2018年05月03日

100年残る歌、ジェンダーと実存

■なぜ歌手はクスリに手を出すのか

 これは歌手に対する最大の疑問かもしれない。昔から逮捕される者がヤケに目につく。

 前提としてプロの歌手は魔法使いの弟子ではない。免許皆伝の正真正銘の魔法使いである。曲が終わったときには観客をちゃんと現実に戻してあげないといけない。自分自身も戻ってこないといけない。

 それが出来ない者は、ただ、ただ壊れてしまうだろう。魂を吐き出したままにしていたら、精魂が尽きるのは自明だ。精魂が尽きるというのは、わかりやすくいえば腑抜け、抜け殻になる。

 精魂が尽きてしまうと、休暇をとったくらいでは、マッサージを受けたくらいでは、おいしいものを食べたくらいでは回復しない。

 なぜなら精魂とは物理的な身体のエネルギーではなくて、気の身体ともいうべき生命の根源的なエネルギーだからである。「気枯れ」はいわば川が干上がるようなものだ。そうなると普通の方法では回復しないのである。

 すると何某かの異常な方法で元気を手に入れなければならなくなる。麻薬に手を出すのが多いのはそのせいなのかもしれない。

 しかし、一度でも手を出せば、もっとアドレナリンを出したい!ドーパミンを出したい!という飽くなき欲求に取り憑かれてしまう。ガンぎまりでないと歌えなくなってしまう。マッキーもASKAもJ-WALKも、その罠にハマってしまったわけだ。

 そもそもライブという状況自体が至高体験だろう。熱狂する観客に見守られて歌うのである。気分が高揚しないはずがない。そこに病み付きになるような快感が伴っているのなら歌手という職業には中毒性があるだろう。

 しかし、何かのきっかけで、ライブで歌っていてもハイになれなくなってしまったらどうか?更年期障害や、その他、病気の影響、家庭の問題、近親者の死などで、心が動かなくなってしまったら?パニックを起すほどの不安に襲われてしまったら?新曲をつくろうにも何のメロディーも歌詞も浮かんで来なくなってしまったら?

 
 どうして薬物に手を出すのか?

 その答えを知るには実際に薬物を使用して逮捕されたことのある歌手に告白してもらうのが一番早いが、ライブの中毒性、身体疲労、不安障害、創造力の枯渇・・・そうした歌手特有の悩みが薬物に手を出すハードルが下げさせているのかもしれない。





■英語と日本語 何をどう歌うか

 ジョー・コッカーは2014年12月22日に70歳で死去したが、彼もアルコールと薬物に中毒したことがある。しかし、リチャードギア主演の映画『愛と青春の旅立ち』の主題歌「Up Where We Belong」で再起してる(この歌は実存主義と言ってよい)。

 ジョー・コッカーの『You are so beautiful』のメロディはその歌詞の通り、美しい。だから結婚式などでよく使われている。アングロサクソン系英語は、婉曲、歪曲、詩的、文学的、な表現を嫌うらしいので、このようなストレートな表現でもいいのだろうが、日本語だったら恥ずかしくて歌えないだろう。

 日本人は欧米人に比べると、パートナーに愛を表現しないし、セックスレスの度合いが高いとされている。たしかに、映画やテレビで欧米人をみていると、愛を言葉で表現すること、愛を伝える努力、ムードをつくる努力を怠ることが倦怠やセックスレスをもたらすのではないかと思うことがある。日本人はそういうことをしないのだから。



 歳をとっても、‘愛してるよ’‘綺麗だよ’と言葉で言ったり、見つめ合ったり、手をつないだりするのが当たり前の世界なら、汗だくのじじいが甘いラブソングを歌っても許されるだろう。笑

 このように、欧米人と日本人は感性が違うが、しかし、愛の前に、歌い手が汗だくのじじいかどうかは関係ない。歌手は引き際は自分で決めることができるが、スポーツ選手でもアイドルでもないのだ。その寿命は健康である限り長い。本人が歌えなくなるまで歌い続けることができる。

 何をどう歌うかということにおいて、もちろん、言語もそうである。否、英語は本質を端的に述べる言語だからこそ、本質が素直に言えるとも言える。愛する人に、「きみは美しい」というのは当たり前すぎるかもしれないが、究極的に言いたいことは、いつも、誰でも、シンプルだ。その意味において、英語は日本語よりも、本質や実存を歌うことに適している。


 日本人が歌詞に英語を混ぜたり、下手クソな英語で歌うとバカにされがちだが、英語を使うことにはこのような利点もあるのである。





■歌とジェンダー

 歌の世界はジェンダーフリーである。男が女心を歌い、女が僕になる。ジェンダー=私ではない。

 しかし、LGBTの人、GID(性同一性障害)の人はどうなのだろう。歌の世界ではジェンダーから解放されるのか?

