『招かれざるグリヨン』破 ~鬱から抜け出す方法~

2011年10月05日

『招かれざるグリヨン』破 ~鬱から抜け出す方法~

 暦は10月となり、秋の気配が夏の面影をどこかに追いやって、金木犀の香を漂わせている。夜ともなれば肌寒く感じるようになった空気が、私の意識を私の心へと向かわせるようだ。ここのところの私は、何か大切なものを失ってしまったような、それでいて何か新しいことが始まったような、なんとも説明のしようのない気持ちになっている。
 
 ブログを更新をしたくなるのは、そういう説明のつかない思いに説明をつけたくなったときかもしれない。ここしばらく放置しているSNSの訪問者が先週の木曜日に30000人を超えた。始めたのは2009年4月だが、そのあいだ絶えず利用していたわけではなく、一年弱くらいは放置プレイにしていたから、実際の活動期間は一年半ほどである。だからというわけではないが、この数字はおそらく少ないのだろう。単純に計算しても一日平均55人しか訪れないのだから。SNS内でブログも書いていたが、アフィリエイトや商用利用ができないため、自身の興味関心を追求することに終始した。それなりの質と量のあるブログを書いてきたつもりだが、私の興味関心は、やはり一般的ではないようである。

 そもそも私がSNSを利用し始めたのは「SNSとはなんぞ」という素朴な疑問だった。この問いの省察については以前、私のブログ「仮想凶気 ―clubbed to death―」全九章で詳しく書いたので割愛するが、実際に利用してみると、会ったこともない顔も名前も知らない人達とのテキストによる交流はそれなりに面白みがあることがわかった。だが、サークルやリア友を探しているわけではないので多くの人と積極的にコミュニケーションを図ろうというようなこともないまま、放置プレイの末に昨年の今頃、SNSをやめようと思ってブログをシーサーに引っ越した。どうせ書くならアフィリエイトをやって一円でも稼げたほうがモチベーションが違う。シーサーブログのアクセクアップのためにもSNSを完全にやめるということはしなかったが、ブログを引っ越した直後にできたお気に入りのネトモ(♀)が6月の末にフェードアウトしてしまって、ここ3ヶ月ほどまたやる気ナッスンに陥って放置プレイにしている。正直もういいかなぁと思うのだが、彼女がひょっこり戻ってくるかもしれないと思うと、やめる踏ん切りがつかないでいる。

 始めるというのはそんなに難しくない。ブログにしろ、お稽古事にしろ、節電にしろ、なんにせよ、今すぐ始められることや、なんとなく始められることはたくさんある。私は8月の終わりにTwitterを始めたが、それもそのうちのひとつだ。だがその逆はどうか。原子力発電や放射能漏れみたいに今すぐ終わらせたいことは山ほどあるが、今すぐ終わりにできたり、なんとなく終わりにできたりすることってあるだろうか?

 恋愛の場合、今すぐ終わりにできたり、なんとなく終わりにできたりすることはない。終わり方によっては未練や禍根を残すことばかりだ。それは「人の気持ち」というような「不確かなもの」が関与するからだろう。なぜ「人の気持ち」は不確かか? それは心が空のように「どこからどこまで」と区切ることのできない全体性を持ったものだからだ。いわば心はデジタルではなくてアナログなのだ。3・11の震災で不幸にも家族や親しい人を亡くされた人たちがそうであるように「気持ちに区切りをつける」ことなど本来できないことなのである。

 私がやめるタイミングを計っているのは「たかがSNS」だが、それに費やしてきた時間と労力にはそれに見合う思いが込められている。ゆえに「やめる」という行為が「その時間と労力に見合う思い」までも自ら『無』にしてしまうようで虚しく思えてならない。これはモノが捨てられないで溜め込んでしまう人の心理と同じ理屈だろう。それがなんであれ「その時間と労力に見合う思い」が強ければ強いほど対象が身体化している度合いも強く、やめたり、捨てたりすることが自傷行為と同じ意味を持ってしまうのだ。無論、何かをやめたり、捨てたりすることにそんな意味づけをすることはナンセンスである。だが「心という不確かなもの」は情動の干渉から容易には逃れられない。有能な人ほどポストにしがみついて晩節を汚してしまうことがあるが、それも『その時間と労力に見合う思いの身体化』のなせる業なのだろう。

