを求められる技術は自分の身体に感覚と共に染み付いているものだから、言葉で伝達できないのだという。職人は、経験を積みながら、覚え、身に付け、自分で工夫し、場合によっては道具も自作して、素材と対話するより他ないのだという。
 つまり父の仕事は毎回、未知へのチャレンジだった。「誰にもマネできないものをつくる」というのは「まだ誰もやったことがない」のだから「自分もまだやっていない」ということだろう。職人は人が既になした方法や、他の職人でもできることを嫌う。それは「自分にしかできないこと」を追い求めているのではなくて、それが並みの職人じゃできない品物だということに好奇心を持つから、「自分がそれをやりたくて」チャレンジするのだ。
 ここに鬱になる人の思考の癖と、ならない人の思考の癖がはっきりと見出せる。それは、鬱になる人は「自分には何ができるか」を考えて生きていて、鬱にならない人は「何がやりたいか」を考えて生きているということだ。つまり「自分には何ができるか」を出発点にしてしまえば、「これしかできない」とか「これならできる」、「こんなこともできない」という結論しか出てこない。でも「何がやりたいか」を出発点にすれば、いくらでもテーマは存在するし、「ではどうすればできるか」を考えれば自ずと道は開けてゆく。

 結果がわかりきったことに人はやる気を出すことができないし、興味を持つことができない。負けるとわかっている試合や交渉、結論ありきの議論や会議は、どれも退屈で惨めな気分にさせる。どこにも創造性というものがない。「自分には何ができるか」という問いかたはそれに近い。答えをあっという間に閉じさせてしまう、可能性を極度に限定させてしまう。それに対し「何がやりたいか」という問いは可能性を無限に広げてくれる。
 なぜ「問い」ひとつでこのような違いが出るのか。それはひとえに問いの持つ方向性の違いである。「自分には何ができるか」と考えるとき、人の意識は自分へと向かっている。そしてそこに漂っている時間は過去と現在である。一方「何がやりたいか」と問うと、人の意識は自分を離れて未来へと向かう。「何がやりたいか」ということは、すなわち「未来にどうありたいか」ということと同義だろう。だから、「何がやりたいか、未来にどうありたいか」という問いには「過去や現在の自分」がどうであったかは、なんら関知しないし、意味を持たない。だからこそ可能性が満ちてくるのだ。故に「自分には何ができるか」「何がやりたいか」、この二つの問いの違いは人を鬱にするか、しないかの分水嶺と言えよう。

 「自分には何ができるか」なんて、それをやってみた後に「こんなことができたと『気づけばいい』」。やる前から知っている必要なんてないんだ。


「まだ誰もやったことがない」。職人にしろ、芸術家にしろ、研究者にしろ、それはある意味、神の領域への参入に等しいものだろう。神の領域は人間のままでは入ることはできない。神業を為すには神がかりになって鬼神と人が協働するより他ない。だから人は至高の技術や芸術、前人未到の記録や事業をなした者に神を見る。そして、そういう仕事は人を魅了してやまない。
 
 10月6日、アップル社の元CEOスティーブ・ジョブスが56歳という若さで人生の幕を閉じた。スティーブと言えばアップル信者から『神』として崇められている男である。訃報を受けてスティーブが2005年にスタンフォード大学で行った講演をあらためて拝聴してみた。↓

 http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html  

 「過去や現状で自分を評価し未来を想定しない」、「未知の可能性を希求しチャレンジし続ける」というのはまさにスティーブのことだろう。そうでなければマッキントッシュやiPhoneのような革新的なメカはつくりえない。

 講演の内容を要約すると、だいたいこんなこと言ってるようだと私は受けとめた。

「人生には失敗や挫折、蛇足と思えることが多い。しかし夢や目標を持って生きてさえいれば、それを達成したときに過去を振り返ってみると、その点でしかなかった失敗や挫折や蛇足の数々が実は線でつながっていて、成功への道しるべになっていたことに気がつくだろう。すなわちいかなる経験であっても、自分が達成しようとしていることの資源になりえるのだ。だから失敗や挫折を理由にあきらめてはいけない。蛇足に思えることでも興味のあるなしに関わらず、ともかくチャレンジしてみることだ。だが人生は短いということには心を留めておこう。まだ何も成し遂げていないうちから現状に満足したり、誰かの親切な忠告を真に受けたりして、自分や目標を見失わないようにしよう。明日死ぬと思えば怖いものなんて何もないんだ。誰がなんと言おうと自分のやりたいことに忠実であれば、直感はかならず正しい判断を下し、進むべき道を指し示してくれるだろう。」