 たとえば性自認が女性で身体の性を女性に転換した元男性は僕、オレとして歌うことに抵抗があるのだろうか?

 性同一性障害の人が、歌の世界で、

  ①精神の性でしかふるまえない

  ②どちらの性でも抵抗がない


 という2つの可能性が考えられるが、①であるなら、精神の性は、かれらにとってはアイデンティティそのものであり、夢想の世界であっても切り離せないし変質しない固定的なものということになる。

 ②であるなら、性とはあくまでフィジカルなものだろう。私は、身体の性も精神の性も男であり、恋愛対象は女だが、心で女になって、女心を歌うことは可能である。そこに抵抗感はない。なぜならそれは想像、演技だからである。

 しかし、それは私が「LGBTでも、GIDでもないからではないか」という疑問が湧いてきた。


 歌の世界は、性同一性障害の人であっても、誰であっても、性から人間を自由にする。


 のか、


 歌の世界には、性同一性障害の人であっても性自認の呪縛から解き放つほどの力はない。


 のか、



 如何に?





■歌と男らしさ、女らしさ

 昭和の歌謡曲は、女というものが「いじらしいもの」として描かれているほうがヒットしてた。わかりやすいところだと宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」、中条きよしの「うそ」。

 J-POPの時代になると久宝留理子の「男」、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」のように、女が「女らしさ」に対して独立を宣言し始める。

 するとなぜか、男のほうがいじらしくなり始めて、泣いても許されるようになる。1990年代から2010年くらいまでは中性的なジャニーズグループが隆盛を極めてモテていたし、2000年代になるとファルセット(女みたいな声)で歌うヒゲ面の平井堅が現れた。コブクロの小さいほうもキーが高かったが、いずれも男らしさではなく、ロマンチックでメランコリックな世界を歌っていた。

 これはある意味、男らしさの否定だろう。女側からの。女は女らしさを否定すると同時に、男らしさも否定したのだ。男はモテたいから、ただそれに合わせただけ。

では女が女らしさを否定したことで、男が女らしさとして求めていたものはどうなったか?

これは男へと移植された。強さよりも優しさ、励ましよりも共感、我を張ることよりも弱さを肯定できる男を女は理想として求め出したからだ。歌の世界ではいち早く、その願望が投影された。だから女に理解のある男が標準になった。

 この傾向は若い世代においては現実でも同じことが起こっている。さとり世代は争いを好まず、成功や財を求めず、そこそこの幸福でいいという。マイルドヤンキーも家族を愛し守ることが第一で、大きな夢を持っていない。また、夫婦共働きの増加に伴ってイクメンという、育児に積極的に参加する男性の存在も認知されてきた。

 つまり女が女らしさを否定したからといって、女らしさは、この世から抹殺されたわけではないのである。男のうちに同化されただけだったのだ。

 では女らしさを捨てた女たちは、男のうちから取り除かれた男らしさと同化したのか?

 たしかに、いわゆる肉食系やバリキャリとして顕現してはいるが、これは一部の女性に限られている。と、すると男らしさは男のうちに隠れているだけかもしれない。2010年代の現在、ジャニーズを駆逐しつつあるEXILE、三代目 J Soul Brothersの見た目はこざっぱりとしているが男らしい。しかしボーカルはファルセットで歌っている。見た目は男らしく、凛々しく、しかし、内面は中性的。2010年代はそんな男が流行っている。男らしさはマイルド化されることで、あるいは再評価されようとしているのかもしれない。





■音楽で自己表現することについて

 歌には2つあると思う。①自己表現②ストーリーテイリング。

 自己を表現する音楽をやるには、それだけのストーリーをもった人間でないとスカスカになる。たとえば矢沢永吉は矢沢永吉って人間はこういうことだっていうのを音楽でやってるように見える。ファンも誰にも媚びないオンリーワンの我が道を行く矢沢永吉を見たいからライブに行く。


 


 YAZAWAは生き様と歌とに齟齬がないからカッコいい。破滅型の人間ではなく苦難を乗り越える姿を見せてきたし、健康に留意し自己管理してるから60過ぎてもステージに立っている。他人の曲のカヴァーソングを出したり、お客様は神様ですなどとは言わない。慣れ合うことのない枯れることのない定年のないだろう人生というのは男として憧れる。