 だからこそ引き際に美学があるというのも合点がゆく。「空」にだって、あっちは東で、そっちは西というようなコンパスがある。それは道を指し示してくれる智慧である。だが智慧は万能ではない。あくまで「仮」のものである。智慧は夜道を照らす提灯にはなれど、夜を昼にはしてくれないのだ。どうせ夜道をゆくのなら提灯があれば便利というだけの話だ。そもそも昼間のうちに道をゆけば提灯なぞいらぬ。暗くなったら朝が来るまで眠ってたっていいではないか。



  里遠く いざ露とねん 草枕 



 私は近頃この幸田露伴の句が今の私の心情にしっくりくるような気がして気になっている。露伴は北海道余市の電信所に勤めていたとき、坪内逍遥や二葉亭四迷の活躍を知り、文人になる夢を抑えきれなくなって出奔した。その東京に帰る道すがら、彼は一文無しになって路上で一夜を明かした。その時この句を詠み、以降「露伴」と名乗るようになったという。そうした経緯を知ると情景が浮かんでくる。歩き疲れて路上に寝転んだ露伴は満天の星空を目にしたのだろうか。夢に向かって家に帰ろうとしているとはいえ、虫やらカエルやらの騒々しい鳴き声に包つまれて、疲れ切ってたったひとりで路上に寝転んでいる人間の気持ちとはどんなだろう。それは不安や寂しさや後ろめたさなどが入り混じった実に混沌として説明のつかない「不確かな心」ではないか。その発露としてのつぶやきを私は露伴の句に感じるのである。...否、私自身の中に潜んでいるそのような「不確かな心」を投影してしまうというほうが正しい。
 

 私は前述のように今年の7月頃から鬱々とした気分に沈んでいた。理由はネトモ不在ということだけではないのだけれど、何をするにもやる気が出ず、日々を無為にやり過ごしていた。そんな8月29日。予期せず私の心のドアを開くようなベルが鳴り響いた。夜、家に帰ると私の部屋の中でコオロギが鳴いているというアリエンティなアクシデントが起こったのである。いったいどこからやってきたのだろう。朝、網戸にしていた窓はちゃんと閉まっているから、家の中にコオロギが入ってくるとしたら私の部屋以外の窓か玄関しかない。そして私が家を出たときにはコオロギはおらず、帰ってきたときにはいた。したらば日中、家にいた母親に嫌疑を向けるのは当然である。


 『コオロギの一匹や二匹たいしたことじゃないわよwwあっはははははーっ!!』


 私が自分の部屋でなぜかコオロギが鳴いていると母親に告げるなり、母親は即座に笑い飛ばした。母親の田舎に帰省すると、夏はすべての窓を開けっ放しで、カナヘビが走り抜けて行ったり、風呂場の天井にはカエルが張り付いていたりした。だから母親にとっては部屋の中でコオロギが鳴いているくらい「普通の現象」のようであった。だが東京育ちの私にとっては生まれて初めてのことであったし、コオロギは一匹しかいないようだけれど、かなりの勢いで鳴いていて煩いっ! タンスの裏に入り込んでいるらしく掃除機で吸っても出てこない。声はすれど姿は見えぬ、まるで屁のように捕まえようのない野郎だ。仕方なく諦めて床に就いたが、コオロギは移動しているのか、あるいは鳴き声が反響しているだけなのか、次第に耳元で聞こえるようになり、親父のいびき同様、公害というより他なかった。
 寝付かれない私はなんとなくPCを開いた。この不可解な出来事を記録するためにも誰かにメールしようと思ったが、その時たまたまTwitterの存在が頭に浮かんだ。

  