 スティーブが17歳のときから明日死ぬかもしれないと思いながら生きていたことに驚嘆する。私はそういう強い意志を持って生きたいとは思わない。私も死に掛けたことはあるけど、@死ぬか、A死んだように生きるか、B死ぬ気で生きるか、と問われたら、どれも選ばず、C未知を求めて生きることを選ぶし、時には無為に過ごす日々があったていい。人は誰でも死ぬのなら、人生という道は帰り道だ。なら寄り道しないなんてMOTTAINAI。
 
 私は夢や目標ではなく「問い」を持って生きるほうが人生は面白いと思う。なぜかというと「問い」は、なんであれ答えが出るまでは解法も答えも未知なのに対し、夢や目標というのは、明確なビジョンがあるから持つものであり、そのビジョンは既存のものからのインスパイヤだったり、単にあこがれによるモノマネ願望であることが大半だからだ。しかもそれを達成するためのプロセスも容易に想定できてしまう。
 まぁ、夢や目標にも2つあって、1つは今言ったように既存の職業へのあこがれ、たとえば弁護士だとかパン屋だとかになりたいというのは、弁護士やパン屋という既知の存在があって、それになるためのプロセスは、六法全書を暗記するとかパン屋で修行するとか予めやることが決まっている。ゴールへのプロセスが誰であっても一本道と言っていい夢や目標だ。
 もう1つは、スティーブみたいに夢や目標そのものが常識を逸脱しているもの。一切の有害な放射性物質を一瞬で無害化するテクノロジーの開発とか、世界平和の実現だとか、常人にはイメージさえできないしバカにしかされないけれど、本人には明確なビジョンがあって、ゴール自体に前例がないために、そのプロセスが未知な夢や目標だ。

 普通の職業にあこがれるにもいろいろ事由はあるし、弁護士やパン屋はなくてはならない職業だから、そのほかカタギの商売をしたり、目指したりする人は立派だと思う。けれど、やっぱり先が見えていることって面白くないなと思ってしまうのも然りである。まぁ、弁護士やパン屋であってもなろうとしている本人にはその過程や仕事で経験することはすべてが初めてのことなのだから未知には違いないが。
 いずれにせよ職業は手段にすぎないはずで、世の中から不正や冤罪を根絶したいから、その手段として弁護士になろうとしているのか、親が弁護士だからとか給料がいいからなりたいというのではモチベーションが違う。これはダニエル・ピンクの言うモチベーション2.0と3.0の違いだろう。つまり金銭などの物理的報酬や名声を動機にしているのか、自己の内面の衝動に突き動かされて純粋に好きでやりたくてしかなくてやる人とでは、同じ職業の人であってもその創造性に雲泥の差が出てくるのである。東京にはパン屋なんてそこいら中にあるが、ほんとうにおいしいパンを焼くジャムおじさんがいる一方で、可もなく不可もないパンを焼くバタ子さんがいるのは、ひとえにモチベーションの質の違いなのかもしれない。
 スティーブはもちろんモチベーション3.0の人だった。「宇宙に衝撃を与えたい」とまで言い放ち、実現したら世界を変えてしまうThink Differentなデカい夢を本当に実現してしまった。彼はテクノロジーで世界を変えたのだ。タッチインターフェースには宇宙人だってぶっ飛んだに違いない。

モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか




 なぜ誰もがスティーブのように自らの信念と直感に従ってやりたいことを追求する人生を送れないのだろう。それは単に経済的な事情かもしれないし、実現が難しいと言ってしまえばそれまでだが、教育にも原因があるのではないか。日本の教育システムは過去や現状で自分を評価させることを徹底して、立派な従業員として「これならできそうなこと」を目指すように出来上がっているし、「やってみなきゃわからない」を夢みて前人未到の道を行けと本気で言う大人もこの国には少ない。居たとしても、その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されてしまう。だからスティーブのような人間を尊敬することはできても、自分にもできるとは思えないし、やってやろうというバカな奴が出てこない。居てもそういうバカは日本が住みにくいからみんな海外へ行ってしまう。


 だがそれも3・11後の日本では昔のことになりつつあるかもしれない。今、日本には「バカな奴ら」が陸続と増えてきているのだ。メロリンQで一世風靡した俳優・山本太郎は事務所をやめて廃業覚悟で反原発、脱原発の活動に精を出しているし、朴訥とした口調で人気の戦場カメラマン渡部陽一は「夢は世界平和の実現」と公然と言い放ち危険も顧みずに戦場を駆け巡っている。Stay hungry, Stay foolishってこういう奴らのことを言うのでしょう、スティーブさん?



渡部陽一 / このたたかいがなかったら http://www.youtube.com/watch?v=jru8LFCCq0w


 あるいは何人もの無実の人をありもしない罪で罰してきた検察や司法への不信は小沢一郎が法廷に引っ張り出されたことでMAXに達し、かさねて原発のシビアアクシンデントによる政府や東電への不信から、大本営発表でしかないテレビやマスメディアは嫌われ、ママさんたちがネットワークを結成して独自に情報を収集し、安全な食材を求めて奔走するようになったり、Twitterのようなソーシャルネットワークに本当の情報を求める人が増えている。それによって上杉隆氏や金子勝氏を筆頭に、自由報道協会や東京新聞のような成熟したジャーナリズムが評価され、真の民主主義に日本人は今、目覚め始めている。去る9月19日には大江健三郎氏らの呼びかけに6万人もの人が応じて反原発および脱原発を主張するデモが催されたのも記憶に新しい。
 こうした流れを見ていると、アラブの春とは違うが日本は日本なりのやり方で特に中心もないままに革命遂行中なのかもしれないと私は思えてならない。未来に希望はまだある。誰がなんと言おうと私はそう信じたいし、自分でも何かやってやろうという気持ちに突き動かされる。


 さて、話がだいぶ逸れた。いずれの夢や目標にせよ、もし何かやりたいことがあるのなら人生そのものが夢や目標を追いかけるためだけのものになってしまわないようにも留意したい。スティーブは、夢や目標のために家族やプライベートを犠牲にはしなかったようだし、プロセスを限定するようなこともしなかったようである。夢や目標は一個に決めたとしてもそれに至るプロセスは決める必要はないのだ。裏道でも横道でも砂利道でも道は道である。スティーブは決して寄り道を進めているわけではないけれど、道をひとつに限定してしまえば、その他の夢や目標に到達できるかもしれない可能性のある道をすべて切り捨ててしまうことになる。プロセスを限定することやあれこれ条件をあげつらうことは夢や目標の実現を妨げる結果にしかならないのだ。
 予断だかこれは配偶者選びにも言えることだ。理想に合わないからと、見ずに捨てたその他の99%に本当に価値のあるものが含まれていたら取り返しはつかないだろう。100個の玉手箱があって、一個しか財宝が入った箱がないとしたら、ひとつしか開けないより、全部開けてみた方がアタリを引けるに決まっている。未知は可能性を常に100%にしておくことなのだ。 

 どんなことでも始めたときは未知でも続けてゆけばいつかは既知になる。既知になったものには関心は薄れ、心は自然とそこから離れてゆく。そしてまた新しい未知を見つけると興味をそそられ、続けてゆく。学究的ないし創造的人生というのはきっとその連続なのだろう。

 そんなら学者やクリエイターは鬱になってる暇なんかないやねぇ。

 「Stay hungry, Stay foolish!!」

 あぁっ、私はそうしよう。



禅と林檎 スティーブ・ジョブズという生き方




Think Simple―アップルを生みだす熱狂的哲学




夢をかなえる方程式 (Forest2545Shinsyo 43)









 
posted by 駿附逑ケ at 21:00 | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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