 自分がコンテンツになりえる人にはそれだけのストーリーがある。

 自己表現としての歌は自分が問われる。歌で自己表現するのなら、その歌への評価は歌手本人への評価となる。その逆はないと思うが、売れた途端、糟糠の妻を捨て、おっぱいが大きいだけが取り柄の女に走るような奴の歌は二度と聴きたくない。

 現在、soundcloudやYouTubeやニコニコ動画の出現によって、素人にも自己表現の場が増えた。そのほとんどは聴く人がいなくても成立する自己満足のカラオケである。そうでない少数の者はメジャーデビューの切符を手にしている。否、しかし本物の歌を歌っている者は限られる。日本の大衆歌市場においては若年者を明確にターゲットにしている都合上、ボキャブラリーのない自意識過剰な若者の歌やアイドルが歌うオジサンが作った歌が持てはやされている。

 女性を男性に選ばれる商品と位置づけた歌を当の女性、それも若いアイドルに歌わせることさえあるのだから、まったく成熟したオトナの出る幕はない。

 しかし日本には少ないとしても、世界に目を向ければ、過去を遡れば、我々の需要を満たす音楽は確かにあることがわかる。


 ちなみに自己表現の歌には概ね3つある。


タイプ1
表現内容:自己の精神世界
表現方法:自己流の技術+感性

タイプ2
表現内容:自己の精神世界
表現方法:プロの技術+普遍的な感性

タイプ3
表現内容:真理、人間、自然、愛
表現方法:自己流の技術+感性


 タイプ1は自己流で自意識だけの者である。このタイプで人の心を掴めるのはもちろんヘンタイではありえない。矢沢永吉のような成り上がりの人生を生きているような者である。つまりカリスマ性がある者である。このタイプはロックンローラーに多い。嘘のない彼らの歌は説得力を持っている。ゆえに生きる勇気を与えてくれる。

 タイプ2はプロに教わった技術と感性で自己の精神世界を表現する者である。表現内容は独自でも表現方法が誰にでもわかりやすく変なクセがないのでポップスに向いているだろう。


 タイプ3は美術館に飾られる絵画と同じである。名画というのは、

表現内容:真理、自然、人間、善、美、聖書の一場面etc
表現方法:独自の技術+哲学+個人の感性

 絵画という芸術はこの世界の美や真なるものは何かという問いを持っている。そしてその問いを、自分だけの表現、つまり自分だけの光、色で記述しようとすることだろう。

 
 名画として美術館に飾られている絵は、個人の自己主張ではない。偉大な芸術家は自己実現、自己表現のために絵を描くことはない。人間とは何か、世界とは何か、愛とは何か、美とは何か、真理とは何か、神とは何か、自然とは何か……、あくまで形而上の探求である。世俗のもめごとや政治とは無縁のものである。


 否、確かにゲルニカや原爆の図のような人間の現実の愚行を知らしめる絵画もある。ゆえに結果として作者には反戦の意図があるように思われる。しかしこれをもって芸術は作者の政治的主張の道具だというのは違う。ゲルニカや原爆の図は我々にただ問いかけているだけだ。

 結局、人間とは一体何なのだろう、と。なぜここまで愚劣に残酷になれるのだろうか、と。なぜ殺し合わなきゃいけないんだ、と。


 戦争反対!9条守れ!日本、イタリア、ナチス、鬼畜米英を許すな!おまえらもそう思うだろう。などとは言っていない。


 芸術は問いかけはしても、正しい解釈、正しい答えを誰かに一方的に押し付けるものではありえない。


 現代アートでは政治的主張を全面に打ち出すものがある。アニメや漫画や小説などでも公序良俗に反するエログロにまで表現の自由という権利があるという。ならば人間としての良心を持たぬものを唾棄するのも表現の自由である。ゆえに世界はいつもかまびすしい。


 ところが芸術界というのはいたって平穏で戦争は起きていない。芸術界は今日も平和である。それは芸術界に住まう人間には疑いようがない事実である。現に違う言語を話すもの同士でも分かり合えている。そして芸術家は、その事実を芸術によって示すことができる。

 争いが起きているのは芸術界の外なのである。芸術界に住まう人間は、争いの世界にいる人間に、早くこっちに来るようにいつも手招きをしている。芸術によって。


 これを音楽でやったのがマイケル・ジャクソンだろう。





マイケル・ジャクソンの思想




 




■歌はお芝居である

 昔の歌はストリー性が強くて、「歌=語り」と言って良かった。言い換えれば歌手はストーリーテイラー、仮想現実への案内人、役者だった。歌は芝居であり、聴くほうは映画を見る視点だった。