 「部屋の中でコオロギが鳴いている(汗)」 8月29日(月) posted at 23:35:18


20070105152524-4.jpg
ヨゼフ・パレチェクの絵本 http://inada-film.com/anime/anime.html より


 Twitterの始め方としては本当にくだらないし、どうでもいいことなのだが(笑)、私は今日までなんとなくTwitterを続けている。芸能人に限らず多忙な著名人の場合、ブログだと宣伝的内容が多くいかにもスタッフが書いている気がして読む気も失せるが、たとえば全日本ポジティ部部長・ベッキーのリアルタイムでプライベートなつぶやきを見ると、確固たる証拠はないけれど本人による発信だと確信させてくれる。また、Twitterのあたかもメールボックスを公開しているようなシステムは、コミュニケーションのリアリティーをテレビなんかよりもはるかに強いものにしてくれる。それによってTwitterには著名人と一般人を同じテーブルにつかせてしまう力が働いているようだ。テレビだけでなく、ブログにしろ講演やライブにしろ、発信者というのは大企業の社長や政治家やアイドルなどであり、一般人は受信者になりがちであるが、Twitterは有名無名を問わず発信者にもなり受信者にもなれる「場」なのである。しかもテレビや大手新聞が報じない「本当のこと」という空気が満ちている。たとえば上杉隆を筆頭とする自由報道協会のメンバーや慶応大学教授・金子勝の発信する原発や金融に関するツイートはその典型だろう。ただしこの空気は知性的な空気だから、人種差別や人格攻撃を伴う発言者は自然淘汰されるようである。マナーは現実と変わらないのだ。

 友好的コミュニケーションの場であるSNSでは原発や政治の話は荒れるから御法度だったりするし、タブロイド的でアグレッシブな2chに比べ、Twitterのリベラルな気風には、ようやくネット上に自分の居場所をみつけられた思いである。今はまだ自分のツイートのスタンスを模索中だが、これから積極的に発言し、いろんな人と繋がっていけたらと思う。
 
 さて、Twitterの評論に関してはこのくらいにして話を元に戻そう。私は近ごろ気分が沈んでいた。その理由はどう考えても自分の将来に希望を見出せないからである。だが、それは自分の過去や現状で自分を評価し未来を想定しているからだと気がついた。個人の未来はその人の現状や過去だけで決まっているのではなく、社会情勢や偶然などの不確定要素でいくらでも想定を裏切るものだ。私たちは3・11の地震と津波、そして原発のシビアアクシデントで身をもってそれを体験した。未来はいつだってわからないのである。だけれど不確定要素で不幸になるのなら、幸福にだってなれることもあるのではないか。そう思ったとき私の心に少しだけ光が差してきたように感じた。未来には幸も不幸も起こりえるはずなのに、私は未来に起こりえる不幸にばかり意識をフォーカスして、起こりえる幸福についてはまるで忘れ去っていたのである。
 そんなことでは将来に希望など持てようはずもないの当然だ。私は思い直して、ともかく自分の過去や現状で自分を評価し未来を想定するのはやめようと思い立った。そんなことをしても意味がない上に将来に対する希望を失うだけだし、私は世の中に起こる一切ことから独立して存在することはできないのだ。政治も経済も他国の影響を免れないし、自然災害は地球が起こすものなのだから、個人の運命は誰であっても世界全体で決まっているといっても過言ではないのである。
 
 蛇足だが未来が自分の過去や現状で決まらないというのは運命決定論からも支持されるだろう。もし仮にいつ生まれてどのように生きて死ぬのか定められているとしたなら、尚更、過去や現状で自分を評価し未来を想定することはナンセンスである。
 さらに言えば過去や現状に基づいて自分を評価し未来を想定することは数ある可能性をたったひとつに絞ることに他ならない。学生が就職活動でやっていることはまさにそれだ。自分はどんな性格で、どんな職業につくのがいいのか、その答えを導きだすのに自分の過去が資源とされている。自分がなりたいものや、やりたいことから進路を決めるのではなくて、自分はこういう経歴のこういう人間だから、こういう仕事をするのが相応しいという発想で、自分がなりえるものなろうとする...果たしてそこに希望はあるだろうか。私も就職活動をしたことがあるが、どの刑務所に入るのか選ばされているみたいで本当に死んだような気持ちになったのを覚えている(爆)。未来の可能性が限定されてしまうことは人間にとって苦痛でしかないだ。だからこそ懲役や終身刑は懲罰たりえるのである。
 ではその反対に可能性になんら制限を加えないとどうなるか。たとえば楽しい妄想に浸っているときを思い起こされよ。私が何者であるか、どんな人生を歩いてきたか、なんて考えもしない! 妄想はどこまでも自由でハッピーなのだ。同じように未来に対しても、無限とは言わなくても未知の可能性を前提にするなら、人は希望を持てる...じゃん!!