語り部としての歌手と役者としての歌手の違い.jpg


 今は自己を表現したものが多い。その歌を自分で聴くこと、歌うことで自分が主人公になれる歌が多い。これはJ-POPおよびカラオケが若者に浸透したのと関係しているだろう。

 ストーリーテイリングとしての歌はプロでない者が歌うことは許されない。なぜなら、プロは観客を歌の世界に引き込むことができるが、素人にはできないからだ。

 ストーリーテイリング、演技ということでいえば声優の歌う歌も同じだろう。アニソン(キャラソン)は語りとしての歌だ。無論、アニメとは物語だからである。

 私のこの主張は中島美嘉を見ればよりはっきりするだろう。私の知る限り、日本舞踏、神楽、能のような幽玄さを出せる歌手は中島美嘉の他には見当たらない。歌の世界に誘うその歌唱は、表現者というより、まるで巫女のようである。自分を依巫(よりまし)として精霊を降ろし、謡っているように見える。

 中島美嘉の場合、歌手としての自意識は役者なのかもしれない。実際、中島美嘉は役者でもある。自身が主役を演じた「NANA」の主題歌『GLAMOROUS SKY』ではナナになりきっていた。歌手にとって役者もできるというのは相当な強みだろう。歌手であるなら聴き手がナナになれるように歌うのが筋だが、中島美嘉は役者でもあるから、自分自身がナナになってナナという架空の人物を聴き手に観せてあげることもできたわけだ。

 この点も声優がキャラクターになりきって歌うのと同じである。昨今の声優は男も女もビジュアルが良いので、ファンは声優本人のファンなのか、キャラクターのファンなのかよくわからないが、個人名義でも歌手活動をする声優が多いことをみると、歌と演技はかなり近しい関係、否、同じ構造のように思う。


歌唱と演奏の練習.jpg



物語創作と演技.jpg


 私は役者ではないから正確にはわからないが、演技力は歌にも応用可能のはずだ。誰でも一度くらいはカラオケで歌ったことがあると思うが、カラオケは歌を歌うというよりは歌手になりきるものだ。なりきるとは無論、演技のことだ。だから歌手のモノマネをするモノマネ歌手という芸が成立する。






■The Greatest

 つまり、ストーリーテリングとしての音楽には2つある。(A)自分が主人公を演じてお客さんを物語の世界に入らせる、(B)お客さんを主人公にして物語の世界に入らせる。


 物語に入らせるということにおいては(イ)一方的に与える、(ロ)物語と聴く人自身の現実や記憶との融合を起こす魔法をかける。の2つがある。

 ストーリーテリングとしのて音楽は歌手の自我、性別、年齢、歌ってる私が何者であるかは関係ない。聴いてる人のそれも同じ。

 自己表現の音楽と(A)&(イ)の音楽は、解釈や答えを聴き手に一方的に与えてる。矢印が歌手→聴き手の向きしかなく、歌手が聴き手に歌を吹き込んでいる。だから下手をすると聴き手は置いてけぼりを食うか、引いてしまう。グレイテスト・ショーマンの「THIS IS ME」が受け付けない者はこれが理由だろう。『人間素晴らしい!多様性万歳!』という反論を許さないありきたりな答えをもの凄い圧力でドーン!と出されたら、私は逆に逃げ出したくなってしまう。ほっといてくれと思う。

 不安や孤独や死を真面に見つめることに耐える勇気がない人間は、己について、人生について、他者について、世界について、納得なんてありえないという現実、むしろ生きるためにこそ苦悩することを選ぶという態度を放棄し、宗教や権威や自己愛の沼に浸かってる他人から、あんたは間違ってないと言われることを好む。安易な正しい解釈、正しい答えを誰かと共有することを好む。それが救い、赦しだと思ってる。

 まぁそれが普通の人間だろう。だから「Let It Go」,「THIS IS ME」で仮そめの一体感を得て気持ち良くなりたがるのだ。



 一方、(B)&(ロ)の音楽は聴いてる人に解釈や答えを委ねる、聴いている人の気持ちを受け止めることができる。歌手と聴き手とが歌(物語)がTriangleで結ばれる。それはたとえばこのような歌である。


 


「みんなと一緒に歩く過程」にこそ、大きな意味がある――悠木碧インタビュー


 自分の人生の意味、理由に気づくことというのまさに真っ暗なステージで自分だけの音を探すような作業かもしれない。芸術家が自分だけの色を探したように。帰る場所がなくても、その自分だけの音や色、つまり真実(である愛、記憶、意味、気づき)はお守りになる。そのお守りをポケットにつめこんで握り締めて歩く人の姿は尊いと思う。私はそういう人とも共に歩いていきたい。大通りに立って「これがわたしなの!わたしを理解して!」と集団で叫ぶ者たちではなく。