 露伴は中学を中退した後は、数えで14歳のとき今でいう青山学院大学に入るがこれも中退し、その後は図書館に通ったり兄に俳諧を教わったり、私塾に行って勉強した。そして数え年16歳のとき給金をもらいながら逓信省電信修技学校で学び、電信技師となって卒業とともに北海道余市に赴任した。当時の電気技師は公務員だから露伴がそのまま電信所に勤めていたら定年まで安定した給料をもらって、可もなく不可もない人生だっただろう。でも露伴は作家になることを選んだ。そして実現した。露伴は自分の経歴で自分の限界を決め、現状から予定されている未来を生きることを選ばなかったのである。
 露伴を支えた情熱はなんだったのだろう。それはきっと未知の可能性への期待だったのではないかと私は思う。サラリーマンの可能性は既知のものが多いが、作家という職業には未知の可能性しかないと言っていい。未知には危険が憑き物だけれども、退屈しかもたらさない既知とは違って未知には希望もあるのだ。私がすでに既知となったSNSに興味を失い、やめどきを計るようになり、替わりに未知の世界であるTwitterに足を踏み入れたのだって、そこに希望があるように思えたからこそである。あるいはテクノロジーや医学が進化しつづけているのだって、未知の可能性を希求しチャレンジし続けるからに相違ない。
 露伴は日本の道教研究のパイオニアでもあるが、道[タオ]の働きのひとつに「未知」があることを理解している私からすれば、露伴の転身には憧憬を抱かずにはいられない。




 でも一大決心や一念発起なんて誰にでもできることではないだろう。家族の反対や経済が逼迫するのを恐れて、夢の実現に足踏みしてしまうことが多いのも事実だ。だけれど何かを始めるというのはそんなに難しいことではないし、なんとなく始めたことはなんとなく続けることもまた難しいことではない。何かを始めるならダイエットや起業みたいに一大決心や一念発起なんてしなくてもいいんじゃないか。なんとなく始めよう。それが「続けることが大事なこと」なら、なおさらだ。そういえばこの「断章体日帖」だってなんとなく始めて、とくにやる気とかは持たないままに、なんとなく続いている。
 ということはここに「やめられないことをやめる方法」も同時に見出せよう。一大決心や一念発起したことは続かず三日坊主に終わるなら「よしやめるぞ。今日からオレは変わるんだ!!」なんて気張らず、なんとなくやめたらいい。「やめること」にやる気なんかいらない。「やめる」とは「やめるということをしている」のではなく「やらないということをしている」、つまり「無為」なんだ。「何もしないこと」にやる気も努力も継続も必要ないだろう。

 なんだ、やめるなんて簡単じゃないか。なんとなくやめてみよう。ある日、綺麗さっぱりやめるというようなことは誰にでもできることじゃないし、凡人の私にもできそうにもないけど、太陽が西の地平線に沈んでゆくように自然に任せてフェードアウトするならできそうだ。一匹コオロギの野郎だって二日目には衰えて、三日目にはとんと鳴かなくなっちまったんだから(笑)。それに落日のような終わり方なら、きっと引き際を美しくしてくれるに違いない。



 それでは綺麗にまとまったところで、今日このブログを書いているうちに思いついた短歌で〆たいと思う。



  

  たよりなく ひとりかもねん そば枕  

  
  俺がいるよと 蟋蟀一匹





Meja「Spirits」


...........All I know
私が知っているすべての

Your spirit keeps living within me
あなたの精神は私の中で生き続ける

wherever I go
私がどこへ行っても

Your spirit keeps moving within me
あなたの精神は、私の中で動作し続ける

Breaking every law that I know
私が知っているいかなる法則も打ち破って

Your spirit keeps running within me
あなたの精神は、私の中で稼動し続ける

Your spirit is...........
あなたの精神よ



運命におまかせ ~いつも幸せを感じるあなたに~



posted by 駿喆咲道 at 19:29 | TrackBack(0) | 健康 | 更新情報をチェックする

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■恋愛にも新規顧客開拓にも使える出遭いの教科書
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駿喆咲道@suntetusakudu

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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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