 

 

■音楽はワザ(技、俳)であって楽譜ではない

 歌唱、演奏、演技は4次元をそのままつかめるプリミティブな能力、実体化できる勘が一番大事だろう。仮歌を一回聴いただけでレコーデンング一発OKできる能力と、楽譜の読み書き能力は別ものである。

 森や荒野で生きるプリミティブな人達のナチュラルな音楽は無意識領域での処理能力があれば十分だ。あの人達には楽譜なんてない。

 音楽も演技も身体性のもの。つまり、にわとりを科学的に知識として知っていることではない。にわとりをやってみろ!と言われて、にわとりをその場で演技で再現できることだ。

 音楽も演技も知ではなくてワザ(技、俳)。身体を離れては存在しえない。

 楽譜、書籍は2次元。2次元は身体を離れても存在可能。時代を超えても情報伝達共有を可能にするもの。だが音楽、演技に必須ではない。
 



■現実を生きることができる音楽

・抽象的拡張現実(普遍的身体的日常性、審美的精神性)ゆえにポピュラーたりえる
・寿命はその抽象的拡張現実の真実性が決める
・真実性によって永遠となることもあれば、運命を時代と共にすることもある
・四次元的


 クラシックなどのインストルメンタルは、たとえばドビュシーやベートベンのmoonlightのように、月夜に演奏すべき音楽であっても、昼までも目を瞑って聴けば月夜を仮想体験できる。これはその曲がひとつの独立した魂(ゲシュタルト)を持っているからに他ならない。しかしながら、インストルメンタルというのは聴く者の感情(喜怒哀楽)および時間帯(朝、昼、晩)、天候(晴れ、曇り、雨、雪)、環境(室内、野外、移動中、ヘッドホン、ホール)によって都度、曲の趣向が変わる。これは歌物でない抽象度の高い音楽はその解釈、イメージが聴く者に委ねられており、しかも解釈とイメージの自由度が高いためだ。ゆえに何度でも新鮮に聴くことができるわけだが、これはつまり、その音楽が現実を生きることができるということだろう。その曲の持つ魂(ゲシュタルト)には聴く者の精神状態と現在の時空からの影響を受け入れる余地、融合する能力があるのだ。このようにまるで意思を持って生きているような音楽を「現実を生きることができる音楽」と定義してみる。

 現実を生きることができる音楽は、災害時やトイレ中や満員電車ではさすがに聴けないとしても、ほとんどの時間、天候、環境で聴くことができる。演奏も同様である。室内でも野外でも、その時の、風、光、匂い、聴衆、共演者がつくりだすその場の空気感がむしろ演奏者にインスピレーションを与えさえする。そのインスピレーションはその曲の意味(表現、色味)を変える。その曲がもともと持つ色が青(blue)ならば、蒼、碧、瑠璃(ultramarine),cobalt,cyan,prussianといった青は青でも、都度、青の様々なバリエショーンとなって表現される。その青が、鮮やかなのか、柔らかさなのか、暖かさなのか、冷たさなのか、その時の空気感で微妙に変わる。


 昔はデジタルは無かったわけで、自明のこととしてクラシックは生演奏を前提に現実世界で人間によって聴衆の前で演じられることで完成する音楽である。音楽は精神的なものであり想像を起こさせるものだがあくまで身体からは離れられない現実存在である。生演奏の音は演奏者の身体、聴衆の身体にビンビンと響くのである。これはデジタルデータでは今のところ再現できない。アフリカや中南米の原始的民族的な音楽においてはこの現実存在としての音楽が持つ身体性が如実に表れている。それは不随意に身体を踊らせるのである。

 その曲のゲシュタルトによって、その場の空気感との融合能力には強弱がある。その度合いによって、たとえば、その場の空気感との融合のほうがむしろメインとなる音楽は、Jazz、コンテンポラリーと呼ばれる。

 芸術として認知される音楽、時代を越えて愛される音楽には、この「その場の空気感との融合能力、聴く者の精神状態との融合能力」がある。歌物でこの能力を発揮するのは難しい。言葉は一定の解釈、イメージをつくりすぎてしまうからである。しかし、その条件を越えて、「その場の空気感との融合能力、聴く者の精神状態との融合能力」を発揮する音楽はつくれないわけではない。民謡やスタンダードとして認知されている歌物がそうだ。それを作り出せるものは天才と称されるだろう。




■仮想空間でしか生きられない音楽

・具象的仮想現実(二次的、再編集的、あるいは新規的な主張性、物語性)ゆえに個人の好き嫌いに左右される
・寿命はその具象的仮想現実の真実性が決める
・その真実性によっては広く認知され、スタンダードになることもある
・二次元的


 たとえばアニメのテーマソングやキャラソンは、アニメありきである。そのアニメのためにつくられたものである。アニソンは物語性が高いため、アニメを知らない者でも楽しめるが、しかし、アニソンはアニメの中でしか生きれられない。なぜならばアニソンはあくまでアニメのゲシュタルトの中にあるからだ。つまりアニソンはアニメの世界観を補強するためのものであるため、時空からの影響を受け入れる余地、融合する能力は持たない。むしろそれは排除されている。そうでなければ、アニメは成り立たない。アニメは現実との不整合を問わないことを前提にしているのだ。ゆえに現実とは境界線を引いているのである。

 ゆえに聴く者は、自らアニメの世界、アニソンの世界に入っていくことでそのゲシュタルトとシンクロしなければならない。そのためには聴く者の精神状態が大事になる。心に余裕があって聴く気持ち、楽しむ気持ちになっていないと楽しめない、うまくその世界に入っていけない。つまりアニソンのようにイメージがかっちりしすぎているものは、それ自体を楽しむための音楽だ。聴く者が、自由に解釈してイメージを起こして自分勝手に楽しむための音楽ではない。

 ある音楽が、このカテゴリーに入るどうかは、個人で楽しむ際はヘッドフォンで聴かれることが多いかどうかでわかる。自らが精神状態を変えることで、その空想に入って行かなければならないゆえ、周囲から自己の精神を隔絶させる必要があるからだ。

 演奏会においては、映画がそうであるように、ホールやライブハウスなど締め切られた暗闇においてのみ開かれる。これもやはり、周囲から聴く者の精神を隔絶させる必要があるからだ。と同時に演奏者の精神も、その曲の世界にシンクロするために周囲から隔絶されなければならないからである。

 デジタルが当たり前となった現代では、音楽がヘッドフォンでひとりで楽しむもの、すなわち現実からの遊離を起こすものとして手軽に消費される傾向がある。その用途に合わせて作り手も音楽イコール仮想世界になっているのではないか。完成の定義がデジタルデータ化によるエフィメライゼーション(ephemeralization)であるならば、聴衆の前での生演奏は二の次だろう。ようは内容も売り方も漫画なのである。





■歌と実存

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 自分語りならば素人にでもできる。カラオケで楽しめる。自分が歌の世界に入れればいいだけだからだ。

 自分語りは自分と同じでないと共感を覚えられない。たとえば、おじさんが西野カナを聞いてもよくわからないだろう。西野カナは自分で歌詞を書いている。歌詞を読むと本人ないしは同性の友人が投影されているのがわかる。それゆえ若い女性にはリアルなのかもしれないが、おじさんからすると「きみはなんでそんなに会いたいんだ?」と疑問ばかり湧いてきてしまう。

 2000年代にギャルの教祖になった浜崎あゆみもそうだ。あゆも自分で歌詞を書いているが、そこで語られている「ワタシ」はギャルには圧倒的なリアリティがあった。しかしギャルではない人間からするとリアリティが薄い。あゆの歌は女性であること、ギャルであることが前提だから、いずれでもないおじさんには生々しさがないのだ。

 自分語りで、性別の違う、趣向の違う、住む世界の違う観客をもその世界に引き込めるとしたら、それはジェンダーを超えた人間としての生々しさを歌っているものだろう。

 それは魂を吐き出さないと歌えない歌。歌うことでむしろ傷ついてしまうような歌。


黒い涙 土屋アンナ


 尾崎豊が凄かったのは、何を歌うかよりも、どうやって歌ってたかということだ。尾崎豊は歌うこと自体が実存だった。その生き様は、結果として、彼を死に至らしめてしまったけれど...

※実存とは、現実存在、すなわち、肉体を持っている「今ここ」に生きているこの生々しい私のこと。愛、ユーモア、感情、欲望、苦悩、良心、想像力、創造力、意味への意志といった人間だけが持つ人間性としての私のこと。すなわち人間をくくる一番抽象度の高い私。しかし、誰とも違うこの自分のこと。上図参照

 だから普通は秋元順子の「愛のままで」のように歌手は歌手として実存としての人間を歌う。

 つまりお芝居として歌う。そうでないとあっちの世界に行ったまま帰って来れなくなってしまう。


 

■魂を持つ曲と魂が入る曲

 そもそもの話として、歌には魂を持つ曲と魂が入る曲がある。これについて考えることは、歌とジェンダーと実存に関する思考を深めるだろう。


●魂を持つ曲
ハイセンスでハイクオリティな楽曲。クラッシックなどの色褪せることなく時代を越えて受け継がれている楽曲。これは自らが依巫にならないと歌えない、演奏できない。自我で歌う者には歌う資格はない。自我で演奏する者には演奏する資格はない。魂に見合った技術を持っていない者には歌う資格はない。

●魂が入る曲
スタンダードジャズや民謡など、延々、巷間に伝承し、プロの歌手によってカバーされている楽曲。これは人形浄瑠璃と同じく、自らが魂を入れないと歌えない、演奏できない。作者自身ないしは、相応の技術を持ち、魂を入れることができる者にのみ歌う資格、演奏する資格がある。


●プロのシンガーとは
どんな曲も選ばずに歌うことができる。魂を持つ曲には依巫(よりまし)となり、魂の入ってない曲には自分で入れ、魂が半分しか入ってない曲にはもう半分を入れることができる人。自分で入れる場合には当然、その人個人の力量と存在が問われる。

●プロのシンガーソングライターとは
楽曲とは他の誰でもない自らの魂。楽曲と歌手とは一体であり分離不可能。



 たとえば、宇多田ヒカルが作って歌う歌は、宇多田ヒカル無しでは成立しえない。宇多田ヒカルの楽曲はどれであれ、宇多田ヒカルが歌わなければ意味を持たない。なぜならば宇多田ヒカルがつくる楽曲は本人の魂を持っているからだ。楽曲と本人とが一体なのである。

 宇多田ヒカルの楽曲は、すべてが自分の経験、思想、想像というわけではないだろう。本人がブログ等で語ったように古典文学や、小説からのインスパイアや、映画、ドラマ、アニメなどからの発注など、曲の背景は様々である。しかし宇多田ヒカルの楽曲に共通して言えることは、宇多田ヒカル自身が息を吹き込まなければ命を持ちえないということだ。これはかの尾崎豊と同じである。

 自分が歌うことを前提に自分でつくってるのだから当たり前と言えば当たり前の話である。しかし、その当たり前を打ち破った者がいる。それは他ならぬ宇多田ヒカルである。




■I LOVE YOU

 宇多田ヒカルは17歳当時(2000年)、尾崎豊のトリビュートアルバム「BLUE」(2004年発売)に収録されている「I LOVE YOU」を録音している。これは2000年8月23日の千葉マリンスタジアムでの『BOHEMIAN SUMMER Circuit Live』が音源のようだ。原曲の世界観を壊さないピアノ伴奏だけで、宇多田ヒカルの得意な震えを活かした歌唱は心臓を締め付け鳥肌を起させる。それはまさに尾崎豊が歌ってみせた「I LOVE YOU」の世界である。

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 これは通常ありえないことだ。なぜならここまで述べたようにシンガーソングライターである尾崎豊の楽曲は、彼の実存とは切り離せないのである。つまり尾崎豊によってつくられた楽曲は尾崎自身なのだ。魂を持った曲なのだ。だから尾崎豊の楽曲は彼自身が歌わないのなら意味も価値もないのである。

 しかし宇多田ヒカルはその事実を乗り越えて「I LOVE YOU」を歌い上げた。モノマネでもカラオケでもなく。男でも女でもなく。一個の人間として「I LOVE YOU」を歌っている。しかし、尾崎豊が我々に見せた世界と同じ世界を表現している。すなわち宇多田ヒカルは自身の自我ではなく、尾崎豊の魂に対して依巫として歌ったのである。宇多田ヒカルは尾崎豊の魂に見合った技術を持っているのである。

 カバーといえば徳永英明が売れたが、通常は、オリジナルとは違った解釈をして全く別の曲として歌うのが慣例だ。つまり魂を持った曲だろうが、持っていない曲だろうが、自分で魂を吹き込んで歌うのである。そうすることによってプロは、自らの力量を示すことができるし、オリジナルと優劣をつけさせないようにできる。もしオリジナルと同じ解釈で歌って、「やっぱりオリジナルのほうがよい」と思われてしまったのでは、自己の歌手としての存在価値が否定されかねない。

 これを「逃げ」と解釈するかはその人次第だが、前出の中島美嘉も2007年に「I LOVE YOU」をカバーしている。こちらは、アルバム「見えない星」バージョンとアルバム「YES」バージョンがあるが、どちらも原曲とは解釈を変えている。特にYESバージョン(ビデオクリップ版)は母性とは違うが、眠れない男に子守歌を歌うような純化された女性として歌っている。それは尾崎のいう「I LOVE YOU」とは違う世界だ。尾崎にまとわりついて離れなかった破滅の結末は影を潜めている。これはいうなれば愛の試練を乗り越えた後の「I LOVE YOU」だ。これからも試練は続くが、ともかくハッピーエンドのラストシーンである。


 宇多田ヒカルの思考を辿れば、全く別の曲にしてしまうのは敬意の評し方ではないという発想なのかもしれない。しかし、勇気のあるなしを通り越して尾崎豊を再現してしまうのだから尋常じゃない。

 実は「I LOVE YOU」はかなりの歌手がカバーしているが、みんな「オレが歌う」「ワタシが歌う」と前置きしないといけない全く別の歌である。ところが宇多田ヒカルはそんな前置きは必要ない。宇多田ヒカルが歌ったのは尾崎豊が歌ったのと同じ「I LOVE YOU」だ。

 こんなことをやってのけた者は他に誰かいるのだろうか?


 無論、中島美嘉の勇気も褒め称えるべきだ。先に宇多田ヒカルや先輩達がカバーしていたのである。さすがに宇多田ヒカルと同じことはしなかったが、見事に「I LOVE YOU」を自分のものにしている。中島美嘉の「I LOVE YOU」は聴いていると心が静まる。それは今日という日が終わり、鳥達も飛ぶのをやめてしまったかのような静けさだ。その愛は、夜がただ「汝の羽を休めよ」と星を輝かせているのに似ている。その世界は「OH MY LITTELE GIRL」に近い。それはきっと中島美嘉が、他の誰でもなく尾崎豊に向けて「I LOVE YOU」を歌ったからだろう。

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 実は「I LOVE YOU」はかなりの歌手がカバーしていると言ったが、尾崎豊に向けて歌った歌手も他にはいないのである。誰も彼も「オレが歌う」「ワタシが歌う」と前置きしないといけない全く別の歌なのである。

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 同じ歌を歌う以上、比較されること、尾崎豊のファンに批難されることは避けられないが、あるいはライオンハートでなければ歌手は勤まらないのかもしれない。
 




■これまでも、これからも

 流行歌は世相を表しているからヒットするというのもあるのだろう。しかし、流行を追うだけでいいのか?ファッションのように消費されて消えていく音楽は音楽なのか?という疑問を持っている人は多いだろう。

 民謡しかり、ジャズスタンダードしかり、なぜ100年前からある歌が今も残っているのか。人は時代に流されて変わっていくのに、なぜ100年もの間、その歌は人々の心をとらえつづけるのか。

 100年前からある歌、100年後も残っている歌は、やはりジェンダーを超えた視点のもの、人間の実存を歌っているもの、だけではないだろうか。民謡しかり、ジャズスタンダードしかり。

 ただし、歌ものは魂を持った歌だと歌い継ぐのは難しいだろう。歌なしなら別だが、親子でも声も魂もそっくり同じというわけにはいかない。天才がつくった歌なら、同格か、それ以上の天才でないと歌えない。

 100年後も誰かが歌っているのであれば、魂を入れられる歌をつくることはソングライターにとって挑戦しがいのある仕事になるだろう。果たして今の時代にそれを達成できる者がいるだろうか。

 無論、魂を持った歌をつくることもソングライターにとって挑戦しがいのある仕事だろう。尾崎豊も宇多田ヒカルも神として称えられているのだから。


 歌詞の抽象度が高くても低くても、人間の普遍的な営み、愛、夢、欲望、怒り、悲しみ、喜び、すなわち人間存在の真実が描写されているのであれば、つまり嘘がないのであれば、時代が変わっても共感できるし、「絵が見える」ものだ。結局のところ、そういう嘘のない歌だけが普遍性を持ち続けるのだと思う。(寸)
posted by 駿喆咲道 at 21:49 | TrackBack(0) | 音楽 | 更新情報をチェックする






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1978年生まれ、東京都在住。「人間とは何か、私とは何か」をテーマに、実存と人間関係の悩みに光を注ぐことを使命にしています。尊敬する人は『夜と霧』の著者 V.E.フランクル(ロゴセラピー)です。

私は常に「道」を求めて開発改善に努めています。それゆえ記事の投稿後も何度も推敲を繰り返します。それにより読者に損害が生じることは恐らくありませんので御安心ください。

なお、毒舌、エスプリ、おやじギャグ、スラングなどを用いたり、テキトーな言葉遊びによって人を煙に巻くような話をすることがあります。下ネタを発することもあります。その旨、ご注意ください。


I produced this template on August 29,2017.


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